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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

ドクター紹介 患者接遇ワンポイントレッスンでお馴染みの藤原 久郎先生 (長崎市 元・藤原ENTクリニック院長)

 院長の古い友人で、元・藤原ENTクリニック院長・藤原先生が、今年の2月に花粉症シーズンのお手伝いでお越しになる予定です。
 ここでは、東北の被災地を巡られた藤原先生の手記をご紹介いたします。

 三陸紀行 愛野記念病院 藤原 久郎

 三好先生、仙台の皆様、楽天初優勝お目出度う御座います。大きな苦難があっても前へ進む東北の底力を見せて頂いた感がします。プロ野球界のお荷物と烙印を押されていた楽天だったのに。余裕でのゴール、大したものです。

 私は1989年(平成元年)から長崎で22年間、開業医生活をしておりましたが、少し考える所あり現在は長崎市から1時間かかる病院の勤務医になって働いております。今回、かねて念願だった東北の被災地を自分の眼でみる機会を得ました。体感できた事を書いてみたいと思います。

 9月11日(水)仙台空港へ。

 旅の目的は東京学会出席と東日本大震災の爪痕を自分の眼で見ておきたいというのが主目的です。仙台空港を選んだのは仙台にいる三好先生にお会いするためでした。しかし、残念ながら先生の中国行きにぶつかってしまい今回は旧交を温める事ができませんでした。2月を楽しみにしています。

 東北最初の夜は田中事務長さんに三好先生のなじみの店に連れて行ってもらい東北の味を堪能させて頂きました。事務長さんは「自分は釣りが趣味なんですが、いまだ震災後釣りには行っていないんですよ」とぽつり。津波で流された人達の事を想うと海にいって素直に遊ぶ気にならないのでしょう。東北に入って初めて震災後の心の傷を感じました。

(図10)
(図1)

 翌朝はレンタカーをかりて仙台東部道路を使い北に。高速道路の終点・登米東和ICで降りてから東方の海岸を目指しました。道は道幅の狭いくねくねの山道道路で山を下りた所があのテレビで見ていた南三陸町でした。町の入り口はプレハブが建ち並び、道路建設も進んでおり復興工事用ダンプが土煙を上げながらせわしく走っていました。震災から2年、復興は確実に始まっているのですね。すぐにプレハブでできた南三陸さんさん商店街をみつけました(図1)。平日の昼前なのでお客さんはまだわずか。中には広場があり、様々なお店が肩を寄せ合っておりました。しかし、店はプレハブのために狭いのです。私はお気の毒で写真を向けられませんでした。商店街の入り口を駐車場から撮っただけです。朝飯を食べてなかったので、お店に入りましたが、まだ早かったのか食事どころはどこも準備中で食べれませんでした。仕方なく外へ出て車を走らせるとすぐ、商店街から極近距離でしたが寿司屋「くう海」という店を見つけました。お店はプレハブではなく真新しい建物でした。幸い営業中の札がかかっております。やれやれ。と、ドアを開けるとこちらがびっくりするような笑顔と元気な声が迎えてくれました。遅い朝食になったので量が軽めの「まぐろどんぶり」を頼みました。

 一口、口に入れましたがこれがえらく旨いんです。驚いて顔を上げると大将が当然の様な顔をしておりました。「旨いですね」と声をかけると、「私たちは(美味しくて安くて喜んでもらえる)食べ物を差し上げるのが仕事なんです。この丼にはマグロの特別おいしい所を皆さんに喜んでもらえる料金にして出しているんですよ。(苦しいのですが)いつも笑顔と元気(+感謝)を一緒に出しているんです」と大将。本当に美味しかったです。大将の苦しくても苦しいのを腹に収めて前へ進む心意気を感じた丼でした。これからもまだまだ大変な苦労が待っていると思うのですが頑張って下さい。

 腹ごしらえをしてから南三陸町の港の魚市場跡にも行ってみました。2年以上経過しており瓦礫は整理除去されておりました。道路は整理されているのですが以前家々が立ち並んでいた所にはまだ新建築物はなく広々した無惨な風景が残っていました。写真でしか見た事はありませんが、戦時中空襲でやられた町を連想します。長崎でも戦後すぐの時代は原爆の洗礼を受けた長崎、空襲でやられた佐世保もこんな風景だったのでしょう。まだ津波でひしゃげたガードレールはあちこちに残っていました。

(図2)
(図2)
(図3)
(図3)
(図4)
(図4)

 海岸線を北上。途中、光明寺温泉を通りました。海が見える風光明媚な温泉宿がなくなっていました。この高さまで津波が来たのでしょう。身震いがしました。海岸沿いを走っていた鉄道も津波でいとも簡単に寸断されトンネルは野ざらしに放置されておりました(図2)。さらに北上して気仙沼に入りました。テレビで見た入り江風景のある海岸線が見えました。300tクラスの大型漁船が一隻残っていて片付け作業中でした(図3)。残しておいたら記念物になるであろうにと思い残念です。歴史に残るプレゼンテーションを行った佐藤真海さんに関する掲示物や祝オリンピック横断幕は全くありませんでした。いまだここは別世界なのです。さらに道を急ぎ北上、奇跡の一本杉で有名な陸前高田まで到着しました。ここはもう岩手県。三角地に広がった町は根こそぎ津波で持って行かれた無惨な風景が限りなく広がっておりました。

 翌日は福島から相馬市に入りました。公立相馬総合病院の耳鼻科勤務医、長谷川先生の出迎えを受け、車で相馬市内を案内してもらいました。ここから南相馬、そして福島原発と続いているのだ。熊院長の話によると彼がこの地区の唯一の耳鼻科勤務医だそうである。彼が一人で10万人を背負っているそうです。放射能問題で後任もなかなかこないとの事。大変な仕事をされておりました。

 港に行くと沢山の漁船が整然と並んでいました。夜、ただ一隻の船の明かりがついていましたが、これは漁ではなくいまだに残るがれき集めの仕事なのだそうです。汚染水漏れの影響で漁は禁止されていました。海があるのに出れません。港は淋しく閑散としていました(図4)。

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 長谷川先生の案内で磯部地区にも行きました。国道沿いには何も残っておらず、胸に番号をつけたボランティアの集団横に並び数ヶ所で何かを掘り起こしていました。行方不明の方々の遺品を探しているとの事でした。海岸まで限りなく広い土地が広がり、あちこちで除染袋が積まれていました。おびただしい数です。

 被災された方は仮設住宅住まい。医療現場はまだまだ援助不足で、人的資源の少ない先生方はぎりぎりの数で働いておられ、疲労困憊しておられました。先生達の奮闘に頭が下がります。
 ここでは行政任せでなくオールジャパンの支援が必要と感じました。

 歴史的にみると、必ず復興は起こっています。一瞬のうちに数万人が犠牲になった長崎では70年はぺんぺん草も生えないだろうと言われていました。除染された事も聞いた事はありません。いまだに工事のために土を掘り起こすと人骨が出てくる土地です。汚染された土地に作物を作り、海から魚を捕り復興してきました。遺伝子は傷が付けられて発癌のリスクは上がったのでしょうが、他の土地と比べ驚く程癌の患者さんが多いという話は聞きません。長崎は危ないので長崎から出て行こうと言う人もいません。長崎の中心部の土地は驚く程高いのです。復興を果たしました。

 人類は体内に免疫力を持ち、遺伝子が様々な原因で傷つけられても修復できる能力があります。人類は地球に生誕してから、繁栄の道を辿ってきました。神様から子孫繁栄のために生き延びる力を頂いてきたし、苦難はあるでしょうが逞しく生きる生命体なのです。私は人類は欠点も多々ありますが、元々は生存していく強くたくましい生命体と思っております。

 今回の旅を通して、懸命に生きている人たちに出会いました。東北の山々と海を思い出すと「雨にも負けず」の宮沢賢治の詩を思い出します。いつも支援しています。頑張りすぎない様にして下さい。

 藤原先生、貴重なご体験をお話し頂きましてありがとうございました。

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