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2022年5月(No.326)

英国紅茶シリーズ③
ラジオ3443通信「英国で紅茶が流行った理由」

 

ラジオ3443通信は、2010年から毎週火曜10:20~fmいずみ797「be A-live」内で放送されたラジオ番組です。
 ここでは2013年5月28日OAされた、英国紅茶にまつわる話題をご紹介いたします。

116 英国で紅茶が流行った理由
An:
 三好先生、前回は三好先生の英国でのGWのお話から、おみやげの紅茶の話題をきかせて頂きました。
 英国の代表的な飲み物である紅茶が、一般市民の楽しみとなったのは、19世紀の半ばだったと伺いました。江澤はもっと昔から英国には紅茶があったのかと、思ってました。
Dr:
 上流階級の貴族たちは、もちろんそれ以前から紅茶に親しんでいました。
 けれどもその頃お茶は、中国や日本からの輸入品であって、当然高価です。英国の庶民には、手の届きにくいぜいたく品だったんですね。
An:
 紅茶って、ぜいたく品だったんですね!?
 それじゃ紅茶は、市民にとって高嶺の花だったんでしょうか?
Dr:
 ぜいたく品に憧れるのは、庶民も同じですから。19世紀にそれまで中国から持ち出し禁止だったお茶の木が、英国の植物収集家、これをプラント・ハンターって言うんですけど。
 ロバート・フォーチュンという名の、プラント・ハンターによって中国から持ち出され、それで庶民の味覚になった歴史があります。
An:
 先生からお聞きしたお話では、ロンドンでコレラが大流行したのは、1832年から1849年頃のことでした。
 テムズ河の生水を飲んでいた市民が、熱湯でいれる紅茶を日常的に飲むようになって、コレラの流行は下火になったのですから……。紅茶に市民が親しむようになったのは、確かに19世紀半ばと考えざるを得ません。
Dr:
 それは、後で細かく触れますが、あのアヘン戦争が1840年に発生していることを考えても、すじが通ってます。
An:
 アヘン戦争は、中国のお茶を英国が必要としたために、起こった戦争ですもの、ね。
Dr:
 ロンドンの街は、1666年の大火事ですべて石作りの建築だらけになります。
 それまでの漆喰作りの平屋建て住宅では、下水の処理もさほど問題にはなっていませんでした。けれども石作りの高層アパート住宅では、下水の処理に困ってしまいます。
 江澤さん。ロンドン市民は下水を、どうやって処理したんでしょう?
 ここに、『テムズ河ものがたり』という本があります。
 江澤さん。いつものように、朗読してください。
An:
 読みます。
「イギリスのテレビコマーシャルに、いささか滑稽な作品があった。時代は19世紀の前半、舞台は下層階級の住むイースト・エンドの狭い路上で、折しもオバサン2人が激しい調子で罵りあっている。突然、長屋の2階の窓が開き別のオバサンが顔を出した。〝やかましいね、静かにおしよ〟と怒鳴るやいなや、オバサンはバケツに入った黄色い液体や、なにやら軟らかそうな粘土状のものを、路上の2人の頭上に撒き散らした。それはヒト様の排泄物、汚物だったのである。
 この頃、ロンドンには下水施設がなく、住民はバケツをトイレ代わりにしたり、寝台の下にチェインバー・ポットと呼ばれる便器を置いたりして用を足していた。
 当然テムズ河も生活排水で汚れる一方で、満足に浄化されていない川の水を飲んだり生活用水に使っていたロンドン市民の間で、悪質な伝染病が流行ったのも不思議な話ではなかった。」
 先生、先生。江澤は絶句してしまいます。
Dr:
 それが当時の、ロンドンの生活の実態だったんです(笑)。
An:
 それじゃテムズ河の水は、やはり相当汚染されていたんですね!
Dr:
 石作りの高層アパートに住んでいた住民たちは、用を足した便器の中身を夜間窓から街路へぶちまけた。そんなことを書いてある、別の本もあります。
An:
 夜、暗い街並を歩いていた人は災難だったでしょうね(笑)?
Dr:
 ですから、その儀式の前には住民たちは、外に向かって「ガーディ・ロー」つまり、「水に注意」という意味のフランス語を叫んで、それから汚物を放ったと言われます。
An:
 それは、ひどい(笑)。
Dr:
 ですから、テムズ河の水を生活用水として使用するなんて、今から考えると不衛生そのものだったんですよ。
An:
 以前伺ったお話では、ロンドンには上水道ができて、それ以来コレラの流行は減ったとか。
Dr:
 1852年に『都市水道法』が制定され、はるか上流から上水道を作ったので、それもコレラ激減に一役買っています。
 加えて1865年には、総延長132kmのレンガ作りの下水道も完成しましたから、コレラの流行は1866年のそれを最後に、終息します。
An:
 それに、なんと言っても熱湯でいれる紅茶の普及、ですよね!
Dr:
 アヘン戦争の原因が紅茶であったように、中国からの高価な紅茶の輸入は英国にとって、大変な負担でした。ですからその頃までは貴重品である紅茶は、庶民の飲み物ではなかったんです。
An:
 どうしてお茶は、そんなに高価だったんでしょうか?
Dr:
 清の国、つまり当時の中国では、お茶の葉は輸出したんですが、お茶の木は門外不出で、他の地域では生産できなかったんです。
An:
 その門外不出の茶の木を、清の国外に持ち出したのが、先生のお話にあった英国人なんですね?
Dr:
 さすがは1を聞いて10を知る江澤さん。ロバート・フォーチュンという名前のプラント・ハンターが、中国人に変装して茶の木を英国まで持ち帰ったんです。
An:
 それで初めて紅茶が、現在のような国民的飲料になったんですね。
Dr:
 江澤さんと、こうやって午後の紅茶を楽しむことができるのも、そのフォーチュンって人のお陰なんですよ。
An:
 三好先生、そのフォーチュンって人物、面白そうですね!
 もう少し、お話を聞かせてください。
Dr:
 では次回、お茶の木が清の国から国外へ持ち出された経緯も含めて、お話しします。
 お楽しみに!

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