3443通信3443 News

2022年2月(No.234)

映画「荒野に希望の灯をともす」鑑賞レポ

秘書課 菅野 瞳

 

はじめに

去る2021年12月25日(土)、せんだいメディアテークにて、干ばつや戦乱、病に苦しむ人々を救うため、35年にわたりアフガニスタンとパキスタンでNGO「平和医療団日本(PMS)」を率い、医療支援や用水路建設の活動を続けてきた中村哲医師に密着したドキュメント映画「荒野に希望の灯をともす」を鑑賞して来ました(図1)。

図01
図1

 

故・中村哲医師を偲んで

2019年12月4日(火)、アフガニスタン東部のジャラーラーバードにて用水路建設現場へ向かう途中、何者かの糾弾に倒れた中村医師。その突然の死は「何故中村医師が?」と、多くの人々に衝撃を与えただけではなく、深い悲しみをもたらしました。
 アフガニスタンという国に思慕の念を抱き、同国にあれだけ必要とされた人が、何故……?
 私はとても不可解に思ったことを覚えています。

私は、中村医師の活動を熟知していた訳ではありませんが、中村医師が行った活動において特筆すべきは「信頼は一朝にして築かれるものではない」という信念の下、決して諦めることなく現地の人々と向き合い、信頼関係を築き、何が起ころうとも支援の姿勢を崩すことなく、一貫していたことだと思います。

この映画を鑑賞し終えた時、私はあまりの感動で武者震いがしました。中村医師が命を賭けて遺された物、その視線の先に目指していたものは一体何だったのか。現地活動の実践と思索を紐解いていこうと思います。

不条理への復讐

まず、何故中村医師は、日本から遠く離れたアフガニスタンという地で、家族と離れ離れになりながらも支援活動を続けたのか……この質問を投げかけた方がいます。
 実は私も、中村医師の活動を知ったその時から抱いていた疑問の一つでした。

中村医師はこの質問に即答しています。

「他の人がやれば私がする必要はない! 見捨てられないからね。不平等という不条理に対する復讐だよ」

自身が行われている支援活動を、復讐と表現された中村医師。こんなにも人々に感銘を与える偉大な復讐(?)は、世界の隅々を探してもなかなか出合えるものではありません。まだ映画が始まって数分でしたが、はにかみながら仰った中村医師に、一瞬にして心奪われました。

 

アフガンでの支援活動

中村医師が行った支援活動は、大きく2つに分けることが出来ます。

まず1つは、医師として行なった診療所立ち上げ事業です。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、旧ソ連軍がアフガニスタンから撤退しました。全土を巻き込んだ10年も続いた戦争に終止符が打たれ、中村医師はなかなか医療支援が行き届かないアフガニスタン山村に自ら出向きます。
 余所者を恐れる住民に対し中村医師は、根気強く診療所建設の必要性を説き、やっとの思いで承認を得ます。
 その時、中村医師が仰った言葉は、私の心に一番強く響きました。

「暗ければ光を灯す価値がある。寒ければこそ火を焚く意味がある」

1991年、アフガニスタン国内初の診療所「ダラエ・ヌール診療所」が開設されました(図2、3)。この診療所の開設により、一日に150名程の患者を診ることが出来るようになりました。
 そんな折、診療所の周辺で悪性マラリアが大流行し、治療薬を求めて人々がパニックに陥り診療所が武装した村人に襲われるという事件が起きます。診療所で働くスタッフは、ゲリラとして戦っていた元兵士なので、応戦しようとしましたが、中村医師は診療所の長として、一切の反撃を禁じたのだそうです。

図02
図2

図03
図3

 

中村医師は、

「利害を超え忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことが出来る。私たちにとって、平和とは理念ではなく現実の力なのだ」

と語り、日本からの寄付金で購入したマラリアの特効薬を巡回配布・巡回診療を行いました。この活動により、約2万人の命が救われたのだそうです。

1970年代からアフガニスタン全土は、人命に係わる干ばつ被害が、悪化の一途を辿っていました。ひび割れた大地・乾燥しきった地面……2000年の夏、この被害が一挙に深刻化し、昨年までここが水田だったとは、誰も思わないだろう姿へと変貌し、国民の9割が自給自足の生活をしているため、生活困窮状態となり、多くの国民は難民化しました。日銭を稼ぐため、傭兵に志願する者も大勢いたそうです。

好転の兆しが見えない干ばつにより、大地だけでなく、人々の心も乾ききってしまっていた2001年。アメリカと世界を変えたと言われる“米同時多発テロ”が起きます。日本はアメリカへの支持を表明し、またアフガニスタンは対テロ報復攻撃の対象とされたため、中村医師は帰国を余儀なくされます。

国会では、アフガニスタンへの自衛隊派遣が議題に上がり、中村医師は私見を求められます。
「自衛隊派遣は有害無益であり、あの国が闘うべきは飢餓なのです」
と、必死の訴えを試みますが、その声が届くことはありませんでした。

その後、アメリカ軍の対テロ報復攻撃によりアフガニスタンの首都カーブルは陥落。
 それを待っていたかのように中村医師は、再びアフガニスタンへ戻ります。

その際、中村医師の放った言葉が、

「不条理に一矢報いよう」

でした。

 

緑の大地計画とは

そして中村医師が取り組まれた支援活動の柱の2つ目。

現地では相変わらずの水不足で、子どもの栄養失調が急増し、清潔な水の確保が急がれた時分、中村医師は医療活動をスタッフに任せて白衣を脱ぎ棄てます。そして何一つの知識も経験もない中で立案した事業「緑の大地計画」に着手します。
 干ばつで砂漠化した農地復旧のため、用水路を建設する事業です。自らの覚悟を示すかのように、独学で土木工学を学び、日々設計図を引き、工事の先頭に立ち続けたのだそうです。

用水路へ水を導く堰を作ろうとした時、土砂がクナール川の急流に流され、工事が暗礁に乗り上げたことがありました。そんな局面を中村医師はどう乗り越えたのか……。
 中村医師は先人に倣い、水流に対して斜めに石を敷き詰め、激しい水圧を緩和する方法を採用し、洪水や渇水時にも年間を通して安定した水量を確保できる取水法を確立しました。

そして試行錯誤から7年。全長25.5㎞、日本語で真珠を意味する用水路“マルワリード用水路“が完成しました。

時に中村医師は、

「医師である私は、何をしているのだろうか? 笑えてくるね」

そう言って、茶目っ気たっぷりに笑っていたそうです。

 

映画を観て

この映画を鑑賞し終えて私が強く思ったこと。それは、中村医師は決して特別な人なのではなく、ただ一心に苦しむ人を放っておくことが出来ず、その人たちのために命を賭けて闘った、一人のお医者様なのだということです。

中村医師の意思を継承しようと、パキスタンでの医療活動を支援する目的で結成されたペシャワール会と、中村医師が率いたPMS団体は、中村医師が糾弾に倒れた一週間後には、支援活動を再開しています。
 中村医師が遺された、人としての本来のあり方を貫いた言葉や復讐?(笑)は、多くの人々に受け継がれ、多くの人々に希望という灯を与えたのではないかと思います。

2020年9月15日、中村医師の誕生日にあたるこの日、アフガニスタン東部のナンガルハル州ガンベリ砂漠地帯に、中村医師の功績を讃える記念塔が建てられました。この場所は、中村医師が手掛けた灌漑事業の場所の一つで、お気に入りの場所だったのだそうです。白を基調とした大理石の塔は、高さが15mで、塔の中心部分には、にっこりと微笑む中村医師の似顔絵が描かれています(図4)。

図04
図4

 

この塔は、中村医師が誠実にアフガンに尽くした歴史を語り継ぐ記念塔。多くの人が訪れ、祈りをささげて欲しいと、建設に携わった現地スタッフは語っています。

アフガニスタンを愛し、アフガニスタンに愛された中村医師の現地活動35年の軌跡映画。心の一番奥深いところを抉り、そして響く……そんな素敵な映画に出合えました。

[目次に戻る]