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2023年10月 No.344

 

利尻・礼文島を巡るクルーズに行って来ました

院長 三好 彰

図01
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 2023年9月13日(水)~15日(金)の3日間、北海道の北西に浮かぶ利尻・礼文島を巡るクルーズ旅行に参加して来ました。
 今回、私が乗船したのは、日本に3隻あるクルーズ船のひとつで商船三井が運航する『にっぽん丸』(図1)で、あの青年国際交流事業の世界青年の船にも使用されている中型客船です。世界的に見ればより大きくアクティビティに富んだ豪華客船もありますが、そこは「おもてなし」の国・日本の名を冠した船。手ごろな費用で船旅を体験できるとあってリピータ率も高く、非常に人気のある船旅が楽しめます。
 初日、新幹線で新青森駅のバスプールに集合した一行は、旅行会社が手配したバスに乗り込み青森港へ。好天に恵まれた中央埠頭には白と濃紺のツートンカラーが映えるにっぽん丸(図2)が停泊し、乗客が来るのを待ちわびていました。

図02
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 ここ青森港は、国内外問わず年間数十隻の大型客船が寄港します。
 新型コロナウイルス流行初期に知られるようになったダイヤモンド・プリンセス(115,906t)や、誰もが名を知るクイーン・エリザベス(90,900t)、日本船籍の飛鳥II(50,444t)に始まり、日本を訪れた船では最大級のイタリア船籍のベリッシマ(171,598t)など、豪華な顔ぶれがこの港から大海原へと旅立って行きます。

 それでは早速乗船して、まずは部屋へと向かいます。
 今回は5階にあるシングルルームを予約しました(図3)。船窓からは青々とした空と海がのぞいています(図4)。

図03
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図04
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 出港時間になると外がにわかに賑やかに。
 甲板に出ると法被に身を包んだ人たちが、手を振り、旗を振り、太鼓・小太鼓・笛の音と共に盛大にお見送りをしてくれました(図5~6)。車や自動車では味わえない、まさに船旅ならではの旅の出発風景に、思わず胸が躍ってしまいます。

図05
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図06
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 本日、晴天なれど波もまた穏やかに……(図7)。
 青森港を後にしたにっぽん丸は一路、津軽海峡を西進して日本海を北上し、北海道北端にある利尻島を目指します。

図07
図7


最果ての島 利尻・礼文
 今月号の表紙写真(3443世界写真展)でもご紹介した利尻島はアイヌ語でリ・シリ(高い・島)を指す言葉で、島の中央にある円錐状の利尻山(通称:利尻富士)が、その由来の通り海面から突き出すように見える火山島です。元々はアイヌの人達が住む集落があるのみでしたが、松前藩の交易船が発見して以来無人島ではないことが判明し、交易の拠点となる運上屋が作られました。
 そのすぐ北にある礼文島も、アイヌ語のレプンシリ(沖の・島)の“レプン”に漢字を当てて礼文と呼ばれるようになりました。
 人の居住した歴史は、3~13世紀頃にオホーツク海沿岸を中心に栄えた海洋漁猟民族のオホーツク文化期にまでさかのぼり、日本書紀にもその存在が示唆されています。

外国から狙われた蝦夷
 その当時のアジア圏は欧州列強の植民地化が進められており、島国である日本にもその影響は押し寄せてきました。
 特に、北方の大国ロシアは凍らない港(不凍港)を確保するための南下政策を推し進めており、たびたび北海道(蝦夷)近辺に軍艦を派遣しては藩の施設や集落などを襲撃し、島民を捕虜するなどの外交的圧力を高めていきました。

 事態を重くみた江戸幕府は、ロシアの南下を警戒して蝦夷地に東北諸藩からなる警備隊を派遣し、防衛政策を取ります。院長の5代前の先祖である三好監物も、そうしたロシアに対する領土防衛を担うために北海道白老町に派遣される経緯があります(詳しくは、無料で閲覧できる『三好監物物語』をご覧下さい)。

 地理的にロシアの影響を受けやすい利尻島や樺太には会津藩の藩士が派遣され、その本陣は現在の稚内市の宗谷に置かれました。
 ですが、多くの派遣藩士が不慣れな環境や食料不足からくる病、極寒の冬に耐えきれずに苦しめられます。記録には、国後・択捉島で越冬した南部藩・津軽藩あわせて140名以上が死亡。知床半島の付け根にある斜理に派遣された津軽藩100名中、越冬できたのは僅かに13名という悲惨な状況だったそうです。

 利尻島も例外ではなく、数度にわたるロシア艦隊の襲撃を受けてしまい、砲撃や焼き討ちによって集落・運上屋(交易のための拠点)に被害を受けたそうです。その後、日露関係の好転によって事態は収束していきますが、大国ロシアとの摩擦が生まれる北の地の苦悩は、数百年がたった今でも継続しています。

日本に魅せられたアメリカ人
 利尻島北東の野塚と呼ばれる沿岸に、一人のアメリカ人の記念碑が建てられています(図8)。

図08
図8


 日本中を震撼させた黒船襲来ことペリー提督の来日、その歴史的な出来事から遡ること5年前の1848年(嘉永元年)、アメリカ人の捕鯨船員ラナルド・マクドナルド(ハンバーガー店ではありません。念のため)が上陸したことを示す記念碑です。
 彼は1846年のアメリカで発行された『フレンド』誌掲載の『クーパー船長日本探問談』を読み、日本に対する非常に強い興味を抱くようになりました。

 そしてマクドナルドは、日本近海で活動する捕鯨船プリマス号へと乗り組み、船が補給のため帰路につく際にボートで船を降り、利尻島のさらに南に浮かぶ焼尻島に単身上陸します。これは本土では異国人は珍しく、すぐに幕府に捕まってしまうことを避けるためだったと言われています。
 マクドナルドは遭難を装った上でアイヌに助けられ、利尻島へ辿り着きます。そして島民と身振り手振りで交流して交友関係を築いていきます。やはり夢にまで見た土地を訪れたと言うこともあってなのか、マクドナルドの真摯で人当たりの良い人柄に心ほだされた島民は、次第にマクドナルドを受け容れていったそうです。

 ですが、役人に見つかったマクドナルドは拘束されてしまい、利尻から宗谷、松前に移され、最終的に長崎へと移送されていきます。その間、マクドナルドは牢番や通訳にあたった森山栄之助などと交流を重ねながら英語を教え、自らは日本語を積極的に学んでいきました。
 マクドナルドは、晩年、1年近くにわたった日本滞在の記録を『日本回想記』という自著に残しました。国際交流の地盤すら整っていなかった時代において、その熱い想いと行動力一つで日本へと渡り、異国人という壁を越えた交流の礎を築いたことは驚嘆に値します。

 興味がある方は、吉村 昭著の『海の祭礼』(図9)にマクドナルドの半生が描かれていますので、ぜひ手に取ってみて下さい。

図09
図9


 さて、お話はクルーズへと戻ります。

快適な船の旅
 普段の旅行であれば、飛行機や新幹線であっという間に現地入りするのが常ですが、今回は移動時間そのものを楽しむ船の旅です。

 夕食時間になると、乗客は二カ所のレストランで食事を取ります。
 私は5階にあるオーシャンダイニング『春日』で、本格フレンチに舌鼓をうちました(図10、11)。その後はゆっくりと時間が過ぎるのを感じながら読書に耽り、翌朝の上陸に備えて床に就きます。

図10
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図11
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 朝、目が覚めて船の行く先に目を向けると、洋上にキレイな三角を描いた利尻山が見えてきました(図12)。

図12
図12


 朝の8:00、にっぽん丸が利尻島の沓形港(くつがたこう)に接岸すると、私は利尻・礼文を巡るオプショナルツアーに参加するため船を降り、島の北側にある鴛泊港(おしどまりこう)から連絡船に乗り換えて、目の鼻の先にある礼文島へと渡ります。
 礼文島は、南北に延びる細長い島で、冷涼な気候のため海抜0メートルから200種類以上の高山植物が咲く珍しい土地です。その美しい様子から『花の浮島』という別名が付けられています。

 まず向かったのは島の最北端にある『スコトン岬』(図13)です。
 日本最北限の土地——宗谷岬が最北端となったため別の名称——ということもあって『最北限の売店』や『最北限のトイレ』(図14)などの特徴的な看板がいくつもあり、地面には山で観察できるような高山植物(恐らくシロヨモギ)が散見されました(図15)。

図13
図13

図14
図14

図15
図15


 岬からはうっすらとですがロシアが統治しているモネロン島(図16)や、稚内のノシャップ岬(図17)が臨めました。また海岸付近の岩礁にはアザラシの姿(図18)もあり、雄大な自然のワンシーンを見えることが出来ました。

図16(ロシア領モネロン島)
図16

図17(ノシャップ岬)
図17

図16、17
図16、17の位置関係

図18(岩の上のアザラシ)
図18


 昼食は、香深港(かふかこう)すぐ傍にある食事処『かふか』で、近海産のバフンウニを使った贅沢に使ったウニ丼です。甘く濃厚な味わいのバフンウニは舌が蕩けそうになる美味さです。ごちそうさまでした(図19)。

図19
図19


 ふたたび利尻へ戻ってきた私たちは、吉永小百合主演の映画『北のカナリアたち』のロケにもなった富士野園地を訪れました。ここは6~7月にかけてエゾカンゾウというオレンジ色の花が咲き乱れる名所で、海と山、そして花畑という眺望が楽しめます(図20)。

図20
図21


 2014年4月1日から10月26日の208日間をかけて、日本全国の百名山を人力で周るチャレンジを達成した田中陽希さんの100座目(利尻山)の登頂記念碑が残されていました(図21)。

図21
図21

 利尻島の西海岸エリアの観光スポットである『北のいつくしま弁天宮』(図22)は、その昔、嵐で岩に打ち砕かれそうになった弁財船を弁天様が救ったという伝説が由来となって建てられたお宮です。すぐそばには海に向かって熊が寝転がっているようにも見える『寝熊の岩』(図23)や、人の横顔(右を向いている)に見える『人面岩』(図24)があります。

図22
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図23(寝熊の岩)
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図24(人面岩)
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お別れの時
 朝から夕方にかけて巡った利尻・礼文島ともお別れの時間です。
 ふたたび船上の人となり、島民からのお見送りを受けながらの出港。大人だけではなく、子どもたちも小さな手を一杯に振ってくれています(図25~27)。

図25
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図26
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図27
図27


 徐々に埠頭を離れていくにっぽん丸。その視界の先には夕日を浴びる利尻山の雄姿が(図28)。

図28
図29


 帰路の夕食でも提供されたローストビーフ(図29)。とても柔らか溶けてしまいそうで飲むようにお腹の中へ!

図29
図29


 3日目の昼過ぎ。夜通し航海を続けたにっぽん丸は無事、青森港に到着(図30、31)。お囃子に合わせて軽快に踊る青森市観光キャラクターのあぷたんが、帰港のお出迎えをしてくれました(図32)。

図30(入港)

図31
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図32
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