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旅レポ52014年アレルギー調査〜 満洲の風を感じて 〜総務課 青柳 健太

 アレルギー調査で訪れた旧満洲について、5話目のレポートをご紹介させて頂きます。

9月16日(月)●要塞都市旅順

   旅順。歴史に興味がある人であれば、一度は耳にしたことがある地名です。
 日清・日露戦争において外す事のできない主要な激戦地であった要塞都市・旅順は、遼東半島の南端に位置し、大連の南西45㎞にある港町です(図1)。
 旅順という地名は、かつて明の時代、ある将軍が海を挟んだ山東半島から渡ってきた時に上陸した際、旅が順調(旅途順利)だった事から「旅順」と名づけられたという説があります。
 湾の入り口が2つの半島に挟まれており、まるで口を開けたライオンに似ていることから獅子口とも呼ばれていました(図2・3)。その形からも想像できるように、例え大軍に囲まれたとしても入り口の狭さから一気に攻め込まれにくい構造になっており、こうした地形は古今東西を通じ軍港に適した土地として認識されてきました。
 1880年、清王朝の北洋大臣であった李鴻章は北洋海軍(水師)を創り、ここ旅順に軍港を整備しました。以来、この港は北京の喉元である渤海への玄関口として、永きに渡り要衝として機能してきました。
 その旅順が、歴史の表舞台に上がる事になったきっかけが日露戦争でした。

(図1)遼東半島の南端にある大連と旅順 (図1)遼東半島の南端に
ある大連と旅順

(図2)ライオンの口に例えられる旅順港 (図2)ライオンの口に
例えられる旅順港

(図3)陸側から見た旅順港 (図3)陸側から見た旅順港

●旅順攻囲戦

 南下政策を推し進め、朝鮮半島を支配した後に太平洋への出口を作りたいロシア帝国に対し、恐れを抱いた日本は身を削る覚悟で軍備強化に乗り出します。
 そして、1904年に始まった日露戦争は、旅順港に篭ったロシア太平洋艦隊に対して、日本海軍が行った奇襲攻撃に端を発します。
 旅順を根拠地とするロシア太平洋艦隊は、日本にとって日本海の補給戦を維持する上では目の上のたんこぶ的な存在で、是が非でも撃破したい目標でした。
 いくどかの海戦によって多少の損害を与えた日本海軍でしたが、ロシア側の援軍であるバルト海艦隊(バルチック艦隊)の派遣が決定すると、ロシア艦隊は合流を期し旅順港に引き篭ってしまいました。
 こうなると、海からの攻撃だけでは旅順攻略が難しくなった日本海軍は、やむなく陸軍と協力して陸と海からの両面作戦に打って出ます。
 しかしそれは、ロシア軍が築き上げてきた要塞群に陸軍が真正面から挑む事を意味し、日露両陸軍による屍山血河の攻防が繰り広げられる事になりました。

●半永久陣地・東鶏冠山北堡塁

  旅順の北東3㎞の位置にあり、旅順の北側を囲うように作られた要塞群の1つで、旅順攻囲戦でも一、二位を争う激戦地だった場所です(図4~6)。

(図4)旅順を守る要塞群 (図4)旅順を守る要塞群

(図5)国家4A級観光地 (図5)国家4A級観光地

(図6)激戦地となった東鶏冠山北堡塁 (図6)
激戦地となった東鶏冠山北堡塁

 遼東半島を清から租借地として借り受けたロシアは、旅順一帯にいくつもの要塞を作り、お互いを援護できるように幾つもの砲台を設置しました。陣地はベトン(コンクリート)と頑強な地盤を組み合わせた難攻不落の要塞群を作り上げたのです。

(図8)激しい銃撃戦の痕 (図7)左が日本軍の塹壕、右の5角形が北堡塁です

 この北堡塁もその例に漏れず、周囲約500mの不規則な5角形をなした陣地で、周囲に高圧電流の鉄条網と外堀が張り巡らされ、斜面を駆け上がってくる栄養不足の日本軍に対し足止めをかけ、甚大な被害をもたらしました(図7)。

 やっとの思いで斜面を登り陣地に侵入したと思いきや、陣地内には銃眼(銃口を出す穴)が無数に開いた通路があり、十字砲火を浴びる形になっていました。
 結局、日本軍はこの要塞を突破するのに約8000人の死傷者を出したと言われています。
 現地を訪れると、崩落した地下司令部や、銃弾・砲弾に抉られた銃眼など、戦いの生々しい傷跡が至るところに残されています(図8~12)。
 今でこそ緑に覆われた観光地へと変貌を遂げていますが、当時は草木が一本も生えていないハゲ山だったと言います。
 暗い防空壕の中をのぞいていると、背中に冷たい汗が流れていきます。ナニモ ミエテハ イマセンヨ?
 次回の旅レポは、同じく旅順攻囲戦のもう一つの激戦地である二〇三高地をご紹介します。

(図8)激しい銃撃戦の痕 (図8)激しい銃撃戦の痕

(図9)砲弾がめり込んだ痕 (図9)砲弾がめり込んだ痕

(図10)砲撃で天井に穴があいています (図10)砲撃で天井に穴が
あいています


(図11)岩盤とコンクリートの複合 構造になっています (図11)岩盤と
コンクリートの複合
 構造になっています

(図12)2階建て構造だった地下司令部 (図12)2階建て
構造だった
地下司令部

(図13)記念碑で記念撮影 (図13)記念碑で
記念撮影