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三好耳鼻咽喉科クリニック開院十五周年記念&コミック出版記念パーティー(3)スギ花粉症研究のお話

関連リンク: 開院15周年記念パーティー「スギ花粉症研究のお話」(ムービー)

スギ花粉症研究のお話 [ 1ページ | 2ページ ]
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図1

今や日本人の国民病と言われる花粉症。予備軍も含めると日本人の60〜70%の人がこれに怯えているとも伝えられ、ほったらかしにできない病気です。

なぜってこれにやられたら、くしゃみ・鼻みず・鼻づまりがおさまらなくなって、眼だってくしゃくしゃになってまるでお岩さん状態。100年の恋も醒めるとも言われ、やっと訪れた春だというのに、恋も語れなくなってしまいます(図1)。

なお国民病とは言っても、花粉症の原因はところによって違います。

日本全般に多く見られるのはスギ花粉症ですが、関東より西ではヒノキ花粉症も多発します。北海道ではシラカバ花粉症ですし、東北の岩手県ではカモガヤ花粉症がすごく目立ちます。

図2:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

そう言えば欧米で花粉症と言うとき、その原因はスギではありません。
ヘイ・フィーバーと呼ばれる英国の花粉症はカモガヤによるもの、米国のヘイ・フィーバーの原因はブタクサです。
どうして地域によって花粉症の病態がこんなにも、違ってくるのでしょう。

その原因を探るとき、世界で初めて花粉症という病気の発見された英国の歴史が、われわれに考えるヒントを与えてくれます。

世界で初めての花粉症、それは19世紀初頭の英国で農民が牧草を刈り取って乾燥のためにサイロへ収納する際、出現しました。つまりそのとき、人によっては鼻からのどにかけて焼け付くような痛みと痒みが生じ、くしゃみ・鼻みず・鼻づまりの止まらなくなることが知られていました。

そして当時この症状は熱っぽくなることからか、枯草熱と呼ばれました。
後日この症状は牧草であるイネ科、ことにカモガヤによるアレルギーであることが判明しますが、当時は感染症の1種と考えられたみたいです。とにかく英国には牧草地が多く、花粉症の原因であるカモガヤが繁殖し易いのです。

図2は、オックスフォードからケンブリッジへ向かう車の中から撮影したものですが、本当に英国には森林が少なく牧草地の広がっていることが理解できます。

図3:各国の森林面積率と土地の利用率 英国では牧草地が多く、日本では森林が多い
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図4:画像をクリックすると 拡大図がご覧いただけます

ところで英国といえば、ロビンフッドの活躍したシャーウッドの森、アーサー王伝説の妖精の潜むオークの大木たち、というイメージがあります。
そんな木々の追憶の中にある英国ですが、なぜか今では森林は国土全体の面積の9%にしか見られません。それどころか現在の英国は、国土の45%が牧草地と化しており、この広さは世界一と伝えられます(図3)。

こんな広々とした牧草地には、英国の花粉症の原因であるカモガヤが、いたるところに繁殖しているのです。

そして毎年初夏には、それらを牧草として家畜に与えるべく、子どもの背丈ほどもあるロールに作成し、サイロの中へ保存するのです。当然この時期英国は国中がカモガヤの花粉で溢れんばかりです。

図4は私の娘の学校のあるサフォーク州の光景ですが、巨大なカモガヤ・ロールの至る所に転がっている様子が、良く見て取れると思います。娘の学校を訪問するには、空港でレンタ・カーを借りて学校までドライブするのですが、このシーズンに走っていると花粉がもうもうと舞い上がります。それを吸い込んだ人がどんな思いをするのか、容易に想像できるのです。

英国で世界初の花粉症が発見されたのは、決して偶然ではなかったと認識を新たにするわけです。
それにしても英国では、どうしてそんなにもカモガヤの繁殖する牧草地の面積が、広くなってしまったのでしょう。 

これをお読みの皆さんにはしかし、大英帝国の軍艦の建造に、一隻あたり樹齢百年以上のオークの大木が、二千本は必要だったという事実をお伝えするだけで十分かも知れません。

ギリシャ・ローマ・スペイン・ポルトガルと、世界の海を制覇していた国が没落するのには、共通の理由があります。
軍艦製造のために国内の木々を切り倒してしまい、新たな軍備が不可能となってしまうのです。ですから英国の直前に海の覇者であったスペインなど、無敵艦隊が英国海軍により大敗すると、それ以降の大規模な艦隊編成が困難となり、英国に世界の海を譲り渡すことになります。

ついでに付け加えれば、スペインの無敵艦隊の戦法は昔ながらの肉弾戦、つまり船ごと敵船に突っ込み、戦闘員がなだれ込んで敵の人員を殲滅するそれだったのです。これに対して英国海軍の戦法は、舷側の砲門を活用して火力で戦う近代戦のやり方でした。この面でも、英国はスペインよりも優位に立っていたと形容することができそうです。

図5:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

ともあれ木々を切り倒したその跡地は、ギリシャ・ローマのような乾燥した地域では草木の生えない荒地となります。それに対して湿潤な気候の西ヨーロッパでは、牧草が芽生えて来ます。

こうして軍備のための木材の供給が不安定だった国々に較べ、英国ははるかに恵まれていました。国内のオーク材はまだ消費され尽していませんでしたし、植民地だった北米からも、木材の搬入は可能だったのです。

これらの木材がどんなに英国を救ったか、それはナポレオン(図5)のためにオランダやポルトガルがヨーロッパから姿を消したあの時期、英国だけが国境を守り切ることができた事実を思い浮べても、容易に理解できます。

ちなみにナポレオンは1804年に皇帝の地位に就きます。
ベートーヴェンとの有名なエピソードはこのときのものです(図6・7)。

図6:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

皇帝ナポレオン

1804年12月2日に即位式を行い、皇帝位に就いた(フランス第一帝政)。このことは多方面に様々な衝撃を与え、彼を人民の英雄と期待し「ボナパルト」という題名で作曲していたベートーヴェンは失望してナポレオンへのメッセージを捨て曲名も『英雄』に変えてしまった。ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、軍人は国防大臣のみであったが、ナポレオン自身が軍人であり、軍人が国家元首を兼ねる限り、事実上の独裁者、独裁政治へと変貌して行く事になる。

図7

図8は長崎の出島ですが、世界中にオランダという国家がこの出島にしか存在しなかった時期があります。つまり1810年にオランダがフランスに併合され、1811年にはバダビアが英国の支配下に置かれます。そしてこの後、1815年に後述するような流れの中でネーデルランド大国が成立するまで、全世界でオランダ国旗が翻っていたのは、出島だけだったのです。つまりオランダはヨーロッパには存在しなかった、ということになります(図9)。

図8:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

1810年、オランダがフランスに併合され、翌11年にはバタビアがイギリスの占領下に置かれたため、1810年から3年間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。
この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合せていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、それでも文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えました。この頃、商館長所有の「ショメール家庭百科辞典」を幕府が600両で購入したという記録は、当時のオランダ商館の厳しい財政難を物語っています。 その後、1815年にはネーデルランド大国が成立。つまりこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだったのです。

甦る出島 出島ヒストリー

図9

ポルトガルにも、似たような事情が起こりました。

図10:ブラジルの子供たち
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図10は、私がブラジルでアレルギー調査を実施したときの写真ですが、1つの教室を覗くとご覧のようにさまざまの混血の子供たちが、集まって来ます。これこそ、ナポレオンに駆逐されたポルトガルがブラジルのリオデジャネイロに首都を設けた折の名残、そのものなのです。そのときポルトガルからは白人が、奴隷としてアフリカの黒人を連れてブラジルへ移住し、現地住民と渾然一体となって生活しました。その結果混血が進み、白人の両親のもとにいかにも現地らしいこんがりと焦げた肌の子どもが生まれる、一見奇妙な現象が当たり前になったのです。 

なお、図11は調査の折、アマゾン河口にて撮影した私の写真です。
ナポレオンがヨーロッパをほぼ支配下においたそんな時代の流れを、塞き止めたのは1805年のトラファルガー海戦でした。図12は、英国海軍を率いてナポレオンの海上支配の夢を断ち切ったネルソン提督の絵です。ネルソン提督はご覧のように、右腕がなかったそうです。

図11:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます 図12:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

図13に、トラファルガー海戦100年のことを回想したタイムズ紙の社説をお示ししましたが、ここに記されているようにこの戦いは木造軍船最後の大決戦でした。

イギリスが国家として存立しているかぎり、そしてイギリスの歴史が地球上のどこかで記憶されているかぎり、トラファルガル海戦の記憶はけっして薄れることはないであろう。それはあまりに超絶した出来事で、その影響において広汎、その規模において壮大、その事件において劇的、その破局においてあまりに悲劇的であるがゆえに、ただ一つの出来事でこれに匹敵するような事件を世界史上に見いだすのは困難である・・・。
  これによって欧州大陸の相貎は一変し、かの一大ドラマを演ずべき世界の舞台がととのったのである。このドラマは幕から幕へと劇的な展開をみせて、ついに10年後にワーテルローで大団円をむかえることになる。くわえて、トラファルガル海戦は帆走軍艦による海戦の時代としては、最後の大決戦だった。

    1905年10月21日、トラファルガル海戦
100年祭に際してタイムズ紙に掲載された社説

図13

そしてフランスか英国か、いずれの国かが7つの海を支配することになる、その運命を決定するこの海戦で勝者となったのは英国でした。

ナポレオンはその英国に報いるつもりで、全ヨーロッパの諸国に英国に対する経済封鎖令を発します。けれども当時、すでに産業革命に入りつつあった英国のさまざまな産業製品の封鎖では、輸出できなかった英国よりも輸入できなくなってしまったヨーロッパ各国の方が困窮する結果となりました。

図14:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

そして1810年にはまずロシアが、対英貿易を再開します。それに怒ったナポレオンは、1812年にロシア遠征を行ないます。この模様については、チャイコフスキーの「序曲1812年」(図14)に見事に描写されていますが、ナポレオンは冬将軍にさんざんな敗戦を喫します。

すると、これまでナポレオンに苦杯を舐めさせられて来たヨーロッパ諸国が、共闘してパリへ進軍します。そしてナポレオンは皇帝の地位を退位し、エルバ島の領主として流されます。

図15:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

ナポレオン不在のヨーロッパをどうすべきか、1814年に各国がウィーンに集合して協議したのが図15のウィーン会議です。けれども会議は "Der Kongress tantzt"と題されるように、「会議は踊る、されど進まず」という状況を呈します。そのうちにナポレオンがエルバ島を脱出して皇帝に復位します。

しかし、さすがのナポレオンも今回は周囲の状況が不利であり、その復活は百日天下に終わります。1815年のワーテルローの戦いで決定的敗戦を被り、ナポレオンは今度はセント・ヘレナ島へ流刑となります。

その地で1821年、ナポレオンは51年の生涯を閉じるのです。
こうした一連のナポレオンとの戦いの経緯で、英国海軍を支えた豊かな木々はやがて使い尽くされ、英国も資源が枯渇するようになります。

それでは英国海軍も、軍備資源の不足から他の歴史の中の大国たちのように、衰微の道を辿ったのでしょうか。

いいえそのとき世界の海を制覇していた大英帝国では、産業革命が進行しつつありました。

しかし、産業革命の核心は蒸気機関の採用と鉄と石炭の活用にあった。蒸気機関は本来は鉱山の排水用であったが、ジェイムズ・ワットが改良し、広く普及した。近世のイギリスでは、もっとも重要な工業用原料は羊毛であり、交通手段などに使われる動力は馬、建築・造船などの資材はおおかた木材であった。燃料の多くも木であった。鉄と石炭も少しずつ使われるようになってはいたが、なお、良質の鉄は木炭でしか作れなかったため、すでに16世紀には「森林の消滅」と呼ばれる生態学的危機にみまわれていた。したがって1706年にエイブラハム・ダービが開発したコークスによる製鉄法の開発は、資源・エネルギー問題の決定的な解決につながった。1784年にヘンリ・コートによってパドリング法が開発され、コークスによって鋼鉄を生産することも可能になった。

   世界各国史11 イギリス史
山川出版社

図16

それまで木材を材料としていた軍艦は鋼鉄の舟に変わり、それを動かす動力も大木を使用したマストではなく、コークスを燃料としたそれとなります(図16)。

図17

この故に、英国はそれまで以上に7つの海を駆け巡り、世界の大英帝国であり続けることが可能だったのです。

こうした英国をめぐる世界の歴史、ことにナポレオンとの戦争の痕影が、英国における9%の森林面積と45%の牧草地となりました。そして牧草であるカモガヤが大量に繁殖し、全土に花粉を撒き散らします(図17)。

それこそが、英国で世界初の花粉症の出現した最大の原因であり、言葉を代えるならばナポレオンこそが花粉症発現の、最大の責任者だと言えなくもありません。

一見、何の関係もないように見える花粉症とナポレオン。
人間の歴史の妙味をここに感じるのは、独り私だけでしょうか?

ここまで英国で世界初のカモガヤ花粉症が出現した経緯について、お話ししました。そしてそれは、花粉症の原因植物であるカモガヤの繁殖する条件が、整ったためであることに触れました。

それではこの日本で、スギによる花粉症が激増したのは、いったい何故でしょう。
スギなんて日光杉並木で有名だったように、木そのものは江戸時代からたくさんあったはずです。でも当時スギ花粉症がひどかったとは、聞いたこともありません。それなのに突然、国民病と言われるほどに増加したのは、何か理由があるのでしょうか。

図18:スギ林の造林面積の年次推移と花粉発生の盛んな林齢31年以上のスギ林面積
画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

実は英国のカモガヤ花粉症と同様、スギ花粉も急激に増えた時期があったのです。

それは戦後復興のために山々の木々を切り倒したその結果、日本全国ハゲ山だらけになったため、治山治水が大問題となりました。その対策として、1950年代に一斉にスギ・ヒノキが植林され、北海道と沖縄を除く日本中がスギ・ヒノキで占められるようになってしまったのです。そしてこれらスギ・ヒノキは、そのほとんどが樹齢30年になると花粉を飛散させるようになります(図18)。

ですから、全国的にスギ花粉が飛ぶようになったのは1980年前後となるはずで、これは1979年に初めてスギ花粉症が社会問題化した事実と見事に合致します。

日本のスギ花粉症も英国のカモガヤ花粉症と同じく、原因植物の激増が背景となって出現していたことになります。

図19 図20

スギの植林面積の増加がスギ花粉症激増の背景にある。そんな当たり前のことが、けれどもなかなか理解されづらいのは奇妙なように感じます。

しかし実際には、現代日本の花粉症増加についてさまざまの俗説が流布されており、聞く人を混乱に陥れます。

それは例えば、大気汚染により花粉症が増加したとの大気汚染説であったり、回虫など寄生虫感染の減少が人間のアレルギーを増加せしめたという、寄生虫によるアレルギー抑制説だったりします(図19)。

しかしこれまで私の話を聞いて頂けばお判りのように、花粉症などアレルギーの増加するのは、原因物質(これをアレルゲンと呼びます)が増えたためでしかありません。つまり世の中のすべての事象に共通な、原因が増えれば結果が増え、原因が少なくなれば結果も減る、その法則は不変なのです。

第二次世界大戦前は、日本人には見られなかったスギ花粉症。それが突然国民病の栄誉(?)に輝くには、その原因物質(アレルゲン)であるスギの木そのものの増加が、深く関与しているわけです。

戦後、復興のために日本国中の木々は切り倒され、全国至るところでハゲ山が観察されるようになります。これらハゲ山は保水力がありませんから、ちょっとした雨が降っても、大洪水が起こります(図20)。

具体的には1947年のキャサリン台風の際には、赤城山と榛名山に降ったそれぞれ400ミリの豪雨によって、大災害が発生しています。赤城山では山津波が生じ、土砂が利根川に流入しました。この結果下流では堤防が決壊し、東京都内だけで38万人が被災しています。

それに対して1981年の台風15号のときには、榛名山で590ミリもの豪雨に見舞われたにも関わらず、被害は発生しませんでした。

これはつまり、その間に全国一斉にスギ・ヒノキの植林が行われた、そのためです。そしてこうした一斉植林は、1950年代にもっとも多く行われたのです。

スギはそのほとんどが、樹齢30年を迎えると毎年一定量の花粉を飛散させるようになります。ですから1950年の30年後の1980年頃に、スギは花粉の大量飛散を来たすはずです(図18)。

そして確かに、この日本でスギ花粉症の増加が社会問題になったのは1979年で、それはスギそのものやその花粉の増加と時期的に一致します。

ところで19世紀の英国や第二次世界大戦後の日本のようにハゲ山をこしらえ、その結果引き起こされた水害のために山々に木々を植えようとしている国があります。

図21:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

それはなんと日本のお隣の国、中国です。
中国でも英国や日本のように木々を切り倒してしまった時期があります。それは1958年の大躍進のときのことです。その折中国では世界の一流国に肩を並べるべく、毛沢東の号令の下粗鋼の生産量を上げようと、狂奔状態に陥ったことがありました。

中国の全人民は、このために家庭の鉄製品をすべて溶かして粗鋼として国家に提出せねばならず、その燃料として山々の木々を使い尽くしました。その模様はあの「ワイルド・スワン」にも書いてありますが、中国全土はほとんどハゲ山だらけとなってしまいました(図21)。

 

中国でも日本と同じことが起こります。保水機能の無いハゲ山の下流の長江(揚子江)が、大洪水を起こしたのです(図22)。1998年の新聞には、人民解放軍を指揮した江沢民主席の大氾濫に立ち向かっている姿が報道されましたが、あの長江の大洪水だって、大躍進の結果と表現できなくはないのです(図23)。

図22:1998年の長江の大洪水により破壊された武漢市(長江の中ほどに位置)の堤防
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図23:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

そして中国は水害対策として、これまた日本と同じように山々に木々を植えました。その植林された木々の中に、これまたなぜか日本と同じくスギの木が多数混じっていたとされるのですが、スギがわざわざ選ばれた経緯については、実は良く判っていません。

それにしても中国ではなぜ、さまざまある樹木の中から、花粉症の原因となり得るスギの木を選んで植樹したのでしょうか。他のいかなる樹木でも、治水治山の目的には不自由しなかったでしょうに。

私たちは中国共産党揺籃の地である井岡山の光景を見たとき、そのなぞが解けたような気がしました。なぜならこの井岡山は全山がスギに覆われており、当時の毛沢東の寓居だってスギ林の目前に建っています(図24・25) 。

図24:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます 図25:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます 図26:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

なお井岡山は、孫文没後の国民党軍による共産党虐殺事件の直後に、毛沢東が生まれたての共産党を組織し、立てこもった聖地です(図26・27・28)。

図27 図28

井岡山在住の市民も、スギのある生活に馴染んでおり、スギ並木の下では、お婆さんたちが太極拳に励んでいます。この光景と中国のスギ植林とは、どうやら密接な関係がありそうです(図29)。

図29:スギ並木の下で太極拳を楽しむ現地の女性たち(井岡山にて)
図30

こうしてみると、将来的に中国でもスギ花粉症の多発する可能性はありそうです。そしてそれは、中国共産党揺籃の地である井岡山に、スギの木がたくさん生えていて、毛沢東とともに革命を戦った若い中国共産党幹部の頭に、その光景が染み込んでいたことと関係があるのかもしれません。

卵から孵ったひなが、目の前で動くものを何でも親だと勘違いし、その後をついて歩くという話を聞いたことがあります。これをインプリンティング(刷り込み)と称するのですが、若き純真な中国共産党幹部の頭脳に刷り込まれた井岡山の光景が、もしかしたら植樹と聞いたときに、そのまま思い浮かんだ可能性はあります。つまり、インプリンティングです(図30) 。

先刻、中国でスギの植樹させた理由については、良く判っていないとお話ししました。しかしあえて大胆な私の推測を申し上げますが、それは井岡山に毛沢東がこもって中国共産党を確立したその経緯に、なぞを解く鍵があります。

それこそが、中国共産党幹部におけるインプリンティング現象だったというわけです。さらに今なおスギは中国において緑化運動に役立つ有用材として、中国各地で植樹され続けています。

もしかしたら、何年か経つうちに中国でも、スギ花粉症が猛威を奮うようになるのかも知れません。その頃にはスギ花粉症は、日本人だけの国民病ではなくなっているのかも知れませんね。

さて、中国でもスギの植樹が治山治水対策として、おおいに行われるようになった。その結果として中国でも日本のように、スギ花粉症が将来多発する可能性が出て来た。そう書きました。

それをお読みになって、はてなと思った方もおられたかも知れません。
なぜならスギ花粉症はその発見以来、日本特有の花粉症と考えられて来たはずです。中国にスギ花粉症なんて、存在したのでしょうか。

スギ花粉症が日本固有と誤認されたのは、スギ花粉症の原因物質つまりアレルゲンである日本杉が、日本にしか植生していないと錯覚されていたせいです(図31)。

図31:スギ花粉症の発見者自身が「スギは日本の特産」と明記している。
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図32:中国雲南省のスギ山 緑化運動のために植えられた
(国立国際医療センター 帖佐 徹氏撮影)
画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

けれども私たちの共同研究者である、国立国際医療センターのスタッフの観察では、中国は雲南省のハゲ山に、スギが植樹されています(図32)。それに私たち自身の調査でも、中国の被験者でスギにアレルギー陽性反応を示す人が少なからず認められます(図33)。

図33:アレルゲン別スクラッチテストの陽性率
(私たちの各地におけるアレルギー学的調査結果から)
画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます
図34:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

以前にも、スギの生えていないはずの北海道白老町での調査で、スギに陽性反応となる被験者が見られたことがあり、この際には町内にスギ人工林の存在することが確認できています。

図35:画像をクリックすると拡大図がご覧いただけます

その前例から考えると、中国にも絶対にスギが生えているはずです。
実際に中国の文献を調べると、中国の華東や華南を中心に、スギ花粉飛散の見られることが、判ります(図34)。加えて日本の資料にも、中国産スギ(柳スギ)が中国各地に植生していることさえ、明記されています(図35)。

日本特有と錯覚されて来たスギ花粉症。そのスギ花粉症の原因物質であるスギが、名前こそ柳杉と称されていますが、中国でも観察されるのです。


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関連リンク: 用語集 学会発表
  No.174 院長の学会発表ファイルより(1)
  No.174 院長の学会発表ファイルより(2)
  No.174 院長の学会発表ファイルより(3)
  No.174 院長の学会発表ファイルより(4)

 

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