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2023年1月 No.335


靖国神社を参拝してきました
院長 三好 彰


はじめに
 泉ヶ岳が衣替えを迎えた2022年10月末。東京の皇居北側・田安門のすぐ目の前にある靖国神社に初めて参拝しました(図1)。

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 靖国神社は、全国数多ある神社の中でも比較的に歴史の浅い神社です。明治維新期の戦没者を慰霊する動きが全国で活発化し、1869年(明治2年)に明治天皇の勅令で建立された招魂社に起源を発します。
 その後、国家のために殉職した人の霊(英霊)は、靖国神社に祀ることが慣例化しました。

イタリア古城式だった遊就館
 境内の奥には、戦没者や軍事関係の資料が収蔵・展示されている遊就館があります。建設は1882年、日本で最初・最古の軍事博物館です。イタリア人雇教師であるカペレッティーが設計のイタリア古城式建築として生み出されました。ですが、関東大震災によりレンガ造の建物は大破してしまい、1995年に近代東洋式建築として復旧されました。
 現在の建物のほうが神社と調和が取れていますが、古城式の佇まいも見てみたくもあり、天災とはいえ失われてしまったのはとても惜しい思いがします。

第二次大戦期の展示品(図3)
 まず玄関ホールに入ると、大戦期を代表する国産戦闘機・零式艦上戦闘機(五二型)の雄姿が目に入ります。

図03
 図3


 ゼロ戦として名を馳せた二一型のさらに後に開発された機体で、大戦中期以降に運用されました。二一型との大きな違いは、折り畳み式だった翼を一体構造にして、先端を切り詰めて丸みを帯びた形にしたところ、エンジンカウルにそって排気管を円形に分散配置しているこの2点が外見上の大きな特徴です。
 三菱重工が開発し、三菱と中島飛行機(ライセンス生産)と併せて約6,000機もの機体が生産され、これは様々なタイプの零戦のなかでも最多の生産数として記録されています。

 展示されている機体は、南太平洋はパプアニューギニアのラバウルの旧海軍航空基地で発見された主翼胴体と、ミクロネシアのヤップ島で発見された5機の零戦をもとにして復元されたものです。
 尾翼の「81-161」という数字は所属部隊を表しており、第381航空隊(下2桁で表記)所属の161号機という意味です。
 徹底した軽量化による軽快な運動性と強力な20ミリ機銃の威力は大戦初期の米軍機では一切の太刀打ちが出来ず、一対一では絶対に空戦をするなと言わしめたそうです。

巨砲のお出迎え(図4)
 さきほどの零戦の背後に鎮座しているのが、二門の野戦砲です。それぞれが見た目の通り長距離砲撃を目的として開発・生産された兵器で、前線の歩兵からは「戦場の女神」と称されることもあります。

図04
 図4


九六式十五センチ榴弾砲(図4左)
 火力支援を目的とした大砲の一種で射程距離は約10キロで、この砲はノモンハン事件でソ連軍砲兵と砲火を交え、大東亜戦争が勃発するとフィリピンへと移り、最後は沖縄の地で終戦を迎えました。

【性能諸元】
 口径:149.1ミリ(約15センチ)
 砲身長:352.3センチ(約3.5メートル)
 砲重量:4,140キロ(約4トン)
 発射速度:1.3発/分
 最大射程:11,900メートル(約11キロ)

八九式十五センチ加農砲(図4右)
 前述の榴弾砲よりも口径・砲身長が延長された大型の大砲で、帝国陸軍の主力重砲でした。榴弾砲に比べて射程距離が長く、また砲弾も40キログラムと大きいため威力も絶大で、高い支援効果が望めます。
 この加農砲は国内外の戦線で広く用いられ、満州事変・日中戦争・ノモンハン事件・太平洋戦線と、陸軍の戦史にひとかどの存在として記録されています。
 また展示されているこの砲は、終戦間際の沖縄戦線に投入された独立重砲兵第100大隊が運用していた第137号砲で、終戦後にレストアされて1993年に靖国神社に奉納された極めて保存状態の良い遺品です。

 現在、砲種の統廃合のために加農砲という種類はなくなってしまいましたが、この十五センチという口径は現有の一般的な榴弾砲とほぼ同じ規格で、自衛隊にも同様の牽引式155ミリ榴弾砲FH70や、戦車型の99式自走155ミリ榴弾砲が装備されています。

【性能諸元】
 口径:149.1ミリ(約15センチ)
 砲身長:472.5センチ(約4.7メートル)
 全備重量:10,422キロ(約10トン)
 発射速度:1~2発/分
 最大射程:18,100メートル(約18キロ)

元帥刀(図5)
 天皇より帝国陸海軍の大将に与えられた名誉称号である元帥(階級ではない)に下賜されたのが、この元帥刀です。

図05
 図5


 皇室保有の刀である「小烏丸(こがらすまる)」の刀身を、外装はかつて皇室守護(宮門を守護した)を担った武官の持つ衛府の太刀(えふのたち)を模して造られました。実はこの元帥刀ですが、純粋な刀と言う訳ではなく剣太刀(つるぎたち)と呼ばれる刀と剣の二つの特性を持っています。
 全体的に緩やかな曲線を描く刀身と、突くことを想定した切っ先は剣としての機能を有しています。また、握りは明治期の西洋式近代的軍隊への変革に伴い採用された片手で握るサーベル様式となっています。

大東亜戦争全般作戦図(図6)
 戦中時の日本軍の主な作戦展開図です。

図06
 図6


 開戦当初、日本は原油を始めとした地下資源を求めて東南アジアの占領を目指しました。日米の工業力・資源量はまさに桁違いの差があり、日本が闘うためには南方の膨大な地下資源の獲得が急務となっていました。
 元々の領土・領海の実に何十倍にも及ぶ広大な領域を手中に収めた日本でしたが、作戦運用のマズさと徹底抗戦を図ったアメリカ軍(と同盟国軍)の物量差に徐々に追い詰められてしまいます。

二つの秘密兵器(図7)
 展示室をさらに進むと、二つのやけに細長い筒状の物体が目に入ります。
 そのいずれもが大戦中は秘匿兵器として扱われた海中特攻兵器<回天>と絶大な威力を誇った93式酸素魚雷です。

図07
 図7


必殺兵器の93式酸素魚雷(三型)(図7左)
 日本軍が世界でほぼ唯一、開発と実戦投入にこぎつけた秘密兵器が93式に代表される酸素魚雷です。
 その名の通り燃料に純酸素を用いたことから命名されたこの魚雷は従来の圧縮空気を使用した内燃機関(熱走式)に比べて、排気ガスが水に溶けやすい炭酸ガスと水蒸気のみという、魚雷の航跡が残らない特徴を持っていました。
 良く戦争映画のワンシーンに、軍艦に乗っている水兵が白い尾を引きながら接近する物体に「魚雷だっ!!」と叫ぶシーンがありますが、この酸素魚雷ではそうした現象が起きないため、気付かない内に被雷するという恐ろしいものでした。

 展示されている三型は、初期型よりも炸薬量を増加させたタイプで、全長9メートル、直径61センチというバカげた大きさは、現在家庭・業務用に使われているプロパンガスボンベ(50kgタイプで全長128センチ、直径37センチ)の数倍に相当する大きさと言えば、想像できるでしょうか。
 輸送船程度なら一発で轟沈してしまうような威力を発揮するモノが、海中を70キロ近いスピードで秘かに接近してくる恐怖は、とても言葉では言い表すことが出来ません。

特攻兵器 回天(一型改一)(図7右)
 前述の93式酸素魚雷を改造して、有人操作の魚雷へと変貌を遂げたのがこの回天です(図7右)。前述の酸素魚雷は、従来よりも速力・威力・無航跡という能力を有していましたが、海上で動き回る船に命中させるのは極めて至難の技でした。いくら威力があっても当たらなければ意味がない。そこで考え出されたのが命中するまで人間が誘導するという有人式魚雷という発想でした。

 文字通りの決死兵器である回天。その運用には無理な点が多い兵器ですが、その発想の延長線上にあるのが現代兵器であるミサイルだと思えば、難しい計算式を用いずに命中する誘導兵器の存在は切迫する戦況に追い詰められた日本にとってか細い希望の糸だったのかも知れません。

九七式中戦車チハ(図8)
 第一次大戦の欧州戦線で初めて登場した兵器・戦車。
 入り組んだ塹壕線を突破するために生み出された装甲車両は、次ぐ第二次世界大戦において劇的な進化を遂げ、その強固な装甲と圧倒的な火力をもって陸上戦闘の主役の座を席巻しました。
 特にドイツとソ連の戦車開発は熾烈を極め、他国の追随を許さないほどの化け物を世に生み出していきました。

 日本も例にもれず、高速で戦場を機動する戦車の存在は無視できず、限られた工業力での戦車開発を余儀なくされました。
 この九七式中戦車は、当時のドイツやソ連の主力戦車に比べてその能力は数段劣る物でした。と言うのも、もともと戦車という兵器は対歩兵用の支援兵器として考案されたもので、戦車同士の戦闘はあまり考慮に入れられていませんでした。そのため日本軍の戦車も主砲は小さく、装甲も機関銃を防ぐことを想定していたため、欧州戦線での激烈な戦車戦を経験したアメリカ軍に対しては、聊か力不足となってしまったのもやむを得なかったのかも知れません。
 今ではどこか愛嬌のある造形と不遇な境遇から、戦車愛好者の中ではアイドル的存在として愛されているそうです。

図08
 図8


艦上爆撃機 彗星(図9)
 航空母艦に搭載される爆撃機で、大戦全般に渡り現役だった九九式艦上爆撃機の後継機として開発されました。
 展示機は太平洋西カロリン諸島のヤップ島の海軍航空基地跡で発見された機体を復元したものです。どことなくドイツ機に似た風貌の機体は、ドイツからの技術供与で得たハインケル社の急降下爆撃機He118を参考にしたためです。
 展示された機体は、ドイツのダイムラー社製エンジンをライセンス生産したアツタ21型発動機を搭載していますが、後に空冷式に換装する前の貴重な液冷式(液体でエンジンを冷やす)を唯一搭載している現存機です。
 尾翼の「鷹-13」の文字は、第523海軍航空隊所属の通称「鷹部隊」と呼ばれる部隊に配属されていたことを示す符号です。

図09
 図9


神門の十六菊花紋章(図10)
 天皇家を示す“菊の御紋”です。
 靖国神社の中央にある神門に取り付けられた直径1.5メートルの御紋で、太陽をイメージしています。菊の花のデザインは世界中で用いられた有名なモチーフですが、皇室の御紋章に正式採用された歴史は意外に浅く、明治初期のころだそうです(それ以前、平安時代ころから菊の紋章は使われてはいたそうです)。

 今でこそパスポートなどにも記載された日本国民を表すシンボルですが、大戦中は兵士の持つ小銃や中・大型の軍艦などにも備え付けられていました。
 ちなみに菊の花ことばは「高貴」「高潔」「高尚」。
 気高く気品に満ち溢れた菊のイメージそのままですね。

図10
 図10

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