3443通信 オンライン  
みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

もしも、あなたに耳の不自由な子どもが生まれたら・・・~全ての子どもには無限の可能性がある!~

 去る1月22日、当クリニックは開院20周年を迎え、お蔭様で、6月20日に記念講演会を開催いたしました。
 当日は、台風の影響が懸念され、足元の悪さも心配でした。けれども日頃の行ないの良さの表れ(誰の?)でしょうか、パーティも含め、足元を濡らす事も無く、盛大に終えることができました。心から感謝申し上げます。

 講演会では、私の大先輩でもあり、師匠でもあります田中美郷(たなかよしさと)先生をお招きし、「もしも、あなたに耳の不自由な子どもが生まれたら……。~全ての子どもには無限の可能性がある!~」
という演題にて、ご講演頂きました。
 田中先生は、難聴児療育(教育)について、「教え込むことではなく、その人間の内に潜むものを育むこと、その人にうずもれているものを引っ張り出すことだ」と言っておられます。まさに、それによってこそ、その子どもは生まれてきた意味を再確認することになるのだと思います。

目次

耳が不自由なこと

難聴早期発見伝 詳しくは、私の医学コミック(7)
「難聴・早期発見伝」をご覧下さい。

はじめにことばありき。

 聖書に出て来る有名な文言です。
 人間は聴力を介して音声を情報として受け取り、思考を経てその内容を理解し、意味のこもった発話を行ないます。それがつまり会話で、人間同士のコミュニケーションの重要な手段です。
 けれども聞こえが十分に機能していない場合には、音声を完全に理解することができず概念化できないために、思考力を発揮することができません。
 なぜなら人間は概念を一度は言語に託して抽象化し、それを媒体として思考を進めるからなのです。
 これらは、田中先生と私が師事した信州大学の鈴木篤郎(すずきとくろう)先生の教えでもあります。
 それでは、田中先生のご講演内容を紹介させて頂きます。


はじめに

 医学と教育の橋渡し、フランス語で、Liaison(リエゾン)が今の若い人達には、不得意なため、私は、嘆いています。
 私のライフワークにしてきた糧を、そして今日の動向についての見解をお話ししたいと思います。

 私が医者になってから以降の聴覚障がい児の教育になるのですが、このような仕事に携わって50年余りになりますが、その頃、生まれていなかった人達がこの中に大勢いらっしゃるかと思います。その頃と現在を比べますと、聴覚障がい児の教育(聾教育)は色々な面で、非常に大きく変わりました。その変化を私は、体験してきました。

 私の生まれは、長野県の松本で、地元の大学、信州大学の卒業です。当時の耳鼻咽喉科学教室に入局したときの主任教授は、鈴木篤郎先生で、当時の教室の研究テーマは「小児の慢性副鼻腔炎(蓄膿症)」と「子どもの聴力検査法の研究」でした。私の主たるライフワークは、「子どもの聴力検査法の研究」の方でした。

信州大学・鈴木篤郎教室の最も重要な研究

 鈴木篤郎教室の最も重要な研究は、「条件詮索反応聴力検査」(別名をCORテストといいます。)でした。これは、国際的に非常に有名になりました。戦後の荒廃からの復興ができていない時期に、このような国際的な研究ができたことは、日本の誇るべき業績だと思います。

CORテスト開発の意義

(図1)CORテスト (図1)CORテスト

 CORテストの装置(図1)は、簡単な装置ですが、国際的に高く評価された理由は、この開発により、聴力の量的測定が可能な年齢を生後6ヶ月位まで下げることができるようになったことが一番の要因だと思われます。それ以前は、3歳以上にならないと難しいことでしたが、このことにより、難聴の早期診断は可能になり、早期対策という意味では、非常に重要な意味があります。現在では、色々な検査法があります。しかし、聴力検査法といいますとCORを抜きにして、考えることができません。原理的には、完成されていて、これ以上のものは出ないかもしれません。これは、1960年に報告されています。

 私は、そのころ医者になり、特殊外来を任せられ、この検査機器を使い診断をしてきました。しかし、診断をしてもその後、教育をしてくれるところがありませんでした。当時、聾学校も幼児を対象にしていませんでした。ですから1~2歳で難聴と判ってもほとんどが放置状態になってしまいます。この事は、検査・診断を行なっている側からすると我慢できない問題でした。

 そこで、病院でできることはないかと模索した結果、思いついたのが、ホームトレーニングという方法でした。日常生活の中で、言語を育てていくという方式です。当時は、まだ1歳の重度の難聴児がどのようにして言語を獲得していくのかなどは、解明されていませんでした。診断ができなかったので、当然です。そこで指導法を編み出すため、難聴児の言語発達も研究する必要があるというところから、教育の分野にも踏み込むきっかけになったわけです。


当時の聾唖者に関する社会の理解

 当時の聾唖(ろうあ)者に関する社会の理解はどうだったかといいますと、医学分野でも〝先天性聾唖〟という用語が使われていました。ところが、「唖」は、聾があることにより、結果的に「唖」になってしまう。にもかかわらず、「先天性」という枠に入れるのはおかしいのではないかという議論が出てきました。

 さらには、聾学校にも行かない聾の方々は、読み書きや手話もできない場合が多く、コミュニケーション手段は、ジェスチャーしかありませんでした。そのため、難聴者は、意思表現が難しく、社会的に精神薄弱(知的障がい)と思われ、レッテルを貼られていました。ところが、知的障がいではありませんので、中には、このように馬鹿にされることに立腹しても、表現方法を知らないため暴力的になってしまう場合もありました。そのため、精神分裂病(今で言うと統合失調症)として精神科病棟の鉄格子の中に閉じ込められていた人もいました。

 当時から難聴は、遺伝であるということは知られていました。そのため、聾の子が生まれると、社会から隔離される場合が多く、教育が受けられないという結果が生み出されてきました。それは、優生学思想の悪影響がもたらしたものだと思います。

昔の聾唖者(聾学校卒)の書いた詩

(図02)聾唖者の詩 (図2)聾唖者の詩

 次のスライドは、私が聾唖者の厚生施設(厚生労働省の主管)の顧問を行なっていた頃の当時の聾唖者が書いた詩です(図2)
 感情は伝わってきますので、知的な遅れは感じられません。
 しかし、日本語としての文法的な誤りがたくさんあり、社会的には通用しないのが現状です。この方は、聾学校を卒業した方なので、ここまで書く事はできたという事です。


社会から隔離されていた或る聾唖者の例

次の方も同じく厚生施設でお目にかかった方の例です。

 ご両親がすでに他界されているため生い立ちは不詳で、妹さんの家族に世話になっていました。この方自身も無教育でこの年齢になっていましたので、知る術もありませんでした。しかし、私が、書字で父母の名や兄の名を尋ねますと、「母○○さん50年(昭和50年らしい)10月1日死亡、兄○○19年不明戦死」と書きました。誰に字を教えてもらったか? と書きますと、「長女○○子60、次女○子53、三女○○子50」と書きました。なぜ学校へ行かなかったの? の質問には答えられず、計算は加算のみ可能でした。これは、この方がお一人になったときに、少なくとも自分自身について訴えることができるようにと、ご家族の方に教えてもらったのだと思います。しかし私の質問に対して、的確に答えているわけではありません。そこで、手話のできる職員と共に、言語指導をしました。手話と同時に漢字を用いました。ひらがなと比較して、漢字は意味がわかります。

(図3)社会から隔離されていた聾唖者の例 (図3)社会から隔離されていた聾唖者の例

 そこで、一年後に書いていただいたのが、この文章です(図3)。ここまで、書くことができるようになりました。

 もちろん日本語としては、まだ非常に拙劣な文章で、文法的な誤りがたくさんあります。しかし55歳の年齢で、ここまで書けるようになったことが驚きでした。

 当時は、思春期以上になると脳が老化して、言語指導をしても駄目だということが通説でしたが、可能であることが立証されました。私自身に時間のゆとりがあり、丁寧な言語指導ができていれば、もっと良い文章が書けたと思います。残念ながら、その施設は2年しかいる事ができないので、限界もありました。
 このような悲惨な実態を私は見てきたわけです。

(図4)言語習得能力を容積に例えた図 (図4)言語習得能力を容積に例えた図

 これは、言語習得能力を容積に例えた図です(図4)
 聴覚言語としてのことばの雨が降ってきたとします。健聴児の場合は、受け口も、容器も広いので、ほぼ100%溜まりますが、難聴児の場合は、容器は同じ大きさがあるのにもかかわらず、受け口が小さいため、溜まる量も少なくなってしまいます。要するに、聴覚障がい児の能力は、聞こえている子となんら変わらないのに、聞こえないためにことばが覚えられないだけなのです。

 補聴器や、人工内耳を利用することにより、受ける面積を広げることができます。その分溜まる量も増やすことに役立ちますが、受け口の部分を広げることは、医学的に不可能ですので、専門的な指導が絶対に必要になり、それがあって、色々な可能性が生まれてくるのです。

 知的障がいがある場合は、受け口が広くとも、容器の大きさが小さいので、結果溜まる量も少なくなってしまいます。

 ろう児の場合は、手話での言語指導により、受ける面を広くすることができます。聴覚言語ではなく、視覚言語としての情報になるからです。手話は、ろう者の言語ですので、手話による情報のほうが有利です。
 しかし、日本手話といわれる手話でも、日本語ではありませんので、日本語を教えるにはどうするか? その教育をしているのが「明晴学園」、手話の学校です。これから、その成果が現れてくるのだと思います。

 健聴児、難聴児、ろう児いずれも潜在能力としては同じですので、指導により社会的活動の機会は生まれてくるはずであるという前提で、私は、実践してきました。


どうすれば聴覚障がい児をこのような境遇から救いだせるか………

 当時の実態は、社会的な問題として、身体障がい者手帳を持たせたくないという保護者が少なくなかった現状があります。身内に難聴児がいることを知られたくないという気持ちの表れです。また、診断書の原因記入欄に「先天性」ということばを付けないで欲しいという保護者も多くいらっしゃいました。これらは、難聴を隠したいという心理が働いたということですが、私としては、あってはならないことだと思います。現在は、だいぶ少なくなってきました。

 もうひとつ、私が心を傷めた出来事がありました。ろう者からは、ろう児が生まれるということは、当時から知られていましたので、聾同士の結婚は稀なことでした。しかし、聾の親子を連れてきて、「なぜこの夫婦に結婚するな、と言ってくれなかったのか」と訴える祖父母がおりました。私としましては、返すことばがありませんでした。この頃では、そのようなことも稀になりましたが、つい最近まで有り得たことです。
 更には、早期に難聴を診断しても教育の受け皿もありませんでした。

ホームトレーニングの実施

 そこで、どうすれば聴覚障がい児をこのような境遇から救いだせるか。私が、教育分野に深入りするひとつのきっかけが、このような思いからでした。
 このような背景があり、ホームトレーニングを始めたわけです。
 私の専門は、コミュニケーション障がいです。難聴児の早期発見、精査・診断、及び早期教育、並びに難聴以外による言語障がいと難聴による、コミュニケーション障がい児との鑑別診断などをライフワークに決めて、実践的研究に着手し、今日に至っております。

難聴を診断して先ず直面した問題

 難聴を診断して先ず直面した問題として、当時は、難聴幼児の療育及び教育に関してはまったくの未開拓領域でした。聾学校へ紹介しても引き受けてもらえませんでした。そこで病院でできそうなサービスとして、ホームトレーニング(home training : HT)に着手した訳です。
 ホームトレーニングを実施していくことにより、成果は出てきます。何故なら、能力は眠っていただけなのですから。

ホームトレーニングの哲学

 ホームトレーニングは、とにかくまず、言語を、日常生活の中で育てること。子育ては親の責任、言語を育てるのも親の責任。とはっきり言い切る。これらを哲学として行なってきました。行うに従い、成果は出てくるので、皆さんはとても熱心でした。
 親を鼓舞し、子育てに当たって何をすべきかを支援してきました。家庭での記録を付けていただき、それに基づいて評価をするという方法をとりました。

 言語発達支援に当たって何を目標にするかといいますと、<思考の道具>としての言語を育てることに主眼を置き、前提に立って行なってきました。話しことばは、言語と少しニュアンスが違うと思います。

ホームトレーニングの方法

 次にホームトレーニングの方法は、まず、言語教育に当たっての必要な知識をご両親へ提供していくことから始まります。聴覚活用として、もちろん、補聴器は使用していただきます。その装用の指導なども行ないます。育児の実体験の過程で育児日誌を活用することにより、コミュニケーションや言語獲得の過程を実感してもらうことが大切なことです。当時の大方の聾学校の言語指導は、「聴覚口話法」を用い、手話を使うことを禁じていました。私も当時は、手話を禁じてやってきました。
 後にそのことで、反省させられた面が多々ありました。

ホームトレーニングの成果

そのような中で、分かったことといいますと、

 ヘレン・ケラーが、井戸端で「WATER」ということばを覚えていく。その過程が、まさしく体性感覚で言語を獲得していく姿です。思考というところに視点を置いて指導していくことには、意義があることを実感しました。言語獲得の時期は、2歳程度であるという事は、言語心理学の方面でも言われております。脳の成熟に関係しており、言語を獲得できる能力が備わる年齢であると、生物学的にもいわれております。新生児で難聴が発見されたとしても言語獲得が早まることではありませんが、言語獲得できる2歳以前の早い段階から指導できる環境が望ましいと思われます。言語獲得のプロセスは、実は、手話を覚えるプロセスと同じです。言語という限りにおいては、大胆な言い方をすれば、手話も脳の中の言語機能は同じであるといえると思います。
 ヘレン・ケラーは盲聾ですので、体性感覚(皮膚感覚)を活用したわけで、学習に使用する感覚が、健常者とは異なるということです。

最も充実した臨床と研究のできた帝京大学時代

 基本的にご両親に頑張っていただく。他力本願ではなく、自分の子は、自分で育てるという前提に立っていただき、われわれは、それをバックアップするという形をとってきました。そして、保護者を鼓舞するために、親の会「ひまわり会」を設立し、運営も保護者の方々にお任せしました。自主性を重んじてきました。その頃の私は、帝京大学時代(鈴木淳一主任教授)で、私にとっては最も充実した臨床と研究のできた時期でした。

 ホームトレーニングのプログラムを完成させ、実際に講義を行ない、その中で、ご家庭での様子を記録して頂いたレポートを見せていただきながら、コメントを差し上げる。そのようなことを行なってきました。その様子がこれらの写真です(図5・6)

(図5)ホームトレーニング No1 (図5)ホームトレーニング No1
(図6)ホームトレーニング No2 (図6)ホームトレーニング No2

 これは、実際に記録していただいた一部です(図7)。記録を付け、それに対するコメントを行なうことで、ご両親もより具体的な実践内容が見えてくる、それがとても重要なことで、それらを通して、ご両親も体験学習していくわけです。
 そんなわけで、私は、記録を付けることを重要視してきました。
 次の写真は、夏休みを利用して、合宿したときの様子です(図8)

(図7)育児日誌 (図7)育児日誌
(図8)合宿の様子 (図8)合宿の様子

 言語の概念形成の意味では、実体験ということがとても重要です。実体験は、9歳までにたくさん積ませることが必要で、それ以降は、手遅れであるということを生理学者が言っていましたが、私は、なるほどと感じました。そのため幼少時からそのようなところに参加させ、体験を豊かに積ませることは大切なことという訳で、私は実践してきました。
 そのほか、会報の発行や、講演会・勉強会などを企画し、活動してきました。

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難聴学級事例

まさやと歩いた遠い道

 次の(図9)は、難聴学級に通われていた、難聴児を持つお母様が書いた手記と、難聴学級の教師の記録から冊子にして、出版されたものです。「まさやと歩いた遠い道」ということで、早期の言語指導に心血を注いだ記録です。昭和55年に発行されました。

(図9)まさやと歩いた遠い道 (図9)まさやと歩いた遠い道

 これを私は、ホームトレーニングのときに他のご両親に差し上げて、参考にしていただきました。これによって、非常に鼓舞されたご両親がたくさんおられました。しかし、その後、この冊子を読み、自分にはまねができないと訴える親御さんが出てきて、絶版になってしまいました。教育力の低下が見えてきたということでしょうか。残念なことです。

【結果(1)】

社会で活躍している聴覚障がい者(ホームトレーニング参加者)

 私がホームトレーニングを行なった子供たちの中には、今でも機会があれば私の元にやって来てくれます。その子達のその後、社会で活躍している聴覚障がい者が、たくさんおります。その活躍の場を見ますと、公務員や会社員、自営業がたいへん多いです。また医師、歯科医師、薬剤師もおります。学者になったものもいますし、科学者もおります。難聴と関係なく能力があればいくらでも活躍できる世の中に変わってきたともいえます。とてもありがたいことだと思います。

(図10)ふわりふわ (図10)ふわりふわ

 聾学校教員になられた方もおります。スポーツ選手、美術分野のプロ、表具師など。更には、耳の聞こえが悪くても音楽分野で、童謡作詞家として活躍している方もおります。
 この「ふわりふわ」(図10)を作詞された方がそうです。私も演奏会などに招かれて、出かけて行ったことがあります。

 先ほどの拙い文章しか書くことができなかった時代と比べますと、隔世の感があるという、そこまできたわけです。と申しましても決して問題が無いかといいますと決して、そのような訳ではありません。
 しかし、このように活躍している方々も含めて、世の中を良くしていくためには、当事者自身が頑張らなくてはなりません。もちろん我々も、それを支援していく体制を十分に備えなければなりません。そのような意味では、未来があると思います。


【結果(2)】

 帝京大学難聴児親の会「ひまわり会」に属する子どもたちのうち、1998年5月時点で高校1年以上の年齢にある方たち41名(90%以上は70dB以上)に直接アンケートをとりました(図11)。そのうちの学歴についてですが、このような結果になりました。

(図11)アンケート (図11)アンケート

 高等教育を受けている方々が非常に増えました。ここまで成果が上がってきたということです。しかしこの頃、私が非常に反省させられる出来事がありました。

(図12)「アイ・ラヴ・ユー」 (図12)「アイ・ラヴ・ユー」

 この岡崎由紀子さんが書いた「アイ・ラヴ・ユー」(図12)という本は、映画にもなったのですが、難聴者たちの供述を元に書かれたものです。その中の一人に私のホームトレーニングに参加されていた子、「ひまわり会」の子がおりました。その一文が次のようなものです。

「夏実の両親は、聴者である。夏実の上には兄と姉がいるが、どちらも耳は聞こえる。夏実はだから、聴者一家に生まれた、たった一人の難聴児だった。
 夏実が難聴だと知った時、夏実の両親は、運命に屈しないと誓ったと言う。そして夏実は、普通学校に入れられた。強く生きるのだと教えられて……。
 だが、両親の言う「強く生きること」とは、聞こえる人のように生きることだった。両親は夏実に、聞こえる人の真似をしなさいと教えたのだ。手話を使うな。唇を読んで、声を出す口話で話せ、と……。しかしそれは、幼い夏実にとって、拷問のように辛いことだった。
 同じ境遇の子供との交流は意識的に避けられ、夏実はただ、どうして自分だけ聞こえないのだろうという孤独と、疎外感だけを感じて大きくなったのだ。」
(ひくまの出版、1999)

 夏実さんの聴力は、100dB以上だったと思います。障がいをもつ児童を通常の学級で一般の児童とともに教育するというインテグレーション環境にて、ご両親は、夏実さんに強く生きるのだということで、厳しく教育しました。ご両親の厳しい教育とは、「聞こえる人のように」。これが、インテグレーションのひとつの矛盾です。インテグレーションの思想的には、聞こえない子を、聞こえる子と同じにする、との思いがあります。そこに無理がありました。私は、まだ幼いこの子を見ていても、辛いことが良くわかりました。結局この子は、自ら普通高校を退学し、聾学校に入りました。そこで手話を覚えまして、はじめて自分は救われたと言っていました。このことが今、私が仕事をする上で、手話の必要性を感じるきっかけになりました。


外来患者(聴覚障がい児)を診ていて湧いてきた疑問

 当時、私も含めて、聾学校では、聴者家族はもちろんのこと、聾家族に対しても手話を禁じていました。それは、家庭の中においても禁手話でした。そのため、成人になってからの親子関係が悪くなり、親子不和が生じてしまいました。更に、指導した教師や言語聴覚士を恨む気持ちも生じてしまいました。また、手話を禁じていた聾学校を卒業したご父兄で、過去を思い出すと泣き出し、いつも私は、孤独でしたとおっしゃる方が多くおられました。
 また、インテグレーションにより登校拒否や情緒障がいで悩む例も多くありました。
 私は、これらの例を診て、手話の必要性を感じた訳です。

【結 論】

インテグレーションを前提にした早期教育によって

 インテグレーションを前提にした早期教育によって確かに、聴覚口話能力は高まりました。
 それにより、言語力の高い、あるいは、高学歴を有する子どもたちが輩出されました。しかし限界や矛盾もたくさん見えてきました。この理由は何か? と申しますと、難聴によるコミュニケーションの問題は解決されはしないということです。私は、言語力が身につけば、難聴によるコミュニケーション障がいは解決されると思っておりましたが、決してそうではありませんでした。難聴がある限り、コミュニケーション問題は、ついて回るものです。現在、人工内耳が非常に成果を挙げていますが、この問題は解決されていません。聴覚障がい児(者)にとって住みやすい社会とはなにか? 私は再び、問い直しをさせられました。

日本とアメリカの違い

 次の(図13)は、重度の難聴者(人工内耳は行なっていません)が、アメリカ留学をして、日本とアメリカの違いを目の当たりに体験してきたときのことを講演した内容の一部です。

(図13)山人氏の講演より(2005.8.26) (図13)山人氏の講演より(2005.8.26)

 この方は、手話も知らなかったし、英語も素人同然のレベルでしたが、異国の研修にて、想像以上に得たものは大きかったそうです。アメリカ手話をDeaf(聴覚障がい者)の方たちから教えていただき、とても楽しかったそうです。アメリカの大学では、インテグレーション教育(障がいをもつ児童を通常の学級で一般の児童とともに教育すること。)ではなく、インクルーシブ教育(障がいの有無によらず、誰もが地域の学校で学べる教育という意味)が広まっており、その有様をみて、驚いたということです。
 ある意味で日本は、進んでいるように思えますが、聴覚障がい者の全体の人生を考えた場合、狭い視野でしか考えていないのではないかという感じがします。


聴覚障がい児教育の再検討、その目標は何か?

 そこで、私はもう一度考え直しまして、聴覚障がい児教育の目標は何か? ということの再検討をいたしました。ひとつには、言語教育(日本語教育でもあります)もうひとつは、人間形成です。この問題はコミュニケーションの問題を抜いては語れない部分でもあります。このふたつがとても重要ということで、今私は、実践しております。

社会の動向(1)

 世の中の流れの中で、1981年に国際障がい者年が始まりまして、そこで障がい者の完全参加と平等をスローガンに掲げました。いわば、ノーマライゼイション(福祉をめぐる社会理念の一つ。障がい者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく 、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方。)です。もちろん聴覚障がいも関係しております。更に、2007年に特別支援教育制度が発足しまして、そこで、文部科学省はインテグレーション教育からインクルーシブ教育へと理念を変えております。
 インテグレーションとの違いは、インクルーシブ教育とは、障がいがある事、そのことを否定するのではなく、認めて教育する。障がいがあっても当たり前に生きていくという社会作りです。

社会の動向(2)

 もうひとつの社会の動きとしては、早期教育のひとつの現われだと思いますが、ろう者(theDeaf)が自分たちのアイデンティティを主張するようになり、ろう文化を築くようになりました。もうひとつ大事なことは、手話が固有の言語であるという認識が出てきて、手話言語学が進歩しました。このようなことが、ろう社会の後ろ盾にもなりまして、ろう文化の発展にもつながっていきます。そのようなわけで、バイリンガル(ここでは、日本手話と日本語の二つの言語)・バイカルチュラル(ここでは、ろう文化と聴文化の二文化)教育の聾学校も誕生しました(2008年東京に誕生した、明晴学園)。

(図14)日本社会 (図14)日本社会

 私は、このような問題を見るときに、ろうの人達が、アイデンティティを主張してろう文化が生まれ、そのための学校ができてきた。その流れは、日本の歴史の中では、アイヌの文化と同じではないだろうかという認識を持っております。過去に、同化政策が行なわれ、抹殺された経緯があるアイヌ文化が、今では認められています。その意味では日本も欧米の流れに近づいてきたのではないだろうかと思っております(図14)

 ろう文化の中では、ろう者はまったく困っていません。困っているのは、難聴者です。健聴者の社会で、口話で問題が無くやっていけるかといえば、そうではありません。先ほども述べましたが、情緒障がいになってしまうということがやはり浮上してきます。世の中は、だんだんと良くなっていくとは思いますが、そのようなことが、大きな課題といえるでしょう。


社会の動向(3)

(図15)ASIMO (図15)ASIMO

 また、社会の動きとしまして、2008年に国連で障がい者の権利条約が発効されました。そこで、「手話は言語である」と定義がなされました。更に、高田英一氏(社会福祉法人 京都聴覚言語障がい者福祉協会 理事長)が「これにより聴覚障がい問題は医学モデルから社会モデルへ変わった。」と定義付けました。

 聴力を良くすることで、人工内耳の技術も発展してきましたが、基本的に難聴が治るわけではないので、聴覚障がい者の人生を考えた場合、社会的なモデルとしての見方ができないと、旧態依然として子供たちは、救われないと思います。
 このように、ASIMOも手話を使います(図15)


もうひとつの大きな動きと問題点

 もう一つの大きな動きとして、新生児聴覚スクリーニング検査を厚生労働省が2000年に、生後入院中に最初のスクリーニングを行なって生後1ヶ月までにはスクリーニングの過程を終え、生後3ヶ月までに精密診断を実施し、生後6ヶ月までに支援を開始するという、聴覚障がいの早期発見・早期支援のガイドラインを出しました。(しかし、法定化はされませんでした。)それにより、人工内耳の独走傾向が見られるようになり、一方では、それに対する批判も多く出てきました。

(図16)神尾記念病院 (図16)神尾記念病院

 聴覚障がいの早期発見・早期支援のガイドラインが出されたのにもかかわらず、療育の受け皿は整備されておりません。これによりろう教育との間に乖離が生じるという問題点が浮上してきました。
 ちなみに、私のいる神尾記念病院では、いろいろなところが関係しています(図16)

 手話の学校、明晴学園の子供たちも大勢来ています。聴覚障がい児のことを広い視野で見ていくことが大事だと思います。


私の到達した方法論(ホームトレーニングをベースに)
~インクルーシブ教育の見地から~

 このような訳で、私が大切なものはと申しますと、限界はありますが日本語教育においては極力聴覚を活用する。そして、コミュニケーションの円滑化と情緒の安定、及び言語獲得促進を意図してのジェスチャーや手話、指文字なども導入していく。
 今までは、このようなことが、無視されていた傾向があります。そのために、親や先生を恨んでしまうという問題が生じてきたと思います。そのため私は、聴覚活用を重要視していきたいと思っております。

 日本語は、耳で覚える言語ですので、耳を使うということが前提であってしかるべきだと思います。
 特に、難聴の重い子どもには、そこに持っていく方法として、言語の発達を促して、それを基にして聴覚活用の辞書を脳に作っていくというトップダウン方式による指導を行なっております。
 手話を活用することにより、言語獲得が容易になりますし、情緒も安定しやすくなります。
 このような段階を経て、人工内耳を行なう。更には、バイリンガル・バイカルチュラル教育の選択も尊重していく。そのようにして私は、行なっております。

これを前提にした小児の人工内耳対策

 このような訳で、今の保護者の方たちは、手話に対する偏見や抵抗がありません。このようなことを前提にして、ホームトレーニング段階から手話などを導入するため、言語指導はトップダン方式で行ないます。

コミュニケーションについて

 私が感心したことですが、大企業では社内で一般社員のために手話研修を行なっている所が増加しました。そのような企業でお話しをお伺いしたところ、企業内で活躍できる、あるいは喜ばれる聴覚障がい者は、自ら積極的にコミュニケーションを求めていく姿勢がある人。つまり、受身では駄目である、ということです。これは、私たちが海外に行ったときと同じように外国語を巧みに話せるわけではなく、心でコミュニケーションをとる。その気持ちが大事であるということです。

 コミュニケーションができるためには、人に好かれる性格、言語力のある人、本を沢山読み、知識の豊富な人、読み書き力の高い人、そんな人たちが望まれるということです。
 人間形成には、言語教育が必要であるということです。もちろん口話ができることは望ましいことなのでしょうが、コミュニケーションをとることができれば、手話であってもなんら支障がないとのことでした。

人工内耳装用児の概略(図17)

 学会では、人工内耳施行の利点ばかりを述べていますが、そうとは限りません。重複障がいの子もおります。私も、そのようなお子さんにも、役に立つのであれば人工内耳を試みます。
 大方は、聴覚活用の成果が見られるのですが、中には期待通りにいかないお子さんもいます。その結果、使用しないでしまうお子さんも出てきてしまうことが一番危惧されることです。
 人工内耳で失敗すると、手術をしたことにご両親は一生後悔し、十字架として背負ってしまいます。そのような思いを私たち医者も考え、人工内耳という新しい分野だからこそ、教訓として受け止めていかなければいけないと思います。

(図17)人口内耳装用児の概略 (図17)人口内耳装用児の概略

私の五十年余りを顧みて

 補聴器や人工内耳及びその周辺機器がいくら進歩しても、難聴が治らない限り解決できない問題があります。それはコミュニケーション障がいです。これは本人の努力だけでは解決できません。いくら、補聴器が改良され、周辺機器が充実されて、人工内耳が進歩しても難聴に伴う問題があります。その意味で「インテグレーション」という難聴者に責任を負わせるというやり方は、時代遅れであると言えると思います。
 ノーマライゼーションないしバリアフリー社会の実現のために最後に行き着くところは“こころ”の問題であります。
 インクルージョンはノーマライゼーションへのステップとして、私は重視していきたいと思っております。
ご清聴ありがとうございます。

附 則

 お時間の関係で、田中先生のお話しから省略せざるを得なかった内容を、ご紹介させていただきます。
 この本は、2012年1月にテクノエイド協会から刊行されました(図18)。日本語言語発達検査パッケージ『ALADJIN』に関する研究成果と言語指導を行なった症例をまとめたものです。
 こちらは、人工内耳の普及と聾教育との間に生じた問題に対し、どのように向き合うかという問題を表にしたものです(図19)

(図18)本の表紙 (図18)本の表紙
(図19)神尾記念病院 (図19)神尾記念病院

人工内耳の効果は、多くの重度難聴児で劇的に現れるが、問題点もある。

(図20)きこえ (図20)きこえ
(図21)術後の経過 (図21)術後の経過

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