3443通信 オンライン  
みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

白老健診2012 看護課 高橋邦子

 白老町の学校健診は、当クリニックの恒例行事、今年で25回目になります。7月4日午前の診療終了後、仙台空港から一路札幌へ。私が白老学校健診に同行させていただくのは、昨年に引き続き2回目になります。昨年は、震災等の影響で秋に行いましたが、今年は、例年通りの七月。私は、違う季節の北海道を体験できたわけです(ラッキー^_^.)。

 白老町は北海道の南西部、胆振支庁管内のほぼ中央に位置します。南は太平洋 にのぞみ、西は登別市、北は千歳市、東は別々川をはさんで苫小牧市に隣接しております。札幌空港からは、車で1時間ほど(もちろん高速道路利用です)。
 町の面積は425.62平方キロメートル、その8割を森林が占め、緑豊かな自然と気候に恵まれた歴史のある町です。(白老町公式ホームページより)

 今年は、小学校6校と中学校4校でしたが、年々、児童・生徒数は減少傾向だそうで、学校の統廃合が行われ、今年が最後の校舎になってしまう学校もあるとのことでした。10校を一日半で回り、一人ひとりの耳・鼻・喉を診ます。

白老町と仙台藩と三好家

(図1)左から、アイヌ人の長老、氏家厚時(七十七銀行の初代頭取)、三好監物 (図1)左から、アイヌ人の長老、氏家厚時(七十七銀行の初代頭取)、三好監物ラジオ3443通信 学校健診特集2参照

 昔、北海道は蝦夷地と呼ばれており、155年ほど前の江戸時代の終わり頃(安政2年2月)、ロシアの南下を懸念した幕府は蝦夷地上知(蝦夷地経営の方針)を実施し、箱館奉行が管轄する政策を取りました。松前藩、箱館奉行のみでの蝦夷地全域を防備することはできない為、南部・津軽・仙台・秋田藩に防備させました。その際、北方警備を命じられ、白老から択捉までの広域を任された仙台藩は、警備の中心となる城(陣屋)を白老に建てたことが白老町と仙台藩の歴史的繋がりの始まりです。

 調査に送り込まれた三好監物が、地の利を生かした白老に陣屋を築く事を決めます。その三好監物こそが、当クリニックの院長の先祖であります。

 一八五六年の春には陣屋の建設が開始され、仙台にて組み上げた建物を再度解体して、白老に運び込み組みなおす方式で作業は進み、同年の秋には陣屋が完成したようです。本陣屋は面積約66000㎡、堀と土塁に囲まれた内曲輪・外曲輪・本陣・勘定所・殻蔵・稽古場・長屋などが築かれ、常時120名の藩士が毎年交代で北方の防備に当たっていました。

 陣屋開設から十二年後の慶応4年(1868年) 戊辰戦争勃発により、7月12日、奥羽越列藩同盟に参加していた仙台藩は新政府軍に降伏。それを聞いた陣屋の藩士は陣屋を放棄し、各地で身を隠しつつ小樽より仙台へ帰国。仙台藩が撤退するまでの約12年間、慣れない北国の生活を仙台藩の武士たちは、先住民族のアイヌ人との共存に努力し、愛宕神社や、塩釜神社のお宮を立て、国本、仙台を偲んでいたそうです。

(図2)塩釜神社跡 (図2)塩釜神社跡
(図3)愛宕神社 (図3)愛宕神社
#

 翌年、白老郡の支配を命ぜられた一関藩が陣屋を壊し、新たに役所等を建築し、現在に至っているそうです。
 このような歴史的深い繋がりにより、白老町と仙台市は、「歴史姉妹都市」を提携し、約30年になります。
 仙台藩白老陣屋の歴史に幕を閉じてから約130年後の1988年より毎年、三好院長は耳鼻科医のいない白老町で学校健診を行なってきました。

仙台藩白老元陣屋資料館

 現在、仙台藩の陣屋跡地は国の史跡に指定されており、白老町により大切に整備・管理されています。塁や水豪などが状態良く、平地保存されています。
 敷地内に当時の資料等300点余を収納展示する、仙台藩白老元陣屋資料館が設けられており、陣屋跡などの詳細を知ることができます。

(図4)仙台元陣屋資料館 (図4)仙台元陣屋資料館
(図5)案内板 (図5)案内板
(図6)内曲輪の様子 (図6)内曲輪の様子
#

ロシアの南下政策

 江戸時代の終わり頃、何故幕府は、北方警備を強化したかといいますと、ロシアの南下を懸念したことにあります。

 1778年、今からかれこれ230年ほど昔のことです。ロシア船は蝦夷地を訪れ、通商を求めましたが、翌年には、当時蝦夷地を統治していた松前藩はそれを拒否しました。16世紀終わり頃になると、帝政ロシアはウラル山脈を越えてシベリアに進出し、カムチャッカ半島を経営し、さらに千島列島沿いに南下して蝦夷地にまで探検の歩を進める情勢でした。18世紀後半になるとラクスマンが根室に来航するなど(鎖国時代における最初の通商要求といわれています。)北方問題が緊迫化しつつありました。

(図7)カムチャッカ半島の地図 (図7)カムチャッカ半島の地図

 カムチャッカ半島を領有したロシア人は、毛皮などを獲る為に千島列島でも活動し、日本も在住のアイヌを通じて部分的には交易を行うなど接触はされていましたが、東方に土着したロシア人はヨーロッパから遥か離れたこの地で、物資の不足にあえいでおり、食料物資などの補給のために南方の日本との交易を求めていました。こうして18世紀にはロシアとほぼ隣国の関係となり、日本近海、とくに蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれていたロシア勢力が出現するに及んで江戸幕府の北方開拓を刺激することにもなりました。

 そこで1799年、江戸幕府は従来松前藩が統治してきた東蝦夷地を幕府直轄にして兵を各所に配置して警備するようにしました。樺太や択捉の運上屋や番所がロシアに襲撃される事件も起こり、西蝦夷地も幕府直轄として厳重に警備させました。1807年、幕府は東北諸藩に蝦夷地出兵を命じ日露関係は悪化しましたが、1813年にゴローニン事件(樺太西海岸を測量したロシア軍艦ディアナ号のゴローニン船長が、千島列島を測量して国後島に上陸したところを南部藩に捕らえられて松前藩に護送・拘束された事件)が解決し、更には、ロシアがヨーロッパでの勢力拡大を目指したために、以後日露関係は比較的平穏な時期を迎えます。

 しかし、やがてロシアでは農奴解放運動が盛んとなり国内情勢が不安定となります。またクリミア戦争(1853~1856年)でヨーロッパ方面での南下が難しくなったことから、極東での南下政策を強化します。

(図8)クリミア半島の位置 (図8)クリミア半島の位置
ラジオ3443通信 学校健診特集2参照

 クリミア戦争終結に伴い、ロシアの南下が活発化し、安政元年に結ばれた日露通好条約にて「界を分たず是迄仕来の通(樺太とサハリンには国境を設けないという意味)」と不透明な扱いになっていた樺太にて石炭の採掘や駐留を開始し、既成事実を作りながら国境交渉を開始してきました。
 なお、この時点では、北方領土を含めた千島列島には、先住民族(アイヌ民族等)が暮らしていましたが、幕府もロシアも、彼らを勢力下に置いたことになります。

 前述しましたとおり、仙台藩白老陣屋は、突貫工事にて陣屋を築いたことでも解かるように、ロシアがいつ攻めてくるのかという不安があったようです。「クリミア戦争」と「白老」には歴史的な深い流れがあったようです。
 白老健診の話から歴史の話に広がってしまいましたが、このような経緯があり、白老町と三好家の歴史があるのです。

 今回も多くの関係者の方々のお蔭で、無事帰仙することが出来ました。ありがとうございました。

(図9)アイヌの民族衣装を着ての撮影 (図9)アイヌの民族衣装を着ての撮影
(図10)勇ましい武将姿の医事課・伊藤さん (図10)勇ましい武将姿の医事課・伊藤さん
#