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2022年1月(No.323)

 

杉原千畝とハヌカ

総務課 青柳 健太

 

去る、2021年12月5日(日)、宮城県亘理町のメノラー国際リーダーシップセンターにおいて、ユダヤ教の歴史的な祭典であるハヌカを祝いました。

このイベントは、院長の友人であるNPO法人セリアの会代表のセリア・ダンケルマンさんが主催する、日本とイスラエルの交流行事です。
 当日は亘理町の関係者や子供たち、イスラエル大使館の新大使ギラッド・コーヘン氏ら約80名が参列し、参加者は共にハヌカの歌を歌いました(図1、2)。

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図2

 

ハヌカとは?

ハヌカってなに? と思われる方は多いと思います。
 いまでこそクリスマスのように、子どもたちにプレゼントを贈るような催しと言う意味合いが強くなったそうですが、その起源は紀元前2世紀ごろまで遡ります。

当時、イスラエルの地はギリシア人たちの支配下にありました。彼らは自身たちの文化であるヘレニズム文明を広めるため、ユダヤ教を弾圧していました。
 しかし、紀元前165年にユダヤ人たちが強力なギリシア軍を打ち破り、エルサレム神殿を奪還することに成功します。その時、神殿の燭台(メノラー)に灯す油を納めた壺が一つだけ残されており、中には1日程度しか持たない量の油があったそうです。

ユダヤ人たちは、祈りをささげるために油を燭台に注ぎ灯を灯します。
 すると、残り僅かな油にも関わらず燭台の火は消えることなく、実に8日間も燃え続けたのだそうです。
 以来、その奇跡を祈念して毎年12月25日から8日間をハヌカ(奉献)の祭日として、お祝いするようになりました。

亘理町とイスラエル

キンと冷えた冬空の下、暗闇に9つの灯りが照らされました。
 この日のために作られた燭台を模した電飾が煌々と輝き、リーダーシップセンターの主要施設であり保存用に移設された仮設住宅を照らします(図1)。

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図3 被災地を照らすメノラーの灯り

 

本来の燭台は、中央を種火として左右4つずつのロウソクに1日ごと1つずつ火を灯していき、祭日最終日である8日目に全てのロウソクが点灯することになります。
 支柱の中ほどにある六芒星は、ユダヤ民族を象徴するダビデの星です。
 主催者であるセリアさんが、開催ギリギリまでデザインにこだわって作られた燭台は、明かりの乏しい沿岸の町を優しく照らしてくれました。

セリアさんが亘理町と関係を持ったのは、2011年3月11日の東日本大震災の直後のことです。

当時、駐日大使であったエリ・コーヘン氏の要請で被災地での支援活動を開始し、国としての支援を終えたの後も、セリアさんは亘理町を中心とした子どもたちの心のケアと地域コミュニティ作りに尽力されました。
 その活動は震災10年を過ぎてもなお継続されており、町内幼稚園や小中高校生とイベントを通じた交流、イスラエルとの交換留学の支援、東日本大震災の記録として仮設住宅を移設・保存する活動、リーダーシップセンター敷地内にデジタル管理による点滴潅水システムを用いた低コストの畑の造成など、その活動範囲はより大きく拡がっています。

 また、2021年に開催された東京オリンピックでは、亘理町はイスラエルとの文化的・経済的な交流を促進するホストタウン協定を締結し、その橋渡しを務められたセリアさんは丸川珠代(当時オリンピック担当大臣)氏より感謝状を贈呈されました(図4)。

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図4

 

イスラエル訪問

セリアさんの支援活動を、私たちは取材し広報誌やホームページ上でご紹介して来ました。
 そして2018年、セリアさんのお誘いで私たちは初めてイスラエルの地へ訪れることになりました(図5、6)。

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図6

 

全8日間の滞在中、イスラエル訪問団は北方のシリアとの国境地帯であるゴラン高原、南は標高マイナス400メートルにある死海、火星を彷彿とさせる荒野の台地マサダを巡り、人類数千年の歴史が色濃く残る古都エルサレムなどを歩きました。
 また、イスラエルとは縁の深い日本の外交官・杉原千畝を名が彫られたイスラエル外務省にも訪れました(図7)。

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図7 外務省の壁に杉原千畝の名前が……

 

外交官・杉原千畝

第二次世界大戦中、中国東北部のハルビンや、東欧バルト三国の一つリトアニアに赴任した日本の外交官。杉原千畝は、ナチス・ドイツの迫害から逃れようとしたユダヤ人たちに、本国の意向を差し置いて国外逃亡に必要なビザを発給。約6,000名にも上るユダヤ人たちは、そのビザを持って第三国への出国を許可されて迫害からの難を逃れることが出来たと言われています。

杉原千畝とハヌカ

杉原千畝とハヌカにまつわるエピソードが残されています。

杉原千畝がリトアニアのカナウス在勤中(図8)、現地のユダヤ人たちはハヌカのお祝いの真っ最中でした。この日、子どもたちは大人からお小遣いを貰える日とあって、当時11歳であったソリー・ガノール少年も10リタス(当時のリトアニア通貨)を手にしてハヌカを心一杯に祝っていたそうです。

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図8 カウナス領事館の杉原千畝のデスクで

 

ですが、ドイツのポーランド侵攻の余波で、カナウスの町にはポーランド系ユダヤ人たちが多く避難していました。ガノール少年もそんな彼らの支援のために貰ったお金を全額募金してしまいます。
 そのため、当時の人気だった米国のお笑いコンビの映画を観ることが出来ず、優しい叔母にお小遣いを無心するため叔母の経営するお店に足を運びます。

そこで出会ったのが杉原千畝でした。

映画代をせびるガノール少年を見て千畝は、若い少年の手に硬貨を握らせ「今日は私が、君の叔父さんになってあげる」と言いました。
 喜んだガノール少年は、そのお礼にハヌカの集まりに千畝を招待しました。
 千畝はそこでガノール少年の家に身を寄せていたポーランド系ユダヤ人たちから、彼らの悲惨な窮状を聞き、その後も多くのユダヤ人たちの現状を耳にするにつれ自身のやるべきことを見定めていきます。

それからわずか7カ月後の1940年7月、千畝は本国外務省の方針とは別に、出国不可能だった多くのユダヤ人たちに「人道的理由」からビザを発給することを決断します。それは杉原千畝が国外退去するための列車の発車する寸前まで、続けられたのだそうです。
 ガノール少年の家族も千畝によるビザ発給を受けますが、国外脱出するには至りませんでした。その後、ガノール少年は過酷な収容所生活を経て、ドイツに進軍してきた米軍の日系人部隊によって解放されました。
 後に分かったことですが、リトアニア在住のユダヤ人25万人のうち、最終的に生存したのは僅かに4%のみであったそうです。

日本人の知らないイスラエル

日本ではパレスチナ自治区勢力との戦闘のみが取りざたされるイスラエルですが、世界有数の遺跡群を有する観光地でもあり、世界的にも有数の製薬メーカーや数多くのベンチャー企業を輩出している世界でも知られた国でもあります。
 また、同国は中東のシリコンバレーとも呼ばれインテルやマイクロソフトなどの世界的企業の研究所が軒を連ねています。
 加えて国土の大半を砂漠もしくは半砂漠で占められているため、農業用・飲料用水の確保は重要な意味を持っています。そのためイスラエルには海水を淡水化する技術が発展し、多くの淡水化プラントの設置により消費される飲料水の8割が海水から作られているほど優れた技術を有しています。

こうした過酷な環境は人材育成にも反映され、女性の社会進出やケア、人名保護を優先する軍事技術の開発などにも影響を与えています。
 それ以上に、世界中からの様々な人たちが住まう土地柄らしく、様々な文化・風潮が坩堝の如く混ざり合い、一種のカオス状態にありながらお互いに共存している、そんな国でもありました。

単一民族である日本人には想像する事すら困難ではありますが、どこへ行っても溢れんばかりの熱気が感じられました。私たちが訪れた際は経由便のみの運航でしたが、2019年からは成田空港からの直行便が就航し、より気軽に訪れることが出来るようになりました。
 ぜひ一度、読者ご自身の目で、このイスラエルと言う国を見てみて欲しいと、思っています。

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