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2023年2月 No.336

 

グローバル・ファンド 戦略投資効果局長
【再】國井修先生の特別講演を行いました1

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はじめに
 この記事は、3443通信2017年11月号から連載された内容の再掲載です。
 去る2017年7月27日(木)、泉中央の創作料理店『ウェルカムトゥザムーン』にて、院長が後援する秋葉賢也代議士を支援する会『リーフクラブ』と、院長主催の異業種交流会『ハートランドクラブ』合同例会が開催されました。
 その特別ゲストとして、院長の古くからの友人であり、院長が世界一尊敬する医師・國井 修(くにい おさむ)先生をお招きしての特別講演をお願いしました。

 國井先生は、国際協力機構(JICA|ジャイカ)、国連児童基金(unicef|ユニセフ)などの国際機関での活動を経て、現在ジュネーブに本部のある世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)の戦略投資効果局長を務められています。
 また、1996年、かつての橋本内閣時に起きた在ペルー日本大使公邸占拠事件では日本側の医療班として現地入りし、青木大使と共に帰国しました。
 さらに、2011年の東日本大震災が発生すると、フィールドマネージャーとして災害対策本部と連携した救助活動を行うなど、とても身近な場所でもご活躍をされています。
 ここでは、國井先生のお話をもとに、厳しい世界の医療現場の現実をご紹介いたします。

以下、國井先生のお話を文字化したものです。

國井Dr.の夢(図1)
 私の夢はとても単純で、その夢が叶うと信じ込んだ方です。
 私はドイツ人のシュヴァイツァーが好きでした。彼は音楽家から神学者となり、最終的に医者になった人です。彼は30歳までは科学と芸術を身につけることに専念し、30歳以降は世の中のために尽くすと誓ったそうです。
 そして私は、彼の書いた「水と原生林のはざまで」という本を読みました。当時高校生だった私はいたく感動しまして、世界地図を眺めながら「アフリカで働きたいな! 」という気持ちを持ちました。

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 図1 シュバイツァーに感銘を受けた國井先生


カンボジアのボートピープル(図2)
 大学生になった私は、考えているばかりではない、実際に現場に行ってどんな人たちが苦しんでいるのか見ないといけないと思いました。
 しかし、すぐにアフリカに行きたかったのですが、すぐ身近に大きな問題が起こっていたのです。それはインドシナのカンボジア、ベトナム、ラオスと言ったアジア諸国で大量の難民が出ていたのです。
 この当時のアジアは、アメリカ主体の資本主義陣営とソ連の社会主義陣営の代理戦争。大国同士が直接戦うのではなく、それぞれの陣営に属する国が戦い合っている状況でした。

 そうした中、カンボジアではポル・ポト(1928~1998年)という人が政権をつくって原始共産主義という思想が広がっていきました。彼は貧富の差をなくすため、すべての人は平等に労働し、共同生活をおくらせようと考えました。
 この発想自体はシンプルであったために多くの人が賛同しました。
 しかし、これまで裕福な生活をおくっていた知識人、いわゆる医者や看護師、弁護士、ビジネスマンなどの人たちが大量に殺されました。

 その人数は数百万人。カンボジア国民の約3分の1が殺されてしまったのです。その虐殺から逃れるために多くの人がカンボジアから脱出するボートピープルとなりました。
 写真のように50人も乗れないような船に300人以上が乗り合わせています。
 もちろん船の定員を大幅に超えているので転覆したり、また海賊に襲われて女性はレイプされたり、子供が海に投げ込まれたりと言った悲惨な状況になっていました。

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 図2 船から溢れるボートピープル


逃避行するランドピープル(図3)
 
写真の人たちは、船で逃げられなかったランドピープルです。こういう人たちは原生林の中を何日もかけて歩いて逃げてきたそうです。
 私は当時、タイとカンボジアの難民キャンプに行った時に直接彼らの話を聞いたのですが、辿りつけた人はほんの僅かだったそうです。多くの人は原生林の中でゲリラに襲われたり、地雷を踏んだりして亡くなったそうです。また食料もないですから土を食べて飢えを凌いていたそうです。

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 図3 命からがら逃げ延びるランドピープル


エチオピアの飢餓(図4)
 かたやアフリカに目を向けると、エチオピアという国では飢餓によって200万人が亡くなる事態になっていました。

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 図4 飢餓に苦しむエチオピアの子ども


アフリカへの想い(図5)
 私は「とにかくアフリカに行きたい!」という想いが強かったので、大学4年の時にアフリカのソマリアという国に行ってきました。
 この国でも何十万人の難民が出て飢餓が起こっていました。
 首都のモガデシュから、さらに国連のトラックに乗って20何時間かけて辿りつきました。ところが途中、まったく道なんていうものはないんです。道なき道をずぅ~~っと車で行くんです。
 写真は、そうしてたどり着いた難民キャンプです。

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 図5 ソマリアの難民キャンプ


栗山村での僻地医療(図6)
 そうした中、私は無事に大学を卒業して日本の僻地医療の現場で働くことになりました。
 私の通った栃木県の自治医科大学という大学は、僻地や地域医療の充実を目的として設立されました学校です。卒業後、一定期間を指定される公立病院等に勤務することで、修学中の学費は免除される制度があります。
 私が勤めたのは、栃木県の日光のさらに奥にある栗山村という村でした。在勤中には三好先生にもお越し頂きまして、耳鼻科健診をして頂いたりしました。

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 図6 栃木県栗山村で診療する國井先生


栗山村の大自然(図7)
 栗山村は、本当に綺麗な山に囲まれていまして、秋には辺り一面が紅葉で染まり、その合間に滝が流れ落ちるといった風景が望めました。
 病院から歩いて5分のところに温泉もありました。この温泉は何と無人だったんですね。300円を置くだけで24時間いつでも入浴する事ができました。
 私も夜の1時位まで仕事をした帰りに寄って、温泉でその日の疲れを落としていました。
 また、栗山村にはマタギと呼ばれる猟師さんが居て、彼らが狩った鹿とか熊の肉を貰ったりしました。

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 図7 色彩豊かな栗山村の自然


海外での支援活動(図8)
 それでもジッとしている事ができなかったので、栗山村で勤務しつつNGOという支援団体をつくって、海外での緊急援助が発生した際はすぐに飛んでいきました。
 ただし、私が居なくなると栗山村は無医村になってしまうので、各地にいる同級生とかに「5日間だけ!」と言って来てもらったりしました。
 その当時、ソマリアでは大きな内戦がありました。学生時代に行った時には、エチオピアとソマリアが前述した代理戦争による争いの最中でしたが、今回はソマリア国内の内戦でした。あまりにも激しい内戦だったため、アメリカを中心とするNATO(北大西洋条約機構)が介入する事態に発展してしまいました。

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 図8 ソマリアに展開する国連軍(米軍)


戦火のソマリア(図9)
 私が訪れたアフリカ北東端にあるソマリアの首都モガデシュという街は、元々はイタリアの植民地で真っ白なアラブ風の家が立ち並ぶ綺麗な街並みだったんです。街中ではイタリアンが食べられましたし比較的治安も良い安全な街だったんです。
 ところが、1993年に飛行機で行った時には迫撃砲やら銃撃などで無残な状態になっていました。

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 図9 銃砲撃で穴だらけの建物


崩壊した首都モガデシュ(図10)
 私は今まで、エルサルバドル、アフガニスタン、イラクなどの世界各地の紛争地域に行った事がありますが、その中でもモガディシュは本当に最悪でしたね。街中すべての建物が写真のような状態です。
 例えばイラクに行きますと、イラン・イラク戦争でアメリカ軍が入った時には、ハイテクを駆使して軍に関係する施設だけをピンポイントに爆弾を落とすんですね。
 なので、街中に入ると全てが壊れていると言うよりは、ところどころがまだらに被害を受けているんです。しかし、モガデシュでは全てが壊されているんです。

図10
 図10 街中に広がる戦いの傷跡


選択の時(図11)
 
こういった中で私は色々と診療をしていたんですが、この当時から少しずつこう……虚しさを感じるようになりました。

図11
 図11 絶え間なく増える患者


アフガニスタンの傷跡(図12)
 と言うのも、私はどうしても二足の草鞋を履かなければならなかったんです。
 日本では診療所での診療を行い、いざ緊急援助がある時には年に2回位は外国へ行って帰ってくる。可能であれば、現地でNGO団体を立ち上げて、そこにたくさんの医者や看護師を送って診療をしてもらいました。
 でも、この方法で助けられるのは数百人から数千人が限界なんですね。
 ところが現地のニーズとしては、例えば写真のアフガニスタンでは500万人以上の人たちが家を追われて医療を必要としていたりする中で、私達の努力では全然足りないんですね。

図12
 図12 崩壊したアフガニスタンの街並み


バングラデシュの洪水(図13)
 写真はバングラデシュと言う国で起きた洪水の様子です。この時は何と国土の4分の3が埋まってしまいました。と言うのも、この国で一番高い標高が5mしかないんです。つまり国土のほとんどが、河川から運ばれる土砂が堆積してできたデルタ地帯だったんです。
 そこに多くの人たちが住んでいるので、台風とかが来ると突然に水かさが上がるんですね。
 実際に現地でボートに乗って移動していると、電信柱の電線が目線の高さにあるんですね。だから大体10m以上は水かさが増している。そして川に住む川イルカがピョンピョン跳ねて泳いでいるんです。とにかくすべてが水で覆われてしまっていました。

図13
 図13 洪水に沈むバングラデシュの大地


竜巻の脅威(図14)
 私も初めて目にした光景なんですが、写真は竜巻の被害に遭った場所です。竜巻がどれだけ恐ろしいか。
 この時は、日本政府が派遣した緊急援助隊と一緒に行ったのですが、木にトタン屋根が巻き付いた状態で引っかかっていました。こうした建材が、およそ風速200kmという風に煽られて飛んでくるんです。
 住民は、村で唯一の頑丈なコンクリート製の学校に逃げ込んだんです。しかし写真を見ての通り破壊しつくされていました。
 逃げ込んだ人たちは、壊れたコンクリートの破片に打ち付けられて、私たちが到着した時にはケガ人がたくさんにいました。
 今日は食事の席でもあるので、そういった写真はお見せしませんが、とにかくひどい状態でした。

 そして先ほども言いましたように虚しさを感じたんですね。
 例えば先ほどの竜巻災害で言えば、わずか20分間の竜巻で500人が亡くなられ、数十万人の人が住まいを失っています。
 私たちが1週間の滞在で出来た事は治療する事のみだったんですね。

 だから私は二足の草鞋はやめよう。やるのであれば、全身全霊を持って海外で働こうと思いまして途中でNGOも辞めて国連に入りました。

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 図14 強固な建物すら破壊する竜巻

つづく

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