3443通信 オンライン  
みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

三好耳鼻咽喉科クリニック開院20周年記念特集 20年間をふりかえって

子どもの泣かないアメニティクリニック

 当院が、「三好耳鼻咽喉科クリニック」として産声をあげたのは、1992年1月22日の冬の日でした。
 設立当初から「子どもの泣かないアメニティクリニック」という医療機関を目指していました。薬の匂いのする室内に、メタリックな治療機器、そこに白い服を着た医師がいれば、だいたいの子どもさんは泣き喚くか、騒ぎ出すことでしょう。そこで、院内を暖色系で統一し、複数のテレビモニターで人気のアニメを流すなど、子どもが気をひく仕掛けを随所に施しました。その様子は、当時の雑誌などでも取り上げられ、開院1年で約6000名の新患患者様が来院されました(図1、図2)

図1:ホスピタウン 1996年11月号 図1:SCOPE 1996年9月号
図2:ホスピタウン 1996年11月号 図2:ホスピタウン 1996年11月号

人の和をつくる〝B鍋会〟

 多くの人と交わる機会をつくることが、地域に根ざした医療に、より一層の広がりを持たせてくれます。
 そういう意味でも、食べ物とお酒は、人とのコミュニケーションを円滑にしてくれるものです。

1987年に発足した〟B鍋会(現在は、キリンB会として継続中)は、「血液型がB型の人を集めて、鍋でもつつきながら騒ごう」という思いつきから始まりましたが、会を重ねるうちに血液型の縛りはなくなり、異業種交流の場として定着しました。会費は無料で、3ヶ月に1回のペースで開催。毎回20~30人のメンバーが、恒例の自己紹介スピーチを行ない、異業種交流の場に相応しい多彩な話題を提供して頂きました。

 自由奔放な発言の中でも、時には真剣な内容が飛び出すこともあります。ある時の会では、私は医学用語の〝わかりにくさ〟についてお話ししました。例えば、「鼻が詰まる」ことを「鼻閉」、「のどちんこ」を「口蓋垂」など、日常会話の中ではまず理解されにくい言葉を使ってしまいます。しかし、いくら医学的に正しい表現でも、それが患者様に伝わる日本語でなければならない、という内容のスピーチをしました(図3)
 このような話題も、異業種交流会ならではの生きた情報として、参加者からは好評を博しました。

図3:医療経営フェイズ3 1994年1月号 図3:医療経営フェイズ3 1994年1月号

医学マンガを発行!

みみ、はな、のどシリーズ 10冊組本

 前ページでも述べましたが、小難しい医学用語をやさしい日本語で伝えるという試みは、のちにやさしい家庭の医学書「みみ、はな、のどの変なとき」を発行するに至りました。しかし、活字の書籍よりも、一目で見て伝わりやすい方法があるはずと、仲間内で頭をひねった結果、「そうだ、マンガを描こう! 」という話になりました。
 こうして、みみ、はな、のどにまつわる医学コミックシリーズが生まれました(図4・図5)


図4:メディカル朝日 1995年6月号 図4:メディカル朝日 1995年6月号
図5:院長監修の医学コミック10冊組本 図5:院長監修の医学コミック10冊組本

 1995年に、初刊となる「花子さんの場合」が発行され、以来1年に1冊のペースで製作を続け、2巻目のピアスにまつわるトラブルをミステリー風に描いた「ピアストラブル殺人事件」、3巻目の中耳炎を主題にした「中耳炎世界の冒険」、4巻目の喉をテーマにした「カラオケ・ポリープは踊る」、5巻目のいびきと無呼吸のお話し「いびきをかく夜は恐ろしい」、6巻目のめまいに焦点をあてた「さつきさんの憂鬱」、7巻目の耳の聞こえを題材にした「難聴・早期発見伝」、8巻目のダニとアレルギーのお話となる「愛しのダニ・ボーイ」(図6)、9巻目の味覚と嗅覚の関係性を説いた「味気ない世界の中心で」、完結号の10巻目は、顔面神経麻痺を起こした等1巻の主人公「花子さん」が出演する「笑顔で愛にこたえたい」という、耳鼻咽喉科領域を網羅した10冊の組本として完結しました。こちらは、当院のホームページのデジタルコミックで閲覧できます。

図6:「愛しのダニ・ボーイ」から 図6:「愛しのダニ・ボーイ」から

アレルギー増加の原因を探る

 長年、臨床の現場にいると、年々アレルギーを訴える患者様が多くなっていることを肌で感じます。その背景には、戦後の食生活・住環境の変化など、様々な要因があげられます(図7)

 今でこそ、国民病として悪名高いスギ花粉症(日本の全人口5分の1にあたる、2500万人がかかっているとも言われています)も、アレルギーの最たる例です。

 なぜ、スギ花粉症がでるのかというと、元々人体には異物を排除する防衛機能が備わっています。それが、何らかの理由で体内に入ってくるものを全て異物と判断し、大量の鼻水やくしゃみで排出しようと過剰反応を起こします。これを、抗原(アレルギーの原因物質)に対する抗体(防衛機能)の反応、すなわち「抗原抗体反応」と呼ばれるものです。実は、スギ花粉症は病気ではなく、人体の正常な反応だったのです。

 しかし、本来無害なはずのスギ花粉が、どうしてこうも苦しい症状を引き起こすのでしょうか。

そこで、私たちは1989年から毎年、日光杉並木で有名な栃木県栗山村、スギの植生がほとんどみられない北海道白老町で、小学校1年生、4年生、中学校1年生を対象にアレルゲン(アレルギーをおこす原因物質)の反応を調べる皮膚テストを実施してきました。

そのデータを統計したところ、年代が進むにつれ、アレルギー反応の陽性者(アレルギー症状が確認された人)が増えていく傾向にありました(図8)

図7:神戸新聞 1995年1月12日(木)発行号 図7:神戸新聞 1995年1月12日(木)発行号
図8:大分合同新聞 1995年12月25日(月)発行号 図8:大分合同新聞 1995年12月25日(月)発行号

国を越えたアレルギー調査

 戦後、日本は食生活・住環境の欧米化が進み、それによりアレルギー体質の人が増えたのではないかと推測していますが、学術においては論より証拠。確たるデータがなければ意味がありません。

 そこで、私たちの研究グループはお隣の国・中国の南京市で、私が客員教授を務める南京医科大学の医学生を対象に、白老町などと同じ方法でアレルギー調査を行いました。その結果、アレルゲンに反応した人は390人中僅かに1人という、極めて低い割合でした。それは、まるで戦前の日本に近い有病率の低さだったのです(図9)

 私たちは、今後は中国でも経済発展するに従い、アレルギー体質の人が増加するのではないかと考え、長いスパンで定期的なアレルギー疫学調査を行うことにしました。

図9:「南日本新聞」 1998年9月22日(火)発行号 図9:「南日本新聞」 1998年9月22日(火)発行号

覆ったスギ花粉症の常識

 スギ花粉症は、太平洋戦争の戦後復興のため、成長の早いスギの木をハゲ山に大量植樹し、そのスギの木が生長し、花粉を飛ばし始める樹齢30年となる1980年代から猛威を振るい始めました。

 当時、日本は急激な経済成長による工場施設の建設や、交通量の増加にともなう大気汚染が深刻化していました。そんな中、スギ花粉症は、大気汚染物質が症状の悪化原因となっているという「大気汚染説」や、生活水準の向上により衛生面でも清潔になった結果、アレルギーを抑制する寄生虫が減少したという「寄生虫説」など、諸説入り乱れての論議が交わされた時代でした。

 私たちは、そういった俗説を(図10~12)科学的な証拠に基づいた情報発信により、正しい認識を広めることに成功しました。それは、スギ花粉症増加の要因は、「原因」となるスギ花粉が増え、「結果」として有病者が増えたという、あとから考えれば至極単純な真理だったのですが、「原因が増えれば、結果が増える」という通説は、当時はまだ認知されていない状態だったのです。

 どのような分野でも言える事ですが、不正確な情報とは、それを信じてしまったが為に被害を受け、時には取り返しのつかない事態に陥ることがあります。情報提供者は、今一度原点に立ち返って、誰のための学問なのかという事を深慮する必要があります。

図10:「日本海新聞」1996年8月27日(火)発行号 図10:「日本海新聞」 1996年8月27日(火)発行号
図11:秋田さきがけ 1996年8月18日 発行号 図11:秋田さきがけ 1996年8月18日 発行号

図12:「沖縄タイムス(夕刊)」1996年8月22日(木)発行号 図12:「沖縄タイムス(夕刊)」 1996年8月22日(木)発行号

日中友好の懸け橋

 日中共同のアレルギー疫学調査は、若く将来を有望視されている南京医科大学の医師と、日本の熟練された専門医師らの協力により国際的に活動の場を広げ、両国の医学的進歩に大きな役割を担うようになりました。また、同大学に導入した「三好彰奨学金制度」など、学術を極めんとする若者に支援の手をさしのべ、将来国を背負って立つ人材の育成などにも協力を惜しみませんでした(図13)

 南京医科大学耳鼻咽喉科教授の程 雷(てい らい)先生はじめ、同副教授の殷 敏(いん びん)先生、上海交通大学教授の時 海波(し はいぼ)先生は、私の弟子として数年間日本に留学し、それぞれ別の大学で博士号をとるなど目覚しい功績を残しました。
 3名は、留学をおえて帰国し、所属する大学で要職を務め、中国医学界の先駆けとして活躍しています。

 こうした、日中友好の親善活動と学術的な貢献を認められ、1999年、三好耳鼻咽喉科クリニック内に南京医科大学附属国際鼻アレルギーセンター(現在は、国際アレルギーセンター)が設置され、私がセンター長に任命されました。地道に一歩一歩進めてきた活動が、こうして認められたということは、言外の喜びとして今でも強く、記憶に残っています。昨今のマスコミ報道では、日中友好に影が指しているなどと言われていますが、私たち民間レベルでの両国の深い繋がりは、将来的に重要な意味をもってくる事と信じています。

図13:京都新聞(夕刊)1996年3月6日(水)発行号 図13:京都新聞(夕刊) 1996年3月6日(水)発行号

(左から) (左から):時先生、院長、程先生、殷先生