8.アレルギーの増加と寄生虫の減少
アレルギーが近年増えた原因として、3要素が考えられると書いた。それは第一にアレルゲンの増加、第二に栄養条件の改善、第三に媒体である大気が車社会の進行のために絶えず撹拌されて落下花粉を、何回も空中へ巻き上げるようになったこと、である(図1)。
それに加えて最近、回虫など寄生虫感染の減少したことが、アレルギー増加の原因であるとの仮説が提唱された。
実はこの仮説を日本で口にしたのは、国立感染症研究所の井上栄、感染症情報センター長であり、藤田紘一郎・東京医科歯科大学教授がそれを剽窃して「笑うカイチュウ」(講談社)に記し、有名にした。
その根拠は、@少なくても試験管内では回虫はアレルギー反応を抑制する物質を分泌している、A1949年には63%だった日本人の回虫感染率が1990年代には0.02%までに激減した。B回虫感染率の減少にちょうど相反するようにアレルギー疾患が増えた、の3つとされる。
実際、日本人の国民病(?)であるスギ花粉症について見てみると、人体の血液中のスギ花粉に対する抗体の平均値を、1973年と約10年後の1984年〜1985年とで比較した、前述の井上栄氏の研究では、後者の抗体値は約4倍に増加しているとされる(図13)。
それに対してニホンザルでは、この40年間寄生虫感染率は不変で、そのためかやはりこの20年間スギ花粉に対する抗体値は不変であった(図13)。
寄生虫がアレルギーを抑制するメカニズムだが、寄生虫も人体に対して異物である以上当然アレルギー反応を惹起こしている。そのアレルギー反応が余りにも凄まじいので、寄生虫感染のある人体に今更ダニやスギ花粉が入ったとしても、それにアレルギー反応を起こしている余裕はない、とこの仮説では説明されている(図14.15)。
しかし世界中の論文を比較してみると、この論法で説明できることばかりではない。例えばエジプトのタンタにおける調査では、気管支喘息の症例で寄生虫感染との関連を調べているが、寄生虫感染が強くてIgE抗体全体の値(総IgE抗体値)のすごく高い症例でも、喘息の発作は抑制されていない。
それに寄生虫感染のある人体では、寄生虫に栄養を吸い取られてしまうから、逆に抗体生産能力が寄生虫感染例では落ちてしまうかも知れない。つまり栄養が悪いから、アレルギーが生じないとの説明も可能である。
そこでわれわれは、実際にアレルギー性鼻炎の疫学調査を実施したそのデータから、アレルギーと寄生虫感染との関連を検討した。
その結果、話題の「寄生虫によるアレルギー抑制説」とは矛盾する、いくつかの事実が判明した。
第一にわれわれは1989年より、毎年北海道白老町で小中学生を対象に調査を実施しているが、寄生虫感染率がすでに0・02%に低下しているこれら小中学生において、毎年アレルギー反応の陽性率は増加している(図16)。この増加傾向は、こんなに低い寄生虫感染率からは、説明不可能である。
第二に、われわれは栃木県栗山村でも同様の調査を行なっているが、これら2つの地域ともアレルギー反応の陽性率は、年齢の上昇と共に著しく増加する。ここでは代表して白老町のデータを示す(図17)。
確かに寄生虫感染率は、一般的に年齢上昇と共に低下するとされているが、感染率がわずか0・02%しかないこの日本で、それよりもごく僅か感染率がそんなに明確に増加するものだろうか。
第三に、われわれは日本国内だけではなく中国でも調査しているが、アレルギー反応の陽性率は日本の小中学生で高く、中国の上海の隣村の小中学生では低い(図18)。
この図では、スギ花粉・ダニ・HDいずれかのアレルゲンに対するスクラッチテストで、1種以上陽性となった症例を表しているが、上海の隣村の陽性率は30%前後で日本の40%前後に較べ、明らかに低い(チベットについては、稿を変えて触れる)。これが寄生虫感染率の差によるものかどうか、われわれは中国で検便を試みた。
すると上海の隣村の小中学生の寄生虫感染率は、日本の0・02%に対して0・08%であるに過ぎなかった。
中国でも10年前までは寄生虫感染率は63%もあったのだが、近年国家規模の寄生虫撲滅キャンペーンが行なわれ、劇的なまでに減少した。
ちなみに日本でも1949年に63%あった寄生虫感染率は、その10年後には20%以下となっている。決して中国のこの数値は、信じられないものでもない。
小中学生に引き続き南京医科大学でも、在学生を対象に同じ調査を実施したが、寄生虫感染のある症例でもアレルギー反応陽性率は非感染者と同程度であった(表4)。つまり寄生虫は、アレルギーを抑制しない。
われわれのこの報告は注目を集め、追試がいくつか行なわれた。
こうした「寄生虫によるアレルギー抑制説」の矛盾は、実際にはわれわれの調査を待つまでもなく、これまで公表されていたデータからも指摘できる。
例えば前述の井上氏の、1973年と1984〜1985年を比較したスギ花粉特異的IgE値の変化に関する研究がある(図13)。
これによると、73年の時点で血液中の総IgE抗体値もスギ花粉特異的IgE値も、さほど高くなかった。それに対して、84〜85年の血液のスギ花粉特異的IgE抗体値は73年のそれに較べて4倍以上の数値を示したが、総IgE値は高くなかった。
寄生虫説は、寄生虫が感染すると総IgE値が10、000近くにまで異常上昇し、今更スギ花粉などが体内に入って来てもそれに対して反応している余裕は無い、というお話であった。その仮説に従えば、73年の血液の総IgE抗体値はとても考えられないくらい、高い値を示さねばならないはずである。
この件についての、井上氏とわれわれとの議論の詳細を、ここでは敢えて公表する(図19〜21)。
また寄生虫説は、寄生虫感染率の変化していないニホンザルを比較の対象としているが、被験者(被験サル?)に選定が厳密でなく(図22)、結果も厳密さに欠ける。
自明の理であるが疫学調査は、その地域に在住するあるグループの全員を対象になされるべきであって、それら被験者は氏名も含めてすべて厳密に管理されなければならない。名前も判らない、その地域に何匹生息しているのか把握できていないニホンザルでは、疫学調査の対象にすらならない。
この寄生虫説は、最初からそんな齟齬に満ちていたのである。
さて、寄生虫感染とアレルギーの関係を調べたわれわれの疫学調査についての、追試の結果はどうだったのだろうか。
当時の科学技術庁のスギ花粉症研究班では、宮崎県と鹿児島県でブタ回虫の感染例に対して、調査を施行した。その報告は、ブタ回虫はアレルギーを抑制するどころか、増悪させてしまうという内容であった。
また南米エクアドルで、われわれとほぼ同じ内容の調査を行なった山梨医科大学耳鼻咽喉科のグループは、寄生虫説に否定的な結論を出した。
実を言うとわれわれの最新のデータ(図23)からも、寄生虫はむしろアレルギー反応を促進させているのではないか、との調査結果が得られている。
考えてみれば回虫が日本で減少したのは、戦後の食糧難を下肥と家庭菜園で乗り切った時期が終了し、下水道が普及したためである(図1)。
下水道普及は、平屋建て住宅の減少と1950年代のビル建築ブームによって、推進されて来た。ビルブームはアパートやマンションの建設に繋がり、高気密高断熱住宅の増加をもたらす。先に触れたように高気密高断熱住宅は、これまでの局部暖房・間欠暖房の日本人の生活習慣では、室内の湿度を上昇させダニを増加せしめる。その結果、ダニのアレルギーも増加することとなる。
一見、寄生虫の減少がアレルギーの増加をもたらしたように見えなくはないが、実際は直接の関連性に乏しい。
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