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日本安全保障・危機管理学会 第21回現地研修会レポ(2)~航空母艦ジョージ・ワシントンと戦艦三笠記念館~ 総務課 青柳 健太

 前号に引き続き、2014年4月30日(水)、院長が所属する日本安全保障・危機管理学会が主催する現地研修会に参加した様子をご紹介致します。
今回は、在日米軍横須賀基地に隣接している戦艦三笠記念館を見学しました。


日露戦争の殊勲艦・戦艦三笠を見学

(図1)戦艦三笠と東郷平八郎の像 (図1)戦艦三笠と東郷平八郎の像

 米海軍の空母ジョージ・ワシントンを視察後、一行は横須賀基地に隣接する戦艦三笠記念館を見学しました。

 戦艦三笠は、中学校の歴史の授業にも出てくるのでご存知の方も多いかと思います。

 日清戦争(1894年)後、アジアの植民地化を目論む欧米列強に対抗するため、日本政府が海軍力の増強を目指してイギリスのヴィッカース造船所に発注した6番目の戦艦です(図1)


 名前の由来は、奈良県にある三笠山にちなんで命名されました。ちなみに、旧日本海軍の艦名はその種類によって由来にある程度の規則性があります。戦艦=古い国名(大和、武蔵など)、巡洋艦=山(高雄、愛宕など)、空母=空や伝説上の動物(鳳翔、龍驤など)。

 三笠は、日露戦争(1904~1905年)で最大の海戦となった日本海海戦において、東郷平八郎の指揮する聨合艦隊旗艦として参戦し、ロシアのバルチック艦隊と戦いました。

 当時のロシアは、世界でも群を抜く軍事力を保有しており、戦争時に動員できる兵力(戦時兵力)は約460万人と言われていました。海軍力も黒海・バルト海・太平洋に艦隊を有し、イギリス・ドイツに次ぐ世界第3位の規模を誇っていました。

 そんな中、ロシアは年間を通して氷に閉ざされず利用可能な不凍港の獲得を目指して、領土を南へ拡張する南下政策を東ヨーロッパ・中央アジア・極東で推し進めていたのです。

 ロシアの南下政策を警戒していた日本は、着々と迫り来る大国ロシアに抗するため、1904年、中国・旅順港(現在の大連)と仁川港(現在は北朝鮮の都市)に停泊していたロシア太平洋艦隊への攻撃を皮切りに、日露戦争へ突入しました。

 その後、いくつかの海戦で疲弊したロシア太平洋艦隊は、失った戦力を補充するために遠く北欧バルト海から艦隊を引き抜き、旅順へと向かわせます。これが俗に言うバルチック(バルト海の)艦隊です。

(図2)バルチック艦隊の航路 (図2)バルチック艦隊の航路

 バルチック艦隊は、バルト海から大西洋~アフリカ喜望峰~インド洋~シナ海と、実に3万3千km(地球一周は約4万km)もの超長距離を、脱落艦もなく航海します。しかし、アジア各国の港は日本と同盟を組んでいた英国、英国と仲の良いフランスが植民地としていたこともあり、寄港が許可されず満身創痍で日本海海戦に臨むことになりました(図2)


 結果は、訓練を充分に積み戦力を充分に整えた日本艦隊の圧勝。海戦後、ロシア領ウラジオストックに入港したバルチック艦隊は僅か38隻中3隻のみ(鹵獲や中立港へ逃れた艦を除いて)でした。

 頼みのバルチック艦隊は壊滅し、洋上戦力の大半を失ったロシア。また、この戦争の為に膨大な借金を作った日本もこれ以上の戦争継続は難しく、アメリカを仲介として1905年9月5日にポーツマス条約を結び停戦しました。

 ちなみに、日露戦争が始まる前、日本(日本銀行)の持つ外貨(外国から軍需物資を買う為のお金)は5千万円。1年間の国の収入が約3億円だったのに対し、日露戦争で使用した費用は収入の6倍にあたる18億円という途方も無い金額でした。日本は借金大国になっていたのです。結局この借金は82年後の1986年(昭和61年)にようやく完済しました。その間に日本は、太平洋戦争でまた未返済の借金を作ってしまいました。

戦艦から記念艦へ

 まさに、国の将来を担保にして臨んだ日露戦争。その重圧を背負って戦った戦艦三笠ですが、終戦直後の1905年9月11日、九州の佐世保港内で弾薬庫の爆発事故を起こして沈没してしまいます。1年後に引き上げられた三笠は補修を行ない、第一次世界大戦(1914年~1918年)に参戦しました。

 その後、横須賀軍港に係留されていた三笠を関東大震災(1923年)が襲います。岸壁に衝突した三笠は、座礁事故を起こした際の古傷から大浸水を起こしそのまま海底に着底します。元々、ワシントン海軍軍縮条約で廃艦が決まっていましたが、国内外より保存運動が立ち上がり特別に保存が認められました。

(図3)艦の側面にある副砲郡 (図3)艦の側面にある副砲郡
(図4)三笠の40口径30.5cm連装砲です (図4)三笠の40口径30.5cm連装砲です

(図5)実際に艦首に付けられていた菊の御紋 (図5)実際に艦首に付けられていた菊の御紋

 日本史上でも、大きなうねりのあった時代を駆け抜けてきた三笠ですが、太平洋戦争の終結後、戦勝国のソ連より解体を要求されました。ロシア帝国の後継国からすると、忌まわしい記憶の産物と見えたようです。しかし、国内や米軍の有識者らの尽力により、解体は避けられましたが、その後も戦後の物資不足からくる上部構造物の盗難により、みるも無残な姿になってしまいます。現在の主砲塔や艦橋などはレプリカですが(図3・4)、一部の甲板や艦尾の部分は建造当時のまま残されています(図5)

 こういった新しい艦を海外発注し、研究してきた日本は独自の設計で大型艦を造船できるようになります。

 前述のワシントン海軍軍縮条約で、主力艦の保有数や大きさなどに制限が加わることになり、大量に軍艦を建造することができなくなりました。発想の転換を図った日本は、量より質とばかりに、1つの軍艦で複数の相手を打ち負かす事が出来る艦の製造を求めていきます。


 代表的な艦として、太平洋戦争(1941年~1945年)を生き残った長門型戦艦「長門」(戦後、アメリカのビキニ環礁水爆実験で2回の爆発に耐えた後、人知れず沈没しました)や、軍艦史上でも稀にみる巨大艦である「大和」など、数十年前まで海軍後進国だった国とは思えない性能を持った艦を作り上げていきます(図7)

 現在でも、その造船技術は大型タンカーなどの造船技術に生かされ、世界各国から注文がきています。

研修会に参加して

(図6)当時のパーツが使われている艦尾部分 (図6)当時のパーツが使われている艦尾部分
(図7)国内で造船された艦 (図7)国内で造船された艦

 軍艦は、時代は変われど「郷土を守る」という一つの目的を達する為に産み出されました。機械は自身の運命を選ぶことは出来ませんが、願わくばその使命を行使する事のないよう努力していかなければならないと感じました。

 今回、普段では接することの出来ない機会に恵まれ、昔から今に至る歴史の流れを再確認できたことは、大変勉強になりました。

 さて、前号で出したクイズ「空母にある秘密兵器は何か? 」の答えを発表します。

 答えは・・・・・・「兵士」でした。
 その心は、どんな最新の機械もそれを使う人がいなければただの鉄の塊。高度な訓練を積み「心」を持った人間がいるからこそ、最高のポテンシャルを発揮できるから、だそうです。まるで映画のセリフみたいですね。


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