3443通信 オンライン  
みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集
チベット調査に際し、ここでは院長が宮城耳鼻会報へ投稿した原稿
三題噺
「オンディーヌ・チベット・中枢性無呼吸」
をご紹介致します。
*三題噺:寄席で客から与えられた3つのテーマをもとに話を作る創作落語のこと。
  「鰍沢」や「芝浜」などが有名。
 
オンディーヌの呪い
三好 彰


院長の医学コミック(5)より

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 えー、毎度ばかばかしいお噺を申し上げます。これは古くからドイツに伝わる、哀しくも恐ろしいお話です。

 美しい水の妖精オンディーヌは、ある日河辺を通り掛かった凛凛しい人間の騎士、ハンスに見惚れました。

 いいえそもそも、透き通る水の中にたゆたうあやかしの、この世のものとも思えぬ美しさに魂をすい取られたのは、騎士の中の騎士と唄われたハンスだったのかも知れません。

 若く雄々しい騎士ハンスと魅力に満ちた妖精オンディーヌは、身も心もそしてお互いの命をも、この叶わぬ恋に捧げることとなりました。

 けれども、もともと実現するはずのない、人間と魔性の者の恋愛です。明日の見えない盲目の恋にいつしか絶望したハンスは、年老いた両親の決めたいいなづけとの結婚を決意します。ハンスはオンディーヌを裏切ったのではなく、騎士の旧い家系を守ろうと心を鬼にして水辺を後にしたのかも知れません。

 世界中の誰よりも麗しいオンディーヌを愛しておりながら、騎士としての道を選択したハンスの苦渋。それはハンスを愛することがすべてだったオンディーヌには伝わりません。

 オンディーヌは怒りの余り、ハンスに向かって恐ろしい呪いの言葉を投げかけます。

 オンディーヌの呪いを受けたハンスですが、奇妙なことに日中は呪いのかけらも感じません。半分気が抜けたように思いながらも、しかし日が暮れ闇がせまる頃、ハンスはなにかおかしいことに気付きました。

 婚礼の式典の興奮の、まだ覚めやらぬ新婦や老いた両親と共に笑いさざめいていたハンスは、さすがに疲れを感じてうたた寝をしようとしました。するとどうしたことでしょう、ハンスが寝入るとそれまで平静に繰り返していた呼吸が、ピタリと止まってしまうのです。

 目覚めている間は、意識しているせいか、努力して息をつくこともできたのに。

 一瞬、息苦しさと死の予感に冷汗を浮かべて目覚めたハンスの顔を、うら若い新婦が心配そうに覗きます。
「ハンス、どうしたの?」

 大丈夫だよ、そう新婦に笑いかけようとしたハンスは、新婦の衣が水に濡れていることに気付きました。

 次の瞬間ハンスは、恐怖の余り絶望の悲鳴を挙げました。

 隣に優しく添い寝する、親の定めたいいなづけの貌は、ハンスが遠く河の中に捨てて来たオンディーヌの、妖しいまでの笑顔だったのです。

 ハンスは花嫁を突きとばすと、城のいちばん奥のだれもいない部屋に籠もり、夢中で内側から鍵をかけました。

 ここならば大丈夫。一瞬気を許したハンスを、今度はのしかかるような重い眠気が襲います。

 眠っちゃいけない。だめだ、呼吸が止まって死んでしまう。そうだ、これがオンディーヌの呪いだったのだ。意識ある限り努力すれば息をつくことができる、だけど眠って意識が途切れたら・・・。ハンスはそのとき呪いのために、呼吸の途切れたまま死んで行く自分の姿が目に浮かぶように思いました。

 助けてくれ、死にたくない。だれか、助けてくれ。

 そう思いながらハンスは、自分の目蓋が意志に逆らって自然に閉じて行く気配を感じていました。それとともになんだか、自分が息をすることまで忘れてしまったような気がしました。

 もうだめだ、おしまいなんだ。そう思った次の瞬間ハンスは、この世のものではないオンディーヌの笑顔に、自分がすっかり包まれていることに気付きました。

 ハンスは、すでに喘ぐことすらできないその口で呟きました。

 「オンディーヌ、世界一愛しいひと」と。


チベットでの調査


図2



図3

図4


図5

図6

図7

図8

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 睡眠医学の発達で、このオンディーヌの呪いの正体は、中枢性睡眠時無呼吸であることが、理解されるようになりました。まあそれは冗談として、チベットなどの高地に滞在すると、この中枢性睡眠時無呼吸を実際に体験することができます。

 ここではわれわれが現実に調査団を編成し、チベットの標高5、190m地点(気圧542ヘクトパスカル)を通過するなどして、低酸素環境によりもたらされる高山病と、中枢性睡眠時無呼吸を体験した2007年9月のいきさつについてお話しします。

 われわれの調査に同行した調査メンバーは13名で、男性10名・女性3名。平均年令は42.7歳。初参加者は6名で、他は2〜5回目のチベット行きでした。

 図2に示すように、ラサ市から標高5、190mの高地(気圧542ヘクトパスカル図4)を経て、成都市に至る日程での参加メンバーの血中酸素飽和度(SPO2)と脈拍数を測定したのです。これらのうち症例2・7は別行動だった期間があり、それは集計から省かれています。

 測定は図3に示すパルスオキシメーターにて実施しましたが、気圧が平地の半分となる図4地点を通過した直後の症例13のSPO2は、77%を示していることがこの写真からも見て取れます。

 そもそも高度の上昇するほど、高山病に悩まされる確率は高くなります。高山病は、低酸素血症とそれに対する順化の遅れが本質ですので、その重症度は、血中酸素飽和度(SPO2)と相関します。高山病の症状ですが初期は頭痛や嘔吐であり、高度になると肺水腫や脳浮腫から意識障害を生じ、死に至ることもあるのです。

 その指標となるSPO2は、平地の規準では97%以上が正常で、80%以下は危篤とされることも、憶えておいて下さい。現地では、それどころではなかったのですけれど、症例4・5・13の経過を、図5・6・7に示しました。初回参加となった症例5と13ではSPO2が平地での危篤状態以下を示し、純酸素の供給も無効だったものと思われます。それに対して5回目のチベット体験であった症例4では、高地順化が早かったことが判ります。

 また参考値として症例9において、標高4、290mの現地ホテルと仙台市における睡眠時のSPO2と脈拍数を比較しました。症例9は5回目の参加ではあったのですが、SPO2・脈拍数の記録からは現地環境の苛酷さが十分に想像できます(図8)。

 複数回参加者に比較して初回参加者の高山病が酷く、中枢性睡眠時無呼吸を呈していたことは図2・5・6から推測できます。

 この場合、図5・6に見られるように、酸素ボンベなどによる純酸素供給は無効と言わねばなりません。なぜなら低酸素状態においては過呼吸によりSPO2を補うのですが、それは同時に血中二酸化炭素濃度の低下をもたらします。脳幹の呼吸中枢は血中二酸化炭素濃度上昇に反応して呼吸を促し、逆に二酸化炭素濃度低下に際しては呼吸数を低下させます。

 したがってこの状況下での純酸素の供給は、呼吸中枢の抑制をもたらし中枢性睡眠時無呼吸を増悪させてしまうのです。

 高山病における中枢性睡眠時無呼吸に対しては、純酸素供給以外の方法で対応せねばならないわけで、それは、次回以降の課題としておきます。

 ともあれ、この場合の中枢性睡眠時無呼吸はまさにオンディーヌの呪いそのもので、目覚めて努力呼吸をしている間は酸素が体内に入って来ます。けれども疲れに負けてスッと寝入ってしまうと、その瞬間から呪われたハンスのように、呼吸が止まってしまうという現象が生じます。

噺の落ち

 今回われわれの中枢性睡眠時無呼吸体験は、平地ならば危篤状態とも言うべき状況であり、純酸素供給が逆効果となることをも、身をもって理解しました。また体験を重ねることにより高地順化が容易になることも実測値として再確認することができました。

 とはいえ、もしもこの中枢性睡眠時無呼吸が、オンディーヌのような絶世の美女に愛されたためだったとしても・・・・。二度とごめんだと、熊さんハっつぁん始め参加メンバーは申しておりました。

 「オンディーヌ・チベット・中枢性無呼吸」の一席。ごたいくつ様でした。
 では、お後がよろしいようで・・・。

 
オンディーヌのことなら…
院長コミック(5)
 
関連リンク: 用語集 索引:チベット 索引:睡眠時無呼吸症候群

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No.178
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