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2016年アレルギー調査 〜ノモンハンを巡る旅〜 レポ1 総務課 青柳 健太

はじめに

 当院では毎年9月頃に中国でのアレルギー調査を実施しています。今回の旅は2016年9月15日(木)から22日(木)にかけての8日間で行われました。
 今回は、戦前の日本が満洲と呼んだ中国東北部と内陸の国・モンゴルに挟まれた内モンゴル自治区が旅の目的地です。
 この地域には、かつての大日本帝国が大陸へ進出した際、旧ソ連・モンゴル連合と国境を争った土地であるノモンハンがあります。
 ここではまず旅レポートに先だって、ノモンハンという土地についてご紹介していきます。

ノモンハンとは

 2014年の調査で訪れた中国東北部(旧満洲)にある黒竜江省の省都ハルビン。そこから西へ約400㎞行くと、モンゴルと内モンゴル自治区を隔てる大河ハルハ川が見えてきます。
 ハルハ川の源流は、黒竜江省とモンゴル平原を東西に分かつ大興安嶺山脈から流れ出ています。
 この、雄大な山脈より生まれたハルハ川の中流域に広がるホロンバイル平原にノモンハンはあります(図1・2)
 元々は遊牧民の小規模集落が形成された場所で、草原と砂漠からなる不毛の荒野が広がるだけの土地でした。
 なぜ、そんな土地の名前が知られるようになったのでしょうか?

(図1)ノモンハンの位置 (図1)ノモンハンの位置

(図2)果てなく続くホロンバイル平原 (図2)果てなく続くホロンバイル平原

ノモンハン事件

 ノモンハンという地名は、1939年5月から9月にかけて起きた、旧日本軍(満洲国軍含む)と旧ソ連・モンゴルとの国境紛争・ノモンハン事件の発生以後に有名になりました。
 当時、巨大な大陸国家であったソ連は、その周辺国に共産主義を浸透(赤化)させようと着々と影響力を拡げていました。日本はソ連に対する防波堤として満洲(今の中国東北部)に満洲国を建国。ソ連も隣接するモンゴルを影響下に置き、日ソ両国はお互いをけん制する為の軍備を整えていきました。
 小規模な戦闘から始まった日ソの衝突は次第にその規模を拡大させ、1939年5月には歩兵、戦車、航空機を使った大規模な戦闘に発展しました。これが第一次ノモンハン事件です。
 日本で良く言われるノモンハン事件とは、最も激しい戦闘の行われた第二次ノモンハン事件(1939年6月~9月)の事を指しています。
 この一連の戦闘で日ソ両軍の被害は戦傷者3万6千名以上となり、また多くの車両・航空機も失いました。
 この戦いは一般的に、多くの人的・物的損害を多く出した日本軍の敗北と見られており、ソ連・モンゴル側にとっては国境線であるハルハ川を超えて進出できたことから、戦略的に勝利したと考えられています。
 しかし、後年の研究によると、日本側だけが大損害を被ったと言う事ではなく、局地的にはソ連側にも相応の被害が出ていたそうです。
 世界的に見れば、ごく局地的な国境紛争という見方がされていますが、第二次世界大戦以前の戦いの中では、近代的な機動戦力である戦車や装甲車、航空機による航空戦が行われるなど、戦史的に見れば非常に興味深い要素が多く含まれています。
 また、立場を変えてソ連側の視点で見ると、このノモンハンにおける戦いはソ連という巨大国家の存亡に大きく関係していた事がわかりました。

ソ連のジューコフ元帥

 1939年9月、ノモンハン事件終結と同時にヒトラー率いるナチス・ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発しました。
 このソ連の東西両端で起きた2つの事件・戦争の両方に参戦し、ソ連を勝利に導いた一人の軍人がいます。
 名前をゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ。騎兵あがりのジューコフは鉄の馬とも呼べる戦車・装甲車の運用を研究した数少ない指揮官でした。
 この時代の極東は、日本とソ連(旧ロシア帝国)にとって日清・日露戦争から続く権益獲得を巡る確執の時代でした。
 この草原しかないノモンハンを巡る戦いは、極東における日ソ両国の趨勢を占う重要な意味を含んでいたのです。
 1939年5月、極東へ派遣されたジューコフは自軍の歩兵、騎兵、戦車、航空機などの戦力を密かに集結させて、ハルハ川沿いに展開する日本・満洲連合軍に対して包囲作戦を展開します。
 約4ヶ月にわたる戦いで、日本軍に比べて兵の練度で劣るものの、数と装備で勝るソ連・モンゴル連合軍を率いるジューコフは、1939年9月に日満連合軍を撃破。この地域一帯におけるソ連の影響力を確保しました。

ユーラシア大陸を西へ東へ

 翌年5月、ジューコフは取って返す形でノモンハンから6500㎞離れた東欧ウクライナのキエフ特別軍管区へと転属しました。
 日に日に高まる独ソの緊張状態を見越して、対ドイツへの布石として抜擢されたのです。
 この時代の東欧諸国であるウクライナやベラルーシ、それにバルト三国はソ連の影響下にありましたので、大陸制覇を目論むドイツとの衝突は不可避な状況でした。
 結果的に、独ソ戦はこのジューコフの東奔西走を地で行く活躍もあり、ソ連の冬季反攻を以ってドイツは敗北の道を辿りました。
 第二次世界大戦直前の出来事の為、あまり注目を浴びる事のないノモンハンですが、このようにソ連の欧州戦線への参戦を左右する極めて重要な意味を持った土地である事が窺い知れます。

●9月14日(水)、東京

 中国行きを翌早朝に控えて、院長と私は前泊するため上京します。真夏に比べればその暑さは弱まったとはいえ、少し動けば汗がジワリと染み出してきます。今日を含めると9日間の海外出張となりますが、荷物の重さと気温の暑さで、すでに体力の半分が失われるような感覚に陥ります。
 旅行中の食事はそのほとんどが中国料理づくしになるので、しばらく日本食は食べられなくなります。そこで、この日の夕食は日本食の食い納めです!

〇馬喰町の「たいこ茶屋」

 東京都の中心、皇族の住まう皇居の北側から西側へぐるっと囲むように、かつての東京の河川交通路の一つであった神田川が流れています。その川に沿うように東西へと走る都道302号、いわゆる靖国通り沿いに夕食会場の「たいこ茶屋」はあります。
 このお店のご店主は、宮城県出身の嵯峨 完様です。嵯峨様は5年前に起きた東日本大震災の後、生まれ故郷である宮城への恩返しとして被災地で黒まぐろを解体して無償で配る活動を実施されています(図3・詳しくは本誌257号をご覧下さい)。
 建物の入口からお店のある地下1階に降りると、ゆうに100名は座れるかと言う椅子席と座敷が設置されていました。
 今日の夕食には、嵯峨様と同じく被災地での復興活動を行っているセリア・ダンケルマン様(イスラエル親善大使)や、根田芳夫 様(モルドバ復興支援協会 東京支部 代表)もご同席頂いての夕食になりました。

(図3)店内の様子と嵯峨さま (図3)店内の様子と嵯峨さま

(図4)魚介類の盛り合わせ (図4)魚介類の盛り合わせ

(図5)たいこサラダ (図5)たいこサラダ

(図6)たいこ風特大かき揚げ (図6)たいこ風特大かき揚げ

(図7)締めのたいこラーメン (図7)締めのたいこラーメン

 いまや様々な話題の中心にある噂の築地市場で、朝早くに仕入れた「魚介類の盛り合わせ」です。色鮮やかなホッキ貝、舌もとろけるマグロや、ホタテ貝、はまちなど種類をあげたらきりのない程のお刺身が、器に盛られています(図4)。
 お店の壁には、特におすすめとなる料理メニューが張られています。その中で特に目に付いた「たいこ風特大かき揚げ」は、高さが10㎝はあろうかと言う円筒形の一品です(図5)。
 玉ねぎやニンジン、エビをベースにカラッ揚げられたこちらの料理は、まるでデコレーションケーキのような切れ込みがあり、取り分けに苦労する心配はありません。あつあつの専用汁に大根おろしを入れて、サクサクのかき揚げをつけて頂きます。耳の心地よいザクッとした歯ごたえの後、汁の染みた野菜揚げの旨みが口に広がります。
 「たいこサラダ」はカリカリに揚げた麺が、レタス、ワカメ、ミニトマト、ラディッシュの上に乗っています。日頃の野菜不足を補うため、せっせと食べます(図6)。
 食べている横では、お店恒例のまぐろの解体ショーが始まります。このショーではお客さんの目の前でまぐろがさばかれます。解体した部位はその場で競りにかけられ、一番高い値段(それでも相場よりお得! )を付けたお客さんに供されます。
 その売り上げは、被災地で行う黒まぐろ解体ショーの資金に利用されています。
 さて、宴もたけなわとなり、締めの「たいこラーメン」が出来上がりました(図7)。魚ベースのあっさり和風スープに、歯切りの良い細い丸麺が良くからみます。締めの一品としては最高です。
 スープも飲み干し完食。これで思い残す事はない……はず(笑)。
 明日は、早朝の便で中国の首都北京へと飛び立ちます。



つづく