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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集



 百年の恋も醒める病気・スギ花粉症。いまや日本人の国民病とすら形容されるこの疾患に、春の訪れが恨めしい方も少なくないことでしょう。

 耳鼻科医が商売で、スギ花粉症の季節はまたとない繁盛の時期であるはずの私には、しかしこのシーズンは切ない選挙のさなか、との印象がこびりついています。

 4月24日、衆議院宮城二区統一補選で国会議員となった秋葉賢也議員と初めて知り合い、その後援会長を引き受けたのは17年前のことだったように思います。当時秋葉君はまだ松下政経塾に在籍中で、無名の新人でした。

 その秋葉君が、仙台市泉区から県議会議員選挙でデビューを飾ったのは、忘れもしない1995年4月のことでした。なぜ、忘れもしないのか。それはその年が、史上空前のスギ花粉大飛散の春だったからです。

 1993年の寒い夏、細川内閣による外米輸入のあった翌春は、冷夏の影響でスギ花粉飛散の記録的減少となりました。そしてその94年はみごとな夏となり、95年春に記録的スギ花粉大量飛散を来すことになります。

 仙台市にその大量飛散が発生したのは、95年3月21日の春分の日でした。この日は、屋内に非難していれば無事過ごせる花粉症患者も、どうしてもお墓参りに外出せねばなりません。おまけになぜかお墓という代物は、スギ林の傍にあることが多いものです。

 翌3月22日から、私のクリニックは悲惨な状況となりました。朝から詰め掛けた花粉症患者は無限に増え続け、ノンストップで診療にあたるクリニック職員の努力を嘲笑うかのように、6時半の受付終了後も2階にあるクリニック入り口から階段を占拠し、1階のビル入り口の外まで溢れています。

 通行人が不思議がり、「2階でなにかイベントをやってるんですか?」と、居並ぶ患者さんに聞いています。患者さんの中には一旦帰宅し、夕食と風呂を済ませてもう一度診療待ちの列に並び直す方もおられます。ナースや事務員そしてこの私も必死で診療にあたるのですが、焼け石に水状態です。

 この日診療が終了したのは、夜10時半のことでした。今でも私や当時からのスタッフの心には、あのどこからともなく増え続ける花粉症患者の姿が、恐怖とともにこびりついています。

 そんな中、4月に入って秋葉君は泉区トップの得票数で初の当選を果たします。彼はその後も、仙台一の得票数、宮城県一の得票数と票を延ばし、県会議員を3期務めます。もちろんその都度、後援会長の私はスギ花粉飛散に悲惨な思いをしながら、応援演説に駆け回ったものです。次の選挙は絶対に、花粉症と無縁の7月に行なわれる仙台市長選にすべきだ。私が聡明にもそう判断したのは、客観的情勢だけが根拠だったのでしょうか。

 無情にも秋葉君の運命は、私の激動の人生を象徴するかのごとくドアを叩くのでした。

 10年前をそのままトレースするかのような2003年の冷夏、次いで04年の長い夏が過ぎました。05年春は、10年前以上のスギ花粉飛散量となることが、絶対視されるに至ったのです。

 この1月、毎年私のクリニックでレーザー治療を受けている、花粉症の村井嘉浩・自民党宮城県幹事長がニコニコして受診し、私にこう告げたのです。

 「二区の補選、公募になりましたからね。秋葉さん、出てくださいよ。」

 安倍晋三さんの提案した候補者公募制に応募した秋葉君は、10年前を上回る花粉大量飛散の中奮闘します。
 自民・民主の総力戦となったこの選挙では、自民党の議員244名とその秘書約1200人が来仙し、ドブ板選挙を行ないました。小泉首相・武部幹事長・安倍幹事長代理も来仙し、数度にわたって応援演説してくれました。

 後援会長の私も、負けてはいられません。毎週50名を越すレーザー手術をこなしながら、毎夜選挙事務所で会議です。

 そんな懸命の努力が実ったのか、4月24日秋葉君は衆議院議員となりました。

 ほっとして選挙のことを振り返りながら、しみじみ私は思いに耽ります。国民病とはいえ、スギ花粉症の悲惨さを、私のような形で味わう人間が他にいのだろうか、と。

 
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関連リンク: 用語集 花粉症
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