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みみ、はな、のどに関する病名、症状などの用語集

旅レポ4
2014年アレルギー調査
〜 満洲の風を感じて 〜
総務課 青柳 健太

 アレルギー調査で訪れた旧満洲について、4話目のレポートをご紹介させて頂きます。

9月15日(日)~長春から大連へ~

  満洲国の首都であった長春(旧名:新京)で過ごした翌日、一行は最後の滞在地である大連へと向かいます。
 大連までは、中国全土に張り巡らされている高速鉄道網の一つ、ハルビン―大連間の約900㎞を繋ぐ哈大高速鉄道に乗って移動します(図1・2)。
 中国では今、高速鉄道・道路を大々的に整備して、交通輸送路の拡充を推し進めています。特に高速鉄道は、日本を始めとする外国企業も開発に参入し技術提供や車両開発などを行っています。
 今回乗る列車は、フランス企業が開発した車両で、流線型のスマートな車体が特徴的です。
 平均走行速度が200㎞で、最高速度は350㎞と言われています。乗り心地はとても快適で、横揺れや振動も少なく車内サービスや清掃も充実しています。

(図1)流線型をした高速鉄道 (図1)流線型をした高速鉄道

(図2)2人掛けの1等車 (図2)2人掛けの1等車

●満洲鉄道と高速鉄道

 この高速鉄道は、帝政ロシアが敷設した東清鉄道、その経営を引き継いだ日本の南満洲鉄道株式会社(通称・満鉄)の路線に沿った形で整備されました。着工は2007年8月で5年後の2012年12月に運行が開始されました。
 線路の幅は国際標準である4フィート8.5インチ(1435㎜)。満鉄が整備した時と同じ線路幅(軌間・ゲージとも言います)を利用しています。
 帝政ロシアが最初に敷設した線路は、通常よりも幅の広い広軌と呼ばれる5フィート(1524㎜)幅の線路だったのですが、満鉄が経営を引き継ぐと国際標準に合わせて改造されたのです。
 また、機関車を初めとする車両の独自開発が困難だった事もあり、創業開始から7年間はアメリカ製の車両を輸入して運行していました。

●「満鉄」とは

(図3)満鉄本社跡 (図3)満鉄本社跡

 満鉄は、鉄道経営以外にも非常に多目的な分野を統括し、当時の日本政府の戦略を担った国策会社として存在していました(図3)。  
それはまるで、大航海時代に栄えた東インド会社の日本版とも言うべき物で、炭鉱・学校・病院・ホテル・上下水道・電気・ガスなどのインフラ事業にまで及んでいました。
その巨大な企業のトップには、後の関東大震災の復興で活躍した、都市開発の父・後藤新平が迎えられ、大規模な都市開発が進められていきました。
幅の広い道路と歩道、全戸に上下水道を完備、電線は地下に埋設するなど、日本本土の都市よりも充実したインフラ整備が行われ、とても見栄えの良い近代都市が作られました。

今でもハルビン、長春などの東北部の都市を歩いてみれば、その時代の名残が感じられます。

●「ダーリニー」と呼ばれた大連

 大連は、渤海と黄海に挟まれた遼東半島の南端にあります。欧州とアジアを結ぶ鉄道路と上海航路の接続点にあたり、経済先進地域として多くの外国企業が進出した港湾都市です。仙台市とアメリカ西海岸のサンフランシスコと同緯度にあり、四季折々が感じられる過ごしやすい街です。
 大連とは、帝政ロシアの統治時代にロシア語で「ダーリニー(遠い)」と呼ばれていた事から、日露戦争後の日本統治時代に「大連」と命名されたのが由来となっています。

●大連ヤマトホテル

(図4)豪壮な旧大連ヤマトホテル (図4)豪壮な旧大連ヤマトホテル (図5)入口にて (図5)入口にて (図6)金箔の柱と水晶のシャンデリアが栄える会議室 (図6)金箔の柱と水晶のシャンデリアが
栄える会議室

 大連市の中心部に位置する直径213mの中山広場、市中心部の道路は全てこの広場から放射状に伸びています。築100年になろうかと言う欧風建築物が並んだ一角に、大連ヤマトホテルはあります(図4・5)。
 初期のヤマトホテルはロシア東清鉄道の建物を利用していましたが、三代目にあたる今の建物は1914年に日本の清水建設が建築しました。
 満鉄が経営したヤマトホテルチェーンの旗艦店として、鉄骨煉瓦造りの重厚な外観、1階エントランスの装飾や階段など、建築当初のスタイルがそのまま残されています。
 特筆すべきは1階奥にある宴会場です(図6)。支柱は全て金箔張り、シャンデリアは水晶が使われています。昔は翡翠や瑪瑙も飾られていましたが、文化大革命(通称・文革)により文化財や贅沢品は破壊されてしまいました。
 最近では、日本の国会議員である河野洋平氏や田中真紀子氏が訪中した時に利用したそうです。
 またダンスホールでは、先般ご逝去された女優の李香蘭(山口淑子)氏も、コンサートを開いたことがあるそうです。

●旧日本人街

 約40年にわたる日本の統治時代の中核都市であった大連には、多くの日本人居住区が残されました。日本人が立ち退いた後、市民が住まう住宅街として利用されましたが、老朽化と再開発の波にのまれ少しずつ当時の姿を消しつつあります(図7~9)。  次回は、獅子口と呼ばれた旅順の街をご紹介します。

(図7)旧日本人街の広場 (図7)旧日本人街の広場 (図8)昔の建物も残されています (図8)昔の建物も残されています

(図9)フグのお店を発見 (図9)フグのお店を発見