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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

白老健診 旅レポート(1) 医事課 阿部 真美

アレルギー調査で訪れた旧満洲について、3話目のレポートをご紹介させて頂きます。

9月14日(日)~ハルビンから長春へ~

 9月の肌寒さを感じさせる雨の中、一行は次の目的地である長春へと向かいます(図1)。
 吉林省の省都である長春は、都市圏人口が750万人を数える大都市です。市内には、中国でも最大規模を誇る吉林大学を含む27の国立大学があり、100余りの重点科学研究機構が設置される学園都市としても有名です。
 かつてこの街は、満洲国時代に新京と呼ばれていました。日露戦争後に日本とロシア帝国との間で協定が結ばれ、中国最北の黒龍江省のハルビンを境界とする取り決めがなされました。それまでロシアが建設していた東清鉄道(満洲北部を横断する鉄道でシベリア鉄道に接続します)の路線と、日本が建設を進めていた満洲鉄道の路線は線路の幅が違うため、2つの鉄道は長春(新京)で乗り換えをおこなう事となりました。それにより長春は、日露の情報と文化が合流する街になりました。

(図1)記念館の入口 関東軍は、中国東北部の関東州に駐留した日本帝国陸軍の総称です。
   「関東」とは関の東側、つまり万里の長城の東端・山海関より東側の地域を指しています。
   (図1の斜線と線路は、関東軍の管理地です)

●偽満皇宮博物院

(図2)偽満皇宮博物院 (図2)偽満皇宮博物院

 長春は、前述のとおり満洲国の首都として整備された歴史があります。満州国は実質的には日本の関東軍が実権を握っていましたが国際世論の反発を避ける為に、日本人ではない「皇帝」を擁立しました。
 その皇帝とは、中国最後の王朝・清帝国、その第12代皇帝だった愛新覚羅溥儀(以下、溥儀)です。
 溥儀を満洲国皇帝に据え、表面上は満洲人による独立国という体裁をとっていました。
 溥儀は1932年~45年までの14年間をこの宮殿で過ごしましたが、今では施設全体が資料館として一般開放されています(図2)。

 敷地内は溥儀が政務を行う外廷と、プライベートを過ごす内廷に別れており、中には乗馬場も完備されていました。
 ちなみになぜ偽満洲という名称かと言うと、満洲国は国際的には国として認められていなかった為、戦後に中国がこの建物を資料館として整備した際に「偽」という言葉が付け加えられました。

◎外廷 政務を行う場

 溥儀は主に外廷の主要建築物である勤民楼(図3)で、政務や各種典礼を行っていました。この建物の玄関ホールの丸い屋根は、ココーシュニクというロシアの建築様式が用いられています。文化の交流地としての影響は、こんなところにも現れています。外国の使節や来客があると謁見の間(図4)で会談を行いました。他にも来客と一緒に会食をする食堂(図5)、溥儀が使用していたお手洗い(図6)、関東軍との打ち合わせの様子を模した部屋(図7)など様々な部屋が残されています。

(図3)政務を行う勤民楼 (図3)政務を行う勤民楼 (図4)皇帝溥儀の謁見の間 (図4)皇帝溥儀の謁見の間 (図5)ここで使節などと会食します (図5)ここで使節などと会食します

(図6)皇帝のお手洗い (図6)皇帝のお手洗い (図7)関東軍との会合の様子 (図7)関東軍との会合の様子

◎内廷 日常生活の場

 このエリアの住居部分にあたる建物は緝煕楼(図8)と言い、寝室や書斎、溥儀の為の漢方調合室がありました。また溥儀の婉容婦人のアヘン部屋があります(図9)。若くして結婚した婦人ですが(図10)、溥儀との夫婦仲は決して良好とは言えず、次第にアヘンに染まっていく様子が再現されています。

(図8)日常生活をおくる緝煕楼 (図8)日常生活をおくる緝煕楼

(図9)婉容夫人のアヘン部屋 (図9)婉容夫人のアヘン部屋

(図10)17歳で溥儀と結婚した婉容夫人 (図10)17歳で溥儀と結婚した婉容夫人

◎仮宮殿 同徳殿

溥儀自身は、関東軍の盗聴を恐れて使用しなかったと言われる仮の宮殿です(図11)。園庭には和風の造成が成され、その一角には山を模した防空壕(図12)も設置されていました。

(図11)仮宮殿の同徳殿 (図11)仮宮殿の同徳殿

(図12)同徳殿の庭にある防空壕 (図12)同徳殿の庭にある防空壕

●偽満洲国務院 旧跡

(図13)日本の国会を模した旧ベチューン医科大学
    正面に立つのはノーマン・ベチューンの像 (図13)日本の国会を模した旧ベチューン医科大学
正面に立つのはノーマン・ベチューンの像

 どこか見た覚えのあるこちらの建物は、満洲国の最高行政機関だった国務院跡です(図13)。日本の国会を模した造りで、正面玄関の円柱や屋根部分に似た面影を見ることができます。建築当時は長春駅や関東軍司令部と地下道で繋がっており、緊急時には相互交通が出来るようになっていました。

この建築はその後、旧白求恩医科大学として利用され、現在は吉林大学の基礎医学院になっています。
ベチューンとはカナダ人医師の名前です。1914年に勃発した第一次世界大戦に従軍し傷ついた兵士の治療を行っていました。戦争が終わるとアメリカのデトロイトに渡り、無料で肺結核の治療を施す活動をしていました。しかし満足な治療も確立していなかったその頃です。貧困層の人々は、次々と結核に感染し亡くなっていきました。医療の限界を感じたベチューン医師は、貧困撲滅にこそ命を助ける鍵があると考えるようになり祖国カナダの共産党に入党。1938年には中国共産党の本拠地・延安に渡り、毛沢東ひきいる共産党の活動を支援しました。

1939年にベチューン医師が亡くなると、その功績を称えて同年にベチューン衛生学校(その後医科大学)が設立されました。