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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集
白老体験記 看護課 浅野 佳代
 2009年7月15日(水)17日(金)、北海道の白老町学校健診に参加しました。
 耳鼻科医のいない白老町で1988年より小・中学校の健診を行っており、今年で22回目になります。
 今回、私は初めて健診に同行させて頂きましたが、私個人としては10数年ぶりの北海道訪問となります。そこで、訪問前に、北海道と白老町にかかわる歴史や文化を調べてみたので、そちらを少し紹介したいと思います。

北海道の歩み
〜アイヌの人々〜


アイヌ軍の先陣を切る、
秘書青柳扮するコシャマイン首長
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 北海道の歴史について、私は、幕末の戊辰戦争で幕府軍が敗れ、江戸時代が終結し、明治になり開拓民が入植し今の北海道を築いたと認識していました。しかし、それ以前より北海道に住んでいた人々がいます。それが、アイヌ民族です。

 北海道では、約2万年前の石器や1万年前の人の骨が見つかっているそうです。そんな大昔から極寒の地で暮らしてきた人々がいたのです。アイヌの人々は文字をもたず、そのためアイヌの歴史や文化については記録が残っていないそうです。今紹介されているアイヌの歴史や文化は、江戸時代、今の北海道(蝦夷地)を領地としていた松前藩の記録や明治以降の聞き取り調査によるものだそうです。

 アイヌ文化は人が北海道に住み出したとされる約2万年前の先土器(旧石器)時代から始まり、縄文文化・続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化・アイヌ文化と発展していったと考えられているようです。アイヌ文化が成立したのは1213世紀頃だそうです。

 さて、本州では645年に律令国家が成立します(大化の改新)。アイヌでいえば擦文文化の頃です。 この頃にはアイヌと本州の間でモノの交換(交易)が行われ、また、本州だけではなく大陸の民族とも交易があったと考えられているようです。アイヌは秘境の孤立した民族ではなく、古くから他の民族と交流しその文化を形成していった民族ということです。

 次に、本州の人とアイヌのかかわりですが、本州では室町時代(1336年12の館を築いていました。蠣崎氏はその一つ花沢館(現在の上の国町)の館主でした。

 2つの民族があれば様々な理由で衝突がおこります。本州の人とアイヌ民族の間でも幾つか戦いがあり、1457年・道南のアイヌの人々が立ち上がりコシャマインを大将とするアイヌ軍が次々と本州人の館を襲うコシャマインの戦いがおこります。しかし、花沢館の武田信廣氏にアイヌ軍は討たれてしまいます。武田信廣氏は蠣崎氏の養子となり、蠣崎氏が北海道の支配を確固たるものにしていきます。

 その後蠣崎氏は奥州諸大名と政治的な連携をはかり、戦国大名としての地位を築きあげます。豊臣秀吉・徳川家康から北海道の支配権・交易権を公認され、江戸時代になると松前氏と改名し松前藩となります。

 松前藩では、主だった家臣に北海道をいくつか分割しその一部を与えアイヌの人々と交易することを認めました。交易をするにあたり、商人が交易を請け負うようになります。乾燥鮭・ニシン・コンブ・鶴・鷹・鯨・とど皮・とど油等をアイヌ側が提供、米・小袖・木綿・鉄製品等と交換していたようです。本州と違い、米を得ることが出来なかった松前藩は、この交易で収入を得ます。これにより「商業知行制」「場所請負制度」が広まります。

 1600年代(17世紀)後半以降、アイヌの人々は場所請負制度の枠の中にはめられていき、商人の横暴により苦しい生活を余儀なくされていきます。場所請負制度はさらに進化し、場所ごとに運上屋という拠点をつくり、場所をまかされた商人が直轄するようになり、商人が漁業に携わるようになると、その労働力としてアイヌの人々が酷使されるようになります。

 1700年代から1800年代になると、領地を南に広げようとするロシアやアメリカの捕鯨船がたびたび北海道沿岸に立ち寄るようになります。1853年ペリーが浦賀に来港し、江戸幕府は1854年に米国及びロシアと和親条約を結び、ついに開国します。

 そこでロシア軍への警備を強化しようと1855年に東北地方の各藩に北海道の警備を命じました。仙台藩が守備を担当した地域が、白老から襟裳岬を経て国後・択捉までの広範囲でした。当初仙台藩は幕府から陣屋(大名領の藩庁が置かれた屋敷)を苫小牧市に置くように指示されましたが、調査にあたった仙台藩の重臣・三好監物氏が、陣屋を置くのは白老が適当との結論を出し幕府にも認めさせ、1856年陣屋を構築しました。

アイヌの長(左)、七十七銀行の創設者・氏家秀之進(中央)、そして白老元陣屋を建設した三好監物(右)の図です。
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 この三好監物氏が、当院の三好彰院長の先祖にあたります。陣屋完成後には元陣屋を白老に置き、他5か所に出張陣屋を置くことにしました。元陣屋には120名ほどの武士が駐屯していたそうです。
当時、白老には400人ほどのアイヌ人が住んでいました。仙台藩は松前藩時代に悪化したアイヌの人との関係の改善に努めたそうです。そして12年後の1868年に戊辰戦争がおこり、幕府側だった仙台藩は北海道から撤退、徳川幕府が倒れ明治維新がはじまります。

 明治になり1869年場所請負制度が廃止されます。明治政府はアイヌと日本人の同化政策をすすめ、アイヌに日本人と同じ生活をさせるため、農耕をすすめ、アイヌ語やアイヌの風習などを禁止して日本語を教え、日本名を名乗らせ、日本人としての教育をしました。そしてアイヌの人々の暮らしは、言葉や習慣など、他の日本人と変わらないものになっていきました。

 現在、北海道には、約2万3000人のアイヌ人が暮らしているという調査結果があります。30年ほど前から古い時代の習慣・芸能・言葉を取り戻そうとする人々が増え、アイヌ文化伝承・保存活動がおこなわれるようになっています。その主体となっているのが、白老町のアイヌ民族博物館です。

 今回も7月16日の健診終了後、アイヌ民族博物館を見学させて頂きました。

 現在の白老町の人口は約2万人。そのうち約4000人の方がアイヌの方だそうです。

 北海道には皆さんご存じのように、アイヌにちなんだ地名がたくさん残されています。シラオイはアイヌ語で、「虻の多い所」という意味だそうです。

アイヌ民族博物館(白老町)の全景図
アイヌ民族博物館(白老町)の全景図です(表紙参照)。
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 民族博物館ではアイヌの衣装を着て記念撮影をし、アイヌの伝統楽器の演奏や子守唄、イヨマンテの踊りを鑑賞、伝統楽器ムックリの演奏体験(これが、見た目よりかなり難しいのです・・・)、飼育されているヒグマと対面(近くで見ると迫力ありましたよ!)。  

 最後はヨモギのソフトクリームをいただいて、ポロト湖のほとり(表紙)で涼しい風にふかれ、優雅な時間をすごしました。

 次に、仙台元陣屋資料館では鎧兜を着て、お侍さんの気分を味わいました。仙台藩士が白老に来た時は、徒歩で20日かかったそうです。この20kgの鎧を着て1日km40歩いたということです。今では考えられませんね・・・。私は、ほんの10分程度、装着しただけで、フラフラになってしまいました。

 翌17日も天気に恵まれ、予定通り健診を終了し、快晴の青空の中、仙台に帰ってきました。

 今回、貴重な体験をさせていただき、院長先生はじめ白老町の教育委員会の皆様、そしてディープな観光の案内をしていただいた武永真様に感謝いたします。

北海道を警備中の、浅野ナース。
北海道を警備中の、浅野ナース。
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関連リンク: 用語集 北海道白老町

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No.175
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