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嗅覚・味覚障害

嗅覚障害

人間の感覚は五感と言われます。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。これらのうち、視覚・聴覚はドイツ語で”精神に近い感覚”と呼ばれ、思考・思索に関与することが多い、とされています。それに対し嗅覚・味覚は、”生命に近い感覚”と称されます。人間が生命を維持する、基礎的な部分に関わっているからでしょう。

確かに人間の生命維持は、自己の固体保存と自分たちの種族保存から成っており、嗅覚はとくにこの両者に深く関与しています。固体維持のために食物を摂取する、その際に食物が腐っていないかどうか確認するのは嗅覚です。また種族保存の目的で異性を探す、この場合にもフェロモンなどの匂い物質(においの素という意味で嗅素と呼びます)を介して関与している。それはやはり嗅覚です。

他方で嗅覚は、自己と自己を取り巻く世界とを結びつけている、もっとも原始的な感覚と考えられています。プルーストが”失われし時を求めて”の中で、マドレーヌを口に含んだ瞬間、お菓子の香りとともに過ぎ去った子ども時代の情景が、体感として突然蘇って来る。そんなエピソードを記しています。このような現象は、五感の中でも嗅覚に特有なものです。

人生の途上で、自己と世界との接し方を確立せねばならない思春期に、自らの体から嫌なにおいが発生していて、他者が自分をうとんじる。そんな妄想の生じることがあり、自己臭妄想と呼ばれます。この妄想は例えば、”電車に乗っていたら、隣に立っていた男の人が急に電車を降りた、あれはこの私の体から嫌な匂いが出ているために、それを避けたのだ”。そんな形で表現されます。これも嗅覚という自己と他者を結びつける感覚の独自性と、無関係ではなさそうです。

もう一つの嗅覚の特徴として、疲労現象があります。これはかなり強い匂いのそばにいても、最初こそその匂いがキツく感じられるものの、やがてその匂いが気にならなくなる。いわば、慣れみたいな現象ですが、索敵行為がその目的かと思われます。つまり、嗅覚を通じて動物は敵の行動を察知します。そしてこのためには、常に新しい匂いに敏感でなければなりません。常在する匂いに囚われず、自分のテリトリーに侵入する敵の匂いを一瞬にして捉える。嗅覚の疲労現象は、そういった目的には実に合理的と言えます。これも嗅覚が、生命の維持に密接に関連している証かも知れません。

この嗅覚を感じ取るのは鼻内の、位置的には目と目の間の鼻粘膜です。嗅粘膜と呼ばれるここは、ちょうどわさびを食べたときに強烈なツーンと来る感覚を覚える、あの部位のすぐ傍に存在します。

今の例えやプルーストのエピソードからも判るように、嗅覚は鼻の穴から入って来る嗅素だけでなく、口腔内で発生し後鼻孔を通じて鼻腔に到達する嗅素の、両方を感じ取っています。前者ももちろんそうですが、とりわけ後者は食事の風味を繊細に味わい分けるのに重要です。例えば蕎麦を頬張ったとき、のど越しに蕎麦の絶妙な香りを楽しむ。それこそ後鼻孔を通った蕎麦の嗅素の独壇場です。そんな理由で嗅覚が障害されると、まるで味覚までだめになったような気がします。味覚そのものには異常が無いのですけれども。この状態を、純粋な味覚障害そのものの障害と区別して、風味障害と名付けることがあります。

ところで嗅覚障害の原因ですが、圧倒的に鼻そのものの疾患が多いようです。アレルギー性鼻炎、急性もしくは慢性の副鼻腔炎、そして風邪に起因する急性鼻炎などがそうです。前二者では鼻粘膜がひどく腫れ、嗅素が嗅粘膜まで届かないために嗅覚障害が生じます。急性鼻炎では、鼻づまりの他にウィルスが直接嗅神経を冒している可能性もあります。なお、前二者でも放置されて炎症が長引くと、嗅神経がダメージを負い、治りにくくなります。

また交通事故での後遺症の一つとして、嗅覚障害の現われることがあります。殊に頭部外傷に際して、においの判らなくなることが多いようです。嗅神経は、他の視神経や聴神経などの脳神経と異なり、大脳そのものの一部が頭蓋底に緊密に張り付くように、鼻内へ延びています。この為、いわば”たわみ”が少なく、頭部外傷のときすぐに傷付き易い、そんな構造的な特徴が関係します。交通事故による嗅覚障害が直りにくいのも、そのせいかと思われます。

前回、嗅覚は生命の維持に密接な関連がある、と述べました。したがって生命力の低下と考えられるデプレッション(うつ病)のときに、匂いがにぶくなることもあります。デプレッションの状態を形容するのに、”世界がすべて冷たい石になってしまった”という言い方をしますが、匂いも味もしない生命力の感じられない境遇を、良く表現していると思います。つまり生体を維持する食物を目の前にしても食欲が湧きにくく、種族保存の対 象である異性を探す元気も無い、そういう味でしょうか。全身的な不定愁訴(捉えどころの無い漠然とした体調の悪さ)があり、それに伴って匂いが判りにくくなったら、このデプレッションも考慮すべきです。

嗅覚障害の検査法として、甘い匂いやこげた匂いなど、5種類の基準臭を濃度別に紙片に付け被験者の鼻入口部に提示し、匂いが判るかどうか判定する方法があり、オルファクトメーターと呼ばれます。この方法は手間が掛かりますので、以前はアリナミンを血管注射し、発生するにんにく臭を嗅ぎ分けさせる、静脈性嗅覚検査が良く行なわれました。ところがビタミン製剤であるアリナミン注射液が、皮肉なことにそのにんにく臭が強過ぎるとの理由で製造中止となり、本法は実施できなくなりました。改善(?)された製剤では、にんにく臭が弱過ぎるのです。

嗅覚障害の治療は、局所疾患による障害が多いことから、嗅粘膜部に薬剤を塗布する方法が主です。この薬剤としては、鼻粘膜収縮剤とステロイド剤が使用されます。嗅粘膜は鼻内前方の目と目の間に位置しますので、ベットの端に仰向けとなって懸垂頭位をとり、薬剤を嗅粘膜めがけて点鼻します。局所疾患による嗅覚障害ならば、早期開始の本法でほとんどが改善するようです。もちろん嗅覚障害を長引かせ、こじらせてしまってからではダメですが。

この嗅覚障害、そんなに重大でない疾患のように軽んじられがちですが、その実結構不自由です。食物がくさっているかどうか判らない、ガス漏れがあって危険な状態でも気が付かない、などの生命の機器に関する不便。コーヒーを飲んでも苦いお湯としか感じられない味気なさ、日本酒を嗜んでもただ酔っ払うだけの不粋さ。あの高価な松茸だって香りがなけりゃ・・・ 。それは単なるきのこになっちゃいますよね。

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