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仙台藩白老陣屋物語のお話
木町通小学校長  平山 敏正 先生
 仙台市立木町通小学校の元校長、平山敏正先生が
昨年7月に書かれた白老陣屋にまつわるお話です。

白老町の昔と今

 ただ今、北海道を舞台に、主要8ヵ国による首脳会議(北海道洞爺湖サミット)が開催されています。物々しい警備の中、地球温暖化対策などについて論議が交わされています。

  さて、サミット会場の洞爺湖から西の方角に位置したところに、『白老町』というほぼ人口2万人ほどの小さな町があります。かつてアイヌの町として栄え、現在は観光地として名が知られています。実は、仙台市はこの白老町と「歴史姉妹都市」を提携しています。ご存知でしたか?

  提携された期日は昭和56年5月8日のことですから、もうすでに満27年が経過しています。当時、仙台市と白老町との歴史的な深いゆかりに基づいて、白老町と相互に教育・文化・産業・経済など広く交流を図り、友好と理解を深め、相携えて発展することを念願し、姉妹都市の提携を結んだのです。 私は、4年前、前任校(片平丁小学校)に勤務していた時、学校教育の交流ということで、仙台市を代表して4名の子供たちを引率し、白老町を表敬訪問したことがあります。

 それでは、仙台市と白老町は歴史的にどんな深い関係があったのでしょうか。このことについて、以下、歴史的なつながりを説明しましょう。

蝦夷地に建った、 江戸時代のお城

 昔、北海道は蝦夷地と呼ばれていて、蝦夷地の白老に城(陣屋)がありました。その城は、今から155年ほど前の江戸時代の終わり頃、外国から蝦夷地を守るために仙台藩が建てたものです。天守閣はなかったけれど、立派に城の役目を果たしていました。

  江戸時代の日本は『鎖国』といって、『勝手に外国と貿易してはならない。守らなかったものは死刑にする』という厳しい決まりがありました。ところが、江戸時代の中頃から、たびたび蝦夷地の沿岸に外国船が訪れるようになりました。領土を南に広げたいロシア、薪や水、食料を求めるアメリカや鯨を捕るイギリスの船などが、次々とやってきて危険な状態でした。その頃、蝦夷地の南を治めていたのは唯一松前藩だけでした。

 そこで、徳川幕府は、東北6藩にも蝦夷地を領地として分け与え、24か所の沿岸を警備させることにしました。松前藩だけに任せておくのが不安になったからです。
 白老から東へ、遠くは択捉島までの領地を守ることになった仙台藩は、さっそく警備の中心となる陣屋(城)をどこに置くべきか調査を始めました。

  最初、幕府は苫小牧に建てるように命じましたが、仙台藩が調査してみると、地盤が悪いほかに海は荒く、函館からも遠すぎるということになり、幕府の許可を得て、地の利を生かした白老に変更したのです。仙台藩は他にも、十勝・厚岸・根室・国後・択捉に出張陣屋と呼ばれる小さな陣屋を5か所ほど置き、外国から侵入する敵に備えました。

  陣屋の建設は、いつ敵が攻めてくるかわからないので大急ぎで行われました。資材は、現地で組み立てるだけの作業ですむようにして船で運び、仙台から連れてきた大工さんだけでなく、警備の武士も同行し、地元のアイヌの人たちも手伝いました。このようにして、自然の山や川を利用し、水を張った『堀』と土を高く盛った『土塁』に囲まれた頑丈な砦が約半年で出来上がりました。陣屋を守る武士たちは、おおよそ1年の任期で仙台から派遣されました。今なら飛行機や列車、フェリーで簡単に行き来できますが、昔は早いときで20日間、川の氾濫や津軽海峡の時化に遭うと2か月間もかかったと言われています。

  苦労に苦労を重ねてたどり着いた白老で、武士たちはどんな毎日を送っていたんでしょうか。200人ほどいた陣屋の武士たちは、毎日、剣術のけいこや火縄銃・大筒と呼ばれる大砲の訓練に励んでいました。しかし、大砲はとても古くさく、いざというときにほんとに役に立つのかどうか疑問でした。当時、仙台藩も稲が不作続きで資金がなく、仕方がなかったのかも知れません。

  その頃、白老には400人ほどのアイヌの人たちが住んでいました。慣れない北国の生活にはアイヌの人たちの協力が必要と考えた仙台藩は、お祭りには、餅や酒、タバコなどを配り、子どもたちには着物を与えるなどしてよりよい関係になろうと努力しました。

 また、陣屋の東側の山には愛宕神社、西側の山には塩釜神社のお宮を建て、年中行事も国本仙台と同じように行い、懐かしいふるさとを偲びました。厳しい勤めの中でもホッと息のつけるひとときでした。白老の仙台藩は、結果的に外国と一度も戦わなかったので、戦死者は出ませんでしたが、住み慣れた仙台で体験したことのない蝦夷地の冬の寒さと、野菜不足のため病気にかかり、23人が死んでしまいました。その亡きがらは、今でもふるさとを離れた白老の地に眠っています。

  武士たちが陣屋で警備にあたっている間に、世の中は大きく変わり、250年も続いた徳川幕府が倒れ、時代は明治となりました。しかし、幕府側についていた仙台藩は、新政府軍に戦いを挑んだため、終いには『賊軍』として追われる身となりました。『賊軍』とは、国に逆らうという意味です。

  こうした国内の動きの中にあって、ある日、北方警備に当たっていた陣屋の武士たちのもとに、『仙台藩は降伏し、函館から新政府軍の追っ手が迫っている』という伝令が届きました。日本を外国から守るために、慣れない北国の生活に耐えながら警備を続けてきた陣屋の武士たちは、あまりの突然のことで、ただ仙台へ逃げ帰ることしかできませんでした。このようにして、仙台藩元陣屋はわずか12年間の歴史に幕を閉じたのです。 (白老町資料館より引用)

 現在、仙台藩の陣屋跡地は国の史跡に指定され、白老町が大切に整備し保存しています。

  もう一つ、付け加えておきたいことがあります。

  実は、陣屋を築く際、現地を踏査し、白老を最も適した地として幕府に承認させた仙台藩の代表者は、三好監物(みよしけんもつ)というリーダーでした。三好監物氏は、現在仙台市内にある三好耳鼻科のご先祖様にあたる方のようです。この縁により、毎年決まった時期に、三好耳鼻科医様は白老町に赴き診療されていると聞いております。

 また、陣屋の武士の総大将は、氏家秀之進という人物で、明治時代になってから七十七銀行の創設(?)にかかわった方と記憶しています。 現在、白老町に住んでいる人たちの中には、ご先祖が仙台藩出身者であるという方がたくさんいらっしゃることと思います。そう考えると、 白老町がぐんと近くに感じます。

終わり
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関連リンク: 用語集 北海道白老町

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No.174
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