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2010中国・チベット調査レポート(1)


左から、上田先生、院長、程先生


生まれたばかりの娘さんを笑顔で抱っこする南京医大の殷先生

 9月15日(水)~27日(月)にかけ、毎年行っている中国・チベットアレルギー調査旅行が行われました。

 当院からは、院長先生他、看護師の高橋美江(初参加)と私、浅野佳代が同行しました。


高所でも元気いっぱいだった高橋Ns(右)と、高所恐怖症になった筆者の浅野Ns


初参加で緊張気味の清水先生(左)と、7度目の参加となる稲川先生(右)

当院の代診もして頂いた森先生(左)と、男性陣で最年少の池谷先生(共に初参加)
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9月16日(木)出国

 中国の南京市に向け、成田空港から出発。南京で南京医科大学の殷先生、昭和大学の森先生・池谷先生、愛知医科大学の稲川先生・清水先生と合流し、いつも同行して下さる中国の旅行会社の社長さんが加わり、総勢9名の賑やかなメンバーになりました。
  おりしも日本では、尖閣諸島で中国の漁船が日本の巡視船に衝突し、船長を拘留しただの、釈放しただのと、日中関係が取りざたされ色々報道されていたようですが、そんなことは全く知らず、何の問題もなく旅はすすんでいました。


南京市を囲んでいる城壁

閲江楼前で記念撮影

閲江楼からみた南京長江大橋
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9月17日(金)南京市

 南京は江蘇省の省都です。盆地になっており、夏の猛暑で有名な場所です。18日に訪れる重慶と共に「中国の三大かまど」と言われています(残る一つは武漢)。やっと日本の猛暑が終わりかけたと思っていたら、南京・重慶の暑いこと! みなさん汗だくで、日焼け止めを塗りまくり、階段の多い観光地を巡っていました。

 南京は人口618万・面積6,501平方kmの大都市。交通量も人も多く、渋滞やクラクションで通りは賑やかです。譲り合いなんて言葉を知らないかのように、どの車も車体すれすれまで近づいて先へ先へと進みます。これが中国だな……、と妙に納得してしまいます。さて、大都市である南京ですが、その歴史は古く、3世紀以降10の王朝がここに都を定め、近代でも革命政府がおかれるなど、北京・西安・洛陽と並ぶ中国四大古都の一つです。明代の城壁が、所々残っており、歴史を感じさせてくれます。城壁の一部は、暗くなるとライトアップされて綺麗に飾られていましたが、逆にライトアップなどないほうが、重厚な感じがすると私は思いました。

 朝、ホテルを出て、まず雄大な長江にかかる南京長江大橋を渡りました。

 長江は全長約6,300㎞で、その河口が揚子江です。川幅は狭い所でも1㎞以上あり、水は茶色に濁っています。川の中州に町があり、人が住んでいる程です(中州で暮らすなんて、川が氾濫したら大惨事ですね)。南京長江大橋は、1960年の着工当初、旧ソ連の技術協力があったものの、中ソの対立でソ連技術者がひきあげ、中国の技術者のみで造りあげたものだそうです。橋の上が道路・下が線路になっていて、道路が4,589m、線路が6,772mあります。次に訪れた閲江楼から全貌を眺めることが出来ました。

  閲江楼は、明朝の基礎を築き南京で即位した朱元璋により1374年に建築の詔勅が出されました。
  しかし、建設が中断され600年余り書物に記載されているが、楼がないといわれてきた有記無楼だったそうです。1998年に閲江楼の建設が開始され2001年に完成し今は観光地となっています。閲江楼の中には、明時代の文化史料や歴代帝王の史料が展示されていました。その中に中国明時代の武将・鄭和の大航海に関する史料が展示されていました。

東洋の大航海時

 鄭和は1400年代永楽帝(明の皇帝)の命により7回にもわたり、世界の海を航海した人です。それはコロンブスやバスコ・ダ・ガマが活躍したヨーロッパ大航海の時代に70年ほど先んじての大航海で歴史的にも高く評価されているとのことです。船団は62隻、船団の中で最大の宝船の全長は120メートルを超える大型船でした。総乗組員は2万7800名に上り、アジア・インド・中近東・遠くアフリカの東海岸まで渡って、中国にライオン・ダチョウ・シマウマ・キリンなどの動物も連れて帰ったそうです。1400年代といえば日本は室町時代です。中国の歴史と文明、半端じゃないですね。それと、麻雀を開発?したのが、この鄭和という人だったそうです。これウソかホントかガイドさんの話です。


中山陵への階段

孫文博士の記念像
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 昼食のあと向かったのは、中山稜です。中山稜は、おととし中国を訪れた際にも来ていて、印象に残っていた場所の一つでした。階段を上るのが大変だったこと・建物の白と青のコントラストが美しかったこと・南京市を一望できる眺望が素晴らしかったのが記憶に残っていました。恐れていた階段は覚悟していたせいか前回より楽に登れました。建物や階段を含めた景観の美しさや眺望も前回と変わっていませんでした。中山稜といえば、革命の父と呼ばれた孫文博士の陵墓です。孫文博士が気に入っていたという紫金山から南京が一望できるこの場所に陵墓が建築され、その遺体は遠く北京から搬送されてここに納められました。青天白日が描かれた天井のある部屋に孫文博士の等身大の像が横たわっていて、その下に孫文博士は眠っていました。この場所にしても、上から見たとき階段が見えないよう踊り場が設計されていることなど、かなりこだわって建築されたようです。では孫文博士ってどういう人だったのでしょう。

中国革命の父・孫文

 明時代が終わると中国は清時代になります。清朝は18世紀末に陰りをみせはじめ外国からの圧力をうけ衰退していきます。そうすると民族運動が高まり、1911年、孫文博士指導のもと辛亥革命がおこります。孫文博士は、1912年、宣統帝を退位させ南京で中華民国の臨時大総統に就任します。中国はここから激動の時代がはじまるのです。孫文博士が掲げる三民主義とは、満州異民族支配の打倒を目指す「民族」、君主制を打倒し民主制を目指す「民主」、富の公平な分配を目指す「民生」からなっていました。しかし清滅亡後の中国を統治する力がなかったため、その地位を北方の軍閥で支配権を握る袁世凱にゆずり、日本に亡命します。袁世凱は独裁的権力を指向するようになり、反対勢力に負け1916年6月に亡くなります。
  その後、孫文博士は革命運動を再開すべく中国に帰国し国民党を結成します。中国国内は袁世凱の死後も、北方の軍閥による支配は続いていました。また、社会主義革命を全世界によびかけていたコミンテルン(ロシア語:共産主義インターナショナルの意)の指導のもと、1921年、上海で中国共産党が結成されました。孫文博士はソビエトの協力をえて1924年、国民党の第一回全国代表大会を開催。国際的にはソビエトと連合し、国内では共産党と協力して革命を推進する国共合作の方針が承認されます。また軍事力を強化し革命軍の中核を養成するため、ソビエトの支援をうけ黄埔軍官学校が設立されました。軍官学校の初代校長が、のちに国民党をひきいることになる蒋介石です。孫文博士は国民大会開催のため上海・天津・北京へと北上しますが、病気のため1925年その生涯を閉じるのです。


霊谷塔の上から見下ろす

「革命いまだ成らず・わが同志はその貫徹を期さねばならぬ」は、孫文博士の遺言でした。

 中山稜を後にし、次に訪れた霊谷寺は明代初期に建築された仏教寺院です。その内部に黄埔軍官学校の史料が展示されていました。シンボルの霊谷塔は高さ60メートル。みんな最後の力を振り絞り登っていきました。
  夜は昔の科挙の試験会場だった夫子(孔子)廟の夜景を見ながらの川下りを楽しみ、18日南京を後にしました。


夜景の夫子廟

霊谷塔の外観

霊谷塔内のらせん階段

夕食会では、オシャレな団扇をいただきました
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2010年チベット調査 旅レポ(2)


関連リンク: 2010年チベットムービー
用語集: 索引:チベット
用語集: 索引:アレルギー調査

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No.191
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