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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

2013年 白老町 学校健診レポート ~イザベラ・バードの白老・私の白老~ 看護課 今井 尚子

白老健診の由来

ピリカメノコ(アイヌ美人) ピリカメノコ(アイヌ美人)

 2013年7月3(水)~5日(金)、院長が毎年行っている白老町学校健診に初めて同行させていただきました。この健診は耳鼻科医のいない白老町の子供たちために、院長が25年以上前から行なっているものです。

 なぜ、院長が毎年白老を訪れているのか。実は、1855年(安政2年)、南下政策をとるロシアの圧力を防ぐため、幕府から蝦夷地警備を命じられた仙台藩は、北海道南岸の白老から北東の端にある知床岬までと、国後、択捉両島に及ぶ広大な範囲を警備範囲とされ、白老を本拠地と定め元陣屋(本陣)を築きました。

 この決定をしたのが仙台藩白老元陣屋のリーダーであった三好監物であり、院長の御先祖様です。

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資料館 資料館
三好監物 三好監物

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愛宕神社(1) 愛宕神社(1)
愛宕神社(2) 愛宕神社(2)

 仙台藩は戊辰戦争が勃発した1868年(明治元年)まで白老で警備にあたりました。その後、新政府に命じられた一関藩が1871年の廃藩置県まで白老統治を行い、その後開拓使に引き渡されました。現在、仙台藩白老元陣屋の跡は復元整備され、「白老仙台藩陣屋跡」として国指定史跡になっています。

 見学させて頂いた仙台藩元陣屋資料館はその一角にあり、三好監物に関わりのある物が多数展示されていました。仙台藩に縁のある愛宕神社にも立ち寄らせていただきました

 こういった歴史的な縁があり、毎年欠かさず学校健診を続けてきました。

イザベラ・バードの時代

イザベラ・バードの旅行記 イザベラ・バードの旅行記

 今回、現地に赴くにあたり「イザベラ・バード紀行」という本を読ませていただきました。これは明治初期、イギリス人の女性旅行家イザベラ・バードが、横浜から東北を経て北海道・平取のアイヌコタン(アイヌ人の部落)までを旅して記した「日本奥地紀行」にそって、書き起こされた本です。

 バードは、イギリス・ヨークシャーに生まれ幼少時から病弱で療養の為に各地を転々としていました。その幼少時の体験が、バードを世界旅行に憧れさせる要因となり、1854年(嘉永7年・安政1年)に医師の勧めでアメリカへの航海に旅立ちます。

 その頃の日本は幕末の混乱期にあり、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれ、下田、箱館(函館)が開港、江戸幕府の鎖国体制に風穴が開きました。

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 お隣の中国では、清帝国がイギリスの侵略にさらされた上「太平天国の乱」と呼ばれる長い動乱の只中にありました。そのイギリスも、南下政策をとるロシアとの間で摩擦が生じ、俗にいうクリミア戦争(1853年~1856年)のさなかでした(白老と同時期)。

 日本はその後、1867年(慶応3年)に大政奉還(徳川慶喜が、明治天皇に政権返上を上奏した政治事件)が起こります。これにより徳川幕府は解散し、薩摩・長州両藩を主体とする明治新政府が発足しました。

 しかし、1868年(慶応4年・明治元年)、新政府に追従しない旧幕府勢力が蜂起し、戊辰戦争が勃発します。
 あくる1869年(明治2年)、北海道函館にある五稜郭に篭城した旧幕府勢力を、新政府軍が鎮圧し戊辰戦争は集結します。
 その後、新政府は国の近代化を推し進め国外から多くの西洋文化が入るようになり、文明開化が叫ばれていました。

 しかしそれは、これまで社会的に優遇されていた士族たちに一朝一夕で受け入れられる体制ではなく、新政府に対する不満が募り、各地で内乱が相次ぎます。

 そして、1877年(明治10年)、日本最後の内戦といわれる西南戦争が発生。西郷隆盛を盟主とする反政府勢力は熊本・鹿児島を中心に善戦するも、最後は地元鹿児島の城山にて自刃しました。

バードの来日

宿舎前にて 宿舎前にて

 バードは、西南戦争が終結した翌年の1878年(明治11年)8月、北海道に上陸しています。箱館・森・室蘭・幌別(登別)を経て白老を訪れ、苫小牧・勇払・佐瑠太・平取と旅を進めます。平取で旅は終わり、白老を経由し帰路につきます。

 白老町教育委員会の武永さんらによると、バードが白老に立ち寄った際、宿泊したのは新白老駅逓ではないかとのこと。バードはこの施設を『非常にきれいな新しい宿屋で部屋も快適』と記しており、ここで鮭や鹿肉のステーキなどを堪能し大満足だったようです。バードについて武永さんにお伺いしたところ、その場所に案内していただくことが出来ました。

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「プー」を描いたバードのスケッチ 「プー」を描いたバードのスケッチ

 宿の跡地は道路沿いの三好商店(全くの偶然で院長との関係は無し)というお店から、隣の空き地にかけての一帯で、1881年(明治14年)の明治天皇巡幸の記念碑(明治天皇が東北・北海道を巡幸した際、宿泊所として使われた) が建っていました。現在は鉄道の位置が変わったため、昔の面影はありませんでしたが、道路沿いにバードが通った所として看板が建っていました。

 バードの移動手段は人力車によるものでした。北海道に入ってからはアイヌの人夫が度々登場します。当時バードが通ったところには幾つかのアイヌコタンがありました。バードがアイヌコタンを実際に見たのは幌別(登別)が初めてでアイヌの人々の家を『和人(日本人)の家よりポリネシア人の家に似ている』と記しており、ここでアイヌ民族の高床式倉庫「プー」をスケッチしたとされています

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左より伊藤、澄川先生、院長、今井 左より伊藤、澄川先生、院長、今井

 白老には海沿いにアイヌの家が51戸、和人の家が11戸あったと記されています。戦後、コタンは市街地に飲み込まれアイヌの人々はポロト湖畔に集団移住します。

 これが今回見学させていただいたポロトコタン(現・アイヌ民族博物館)の始まりになります。こちらで前述した武永真さんにもお会いすることが出来ました。

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熊はアイヌの守り神 熊はアイヌの守り神

 アイヌ語で「大きな湖沼」を意味するポロトの湖畔(白老町若草町)にあるポロトコタンには現在、アイヌ民族博物館があり、アイヌ文化の伝承・保存と公開を行っています。衣食住万般にかかわる道具や施設が復元展示されていて、アイヌの人々が工芸を実演したり、伝統的家屋「チセ」の中で歌舞を披露したりしています。歌舞は「アイヌ民族古式舞踊」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。歌舞は何種類かあり、今回は数少ない男性の舞「エムシリムセ(剣の舞)」や、アイヌの重要な儀式「イヨマンテ(熊の霊送り)」の踊り「イヨマンテリムセ」などを見学させていただきました。

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アイヌの家屋「チセ」の前で アイヌの家屋「チセ」の前で
エムシンセ(剣の舞) エムシンセ(剣の舞)
イヨマンテリムセ(熊を神に捧げる祭り) イヨマンテリムセ(熊を神に捧げる祭り)
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 アイヌ文化ではカムイ(神)は様々な動物や自然現象に姿を変えて自然界に存在するとされています。アイヌの人々はその教えに沿ってカムイを崇め、恵みに感謝し生活をしていました。バードはアイヌの人々を『極めて親切で丁重、高貴で悲しげで、優しく知的な顔つき、話し方の音楽的な調べ、未開人というよりむしろ〝キリスト〟』と表現しています。バードの旅の本当の目的はアイヌの文化を知ることだったのでは、ともいわれています。

 アイヌの伝統楽器に、ギターのような弦楽器の「トンコリ」や「ムックリ」があります。これは木の棒に糸がついていて両手で引っ張る事で音が鳴り、さらに口に当てて音色を変化させ、自然界に聞こえる風・雨の音、鳥や熊など動物の鳴き声などを表現する楽器です。体験させてもらいましたがなかなか難しく、残念ながら奏でるまでには至りませんでした。またアイヌの民族衣装も着させていただき、バードが見た135年前の白老を想像しながら、「チセ」の立ち並ぶポロトコタン内を歩くことができました。

トンコリを抱く院長 トンコリを抱く院長
ムックリ(口琴)にチャレンジ! ムックリ(口琴)にチャレンジ!

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最後に

 あいにく出発日からの3日間、仙台も雨、白老も曇りや霧雨続きですっきりしない空模様となりましたが、無事町内全ての小・中学生計375名の健診を終えました。

 また、過去にバードの歩いた道を辿ることにより、この地がいかに歴史的に重要な土地であったのか再認識しました。

 今回も多くの方々のご協力により、無事健診を終了することができました。このような機会を与えていただいた院長先生はじめ、スタッフの皆様、関係者の方々にこの場をお借りして感謝申し上げます。