3443通信3443 News

2024年1月 No.347

 

【再】イスラエル訪問レポ 後編(終)

総務課 青柳 健太

図 タイトル左


はじめに
 3443通信280~288号で掲載し、いま現在のトピックスである中東イスラエルの訪問レポート(2018年5月)の最終話である後編をご紹介します。

前号のあらすじ
 イスラエルと言ったら「ここでしょ!」と言う位に有名な死海で不思議な遊泳体験をしました。その後、一行はイスラエル北部のティベリア地方へと場所を移し、キリスト教聖地ともいえる教会などを巡りました。

【6日目】5月1日(火) ティベリア地方(ゴラン高原)
 北部の朝は、植物の生い茂る亜熱帯気候の影響か、やや湿度を含んだ風を感じました。
 イスラエル最大の淡水湖であるガリラヤ湖上には、白く輝く日光の道が出来ていました(図128)。
 これから向かうのは、隣国シリアとの国境にある丘陵地帯ゴラン高原です(図129)。

図128
  図128 ガリラヤ湖に映える朝日

図129
 図129 イスラエル最北端のゴラン高原


 ゴラン高原は、イスラエルと周辺のアラブ諸国との間で起きた第3次中東戦争(1967年)の激戦区となった場所で、戦後にイスラエルが実効支配しました。
 平均標高が600メートルほどの高原地帯であるゴラン高原は、南のティベリア地方を一望できる位置にあることから軍事的な要衝となっています。
 現在は、イスラエル・シリアの中間にあたるエリアに国連の監視所が設けられており、その一帯は非武装地帯(Demilitarized Zone)に指定されています(図130)。

図130
 図130 地図にも非武装地帯が描かれています


楽園と戦火の狭間
 ティベリアから北東に伸びる90および91号線沿いを走っていると、車窓からは緑豊かな森と田園地帯が海抜マイナス200メートルのガリラヤ湖に向かって緩やかに続いています。
 その穏やかな景色は、まるで地上に出現した楽園を思わせる美しい光景でした。

 しかし、ガリラヤ湖の北側からゴラン高原に向かう丘陵地帯を登っていく途中から、奇妙な感覚に囚われました。
 車窓からは、黄金色に染まる牧草と所々にある林が流れていき、一見すると穏やかな風景が続いています。

 でも、どこかおかしい……。

 まるで空気全体が息を潜めているような、重い雰囲気を纏っているのです。
 そのおかしな感覚の原因は、すぐに判明しました。

 私たちの乗る車が走っている道路と草原の間には、見るからに簡易的な柵が立てられていました。その柵には一定間隔でオレンジ色の小さな看板が取り付けられており、その表には「Danger Mine(危険・地雷)」の黒い文字が書かれていました(図131)。

図131
 図131 「危険・地雷」看板の先は地雷原です


 すぐ目の前に広がる草原は、人の侵入を拒む地雷地帯だったのです。
 そう理解した私の背中を、ヒュッとなにかが撫でた気がしました。
 先ほど感じた違和感の正体はいわゆる「死の気配」という、日本ではまず感じ得ない戦場の雰囲気ともいうべき物でした。

 改めて景色を眺めていると、シリアとの境にある非武装地帯の手前には、イスラエル軍の部隊が駐屯する林がありました。主力戦車であるメルカバMk.4があることから北部方面軍の第36機甲師団所属の部隊でしょうか(図132)。他にも、戦闘工兵科に所属すると思われる平べったい形をしたプーマ戦闘工兵車やD9装甲ブルドーザー(図133)、ハンヴィーなど車両数十台が停車していました(図134)。

図132
 図132 主力戦車のメルカバmark4

図133
 図133:戦闘工兵科の車両が並んでいます

図134
 図134:米軍でもおなじみのハンヴィー


最前線の喫茶店
 地雷原の脇をひたすら北東へ走っていくと、視界に小高い山が見えてきました。
 そこはベンタル山(標高1165メートル)と呼ばれる山で、山頂からは周囲数十キロ先まで見渡せることから要塞として利用された場所です(図135)。
 そのバイタル山の山頂には一軒の喫茶店「Coffe Annan」があります(図136、137)。

図135
 図135:ベンタル山

図136
 図136:ベンタル山頂にある喫茶店「Coffe Annan」

図137
 図137:エスプレッソのコーヒーアート


 スキー場にある様なロッジ風の建屋に入ると商品を注文するカウンターがあり、その奥には数十人は座れる喫食スペースがあります。
 入口から喫食スペース至るまでの壁は、外の景色を見てコーヒーブレイクを楽しめる様に窓が連なっています。

激戦区『涙の谷』
 今でこそベンタル山は、ゴラン高原の絶景を眺めながらコーヒーを楽しめる観光名所になっていますが、第4次中東戦争の当時では最も激しい戦闘が繰り広げられた場所でもあります。
 1973年10月6日、ユダヤ教徒は1年間の罪を神に許しを請う贖罪の日(ヨム・キプール)を迎え、イスラエル全土では交通インフラやお店、テレビ局等のメディアでさえも完全休業して断食を行います。
 まさに国としての機能が停止した日に、シリア及びエジプトがイスラエル国境を越えて奇襲攻撃を開始しました。

 第4次中東戦争の始まりです。

 当初、奇襲を仕掛けたシリア・エジプト側の優位に進みました。
 イスラエル軍はアメリカの支援も受けつつ、即座に予備役部隊を再編制して反撃体制を整えます。イスラエルでは男女ともに一定期間の兵役の義務があるため、予備役登録されている国民は有事の際に予備役部隊として徴兵されます。
 その結果、イスラエル軍はシリア・エジプトに逆侵攻する状況になり、国連の停戦決議をもって戦いは終結しました。

日本にも影響した中東戦争
 この時、アラブ側は石油価格の引き上げや生産量を減らすなど、イスラエル側に打撃を与える政策をとりました。
 軍民問わず、すべての車両は燃料である石油が無ければただの鉄の箱です。まさにエネルギーを抑える事は国の生命線を抑える事になるのです。
 この政策は世界中にオイルショックとして広がり、日本でもトイレットペーパーなどが品薄になるなど、少なくない影響を与えました。
 対岸の火事だと思っていたら、気づけば自分たちの足元を揺るがしていたのです。

現在のゴラン高原
 ベンタル山のすぐ東側には国連によって定められた停戦ラインが南北方向に向かって引かれており、シリア領を含むゴラン高原の全景が一望できます(図138)。

図138
 図138:シリア側を監視する国連軍


 山頂にはかつて使われていた塹壕が残されており、ところどころに銃撃を受けたであろうベトン壁が戦いの激しさを物語っています。
 塹壕の端には国連の兵力引き離し監視軍の監視所があり、2名の兵士がシリア領をまんじりともせずに見つめていました。

 ベンタル山の北西数キロにある窪地は、初戦においてシリア軍の機甲師団が大挙して押し寄せてきたエリアで、兵力に劣るイスラエル軍は決死の抵抗を持ってシリア軍の侵攻をくい止めました。戦闘が終わり、大地にはイスラエル・シリア両軍の数百両にものぼる戦車の残骸が散乱していました。その余りにも凄惨な状況から涙の谷(図139)と呼ばれるようになったそうです。

図139
 図139:激戦地となった涙の谷


バニアス自然保護区
 イスラエルの最北端、レバノンとの国境にまたがるヘルモン山(標高2,814メートル)にはうっすらと万年雪が被さり、かつてカナン(パレスチナ地域)の人達にとっては神聖な山として崇められてきました。
 その山の麓にあるバニアス自然保護区は、ヘルモン山の雪解け水が豊富に湧き出す重要な水源地です(図140)。

図140
 図140:貴重な水源地であるバニアス


 元々はパンの神を祭ったパニアスと呼ばれる場所でしたが、イスラム帝国が支配するようなると発音が訛り、アラブ人の間で発音しやすいバニアスという名前で呼ばれるようになりました(図141~143)。
 園内には緑豊かな樹木が生い茂り、その合間を縫ってヘルモン山の湧き水がこんこんと流れています。その清流に沿うように遊歩道が整備されており、いくつかの周遊コースを辿って遺跡を巡る事ができます(図144)。

図141
 図141:2000年近く前の遺跡群

図142
 図142:神殿の建っていた洞窟

図143
 図143:遺跡の想像図

図144
 図144:公園の全景


昼食『LEBANESE レストラン』
 自然公園に隣接したレストランで昼食です。メニューはもはや食べなれた前菜類をピタに挟んだピタサンド(図145)。ひよこ豆で作ったファラフェル(コロッケ・図146)やポテトフライ、香辛料をまぶして焼いた鶏肉のシシュリック(串焼き・図147)です。

図145
 図145:ファラフェルとピクルスのピタサンド

図146
 図146:ファラフェル(ひよこ豆のコロッケ)

図147
 図147:鶏肉のスパイシー串焼き


神秘の町ツファット
 ガリラヤ湖の北西にある町ツファットは標高900メートルの山の上に造られた古代都市で、紀元前後に建設されました(図148)。
 ツファットは長い歴史の中でローマ帝国、十字軍、イスラム系の王朝などによって統治され、15世紀に入るとスペインから追放されてきたユダヤ人が移住してきました。
 その住民の中にユダヤ教のラビ(宗教的な指導者)が居たことから、ツファットはユダヤ教秘密主義の中心地として知られるようになりました。

図148
 図148:古代遺跡の上にあるツファット


 そして町には多くのシナゴーグ(宗教的な集会所)が作られ、高名なラビを数多く輩出する町として宗教的に重要な意味を持つことになります(図149、150)。

図149
 図149:シナゴーグ(ユダヤ教の集会所)

図150
 図150:物凄く古い時代の経典


 そんな経緯からなのか、この町に住むと神秘的な閃きを得られると言うイメージが定着し、多くのアーティストがこの町に住みついてアトリエやショップを開いています(図151~153)。
 中世を思わせる石造りの狭い路地には、その両側に様々なお土産や芸術品を売っているお店があり、そのどれもが思わず目を止めてしまう不思議な魅力を持ち合わせています(図154)。
 一つ一つが非常に洗練されたデザインで作られており「こんな表現もあるのか!」と、新鮮な衝撃を何度も味わいました。

図151
 図151:お土産屋さん

図152
 図152:三重ガラスに描かれた風景画

図153
 図153:つい目を奪われてしまう絵画

図154
 図154:お土産屋さんの建ち並ぶ街並み


ガリラヤ湖でクルーズ
 ツファットを後にした一行は、機能も宿泊したティベリアへと戻ります。
 陽もだいぶ傾いてガリラヤ湖が金色の輝きをみせる夕方、一隻の観光船が離岸しました。ガリラヤ湖の西岸を出発した船は30分ほど掛けてガリラヤ湖上を航行します(図155)。
 船は2階建て構造となっており、1階は船内、2階は壁のない(屋根付き)シースルーの広い空間に、プールに置いてあるようなプラスチック製の椅子が何脚も置いてフロアがあります
 スピーカーからは盛大な音量で音楽が流れており、フロアの中心では10人位の男女が曲に合わせて踊っていました(図156)。
 顔を手以外の皮膚を見せないイスラム系の女性や、それとは反対に体にフィットしたTシャツとジーンズといった軽装の女性など、様々な人種のいるイスラエルならではの風景が見て取れました。

図155
 図155:ガリラヤ湖の観光船

図156
 図156:音楽に合わせて踊りまくる!


ホテル『ピルグリムズ・レジデンス』
 前日に昼食をとったレストラン『エルミタージュ』に隣接したホテル『ピルグリムズ・レジデンス』は、修道士が経営するホテルです。対応してくれたスタッフは、ほぼ全員が黒い修道服を着て仕事をしています(図157)。
 部屋も床以外は白壁・白天井という非常にシンプルな内装で、修行中の修道士が寝泊まりするのに適した雰囲気と言えます(図158)。
 何となく、ホラー映画のエクソシスト的なイメージが湧いてきてしまい、夜に何も出なければ良いなぁと益体もない事を想像してしまいました。

図157
 図157:シスターの運営するホテル

図158
 図158:どことなく映画に出てきそうな雰囲気


 夕食のメニューは、前日も食べたセント・ピーターズ・フィッシュとポテトのプレート(図159)や、ピタサンドの前菜セットです(図160)。
 食事のお供であるビールですが、イスラエル産のゴールドスター(図161)と、珍しいパレスチナ自治区タイベ村のタイベビール(図162)です。ビール好きには知る人ぞ知る一品の様で、料理に合わせやすいすっきりとした飲み口が人気だそうです。

図159
 図159:セント・ピーターズ・フィッシュ(スズキの仲間)

図160
 図160:前菜類とピタ

図161
 図161:イスラエル産のゴールド・スター

図162
 図162:パレスチナ自治区のタイベビール


【7日目】5月2日(水)、ティベリアからハイファへ
 イスラエルに滞在して1週間。すでに食べなれたイスラエルの朝食メニュー(図163)でお腹を満たした一行は、北部から反時計回りに南下して行きます。

図163
 図163:チーズやハム、ヨーグルトなどの軽食


 ティベリアから西に延びる77号線を車で2時間ほど走ると、地中海に突き出た半島にある港町ハイファに到着します(図164)。

図164
 図164:反時計回りに周遊します


海の玄関口『ハイファ』
 テルアビブやエルサレムに次ぐ第3の都市となるハイファは、海運の要として発展してきた街です(図165)。目の前には、はるか西の大西洋へと繋がる地中海が広がり、街の背後には標高500メートルほどのカルメル山がそびえています。

図165
 図165:カルメル山から望むハイファ市街


その山の斜面には、少数派の宗教であるバハーイー教の霊廟と四季折々の花々が楽しめる庭園が、街を見下ろしています(図166)。
 その斜面に広がる情景の美しさから、中東のサンフランシスコとも呼び表されています。また、このカルメル山には旧石器時代に生きたネアンデルタール人の洞窟遺跡が散見され、古代から人が居住してきた重要な土地であることが伺えます。

図166
 図166:中東のサンフランシスコとも呼ばれています


 この街が開発されたのは、紀元1世紀頃に進駐してきたローマ軍によって駐屯地化されたことに端を発します。そして、11世紀に起きた十字軍の侵攻によって街が破壊されると、その後の数百年間はひっそりとした状況が続きました。
 そんな忘れされた街に変化が訪れたのは、ユダヤ人の入植が本格化し、人口増大と産業拡大に伴って鉄道網が敷設される20世紀に入ってからです。
 海運と陸運の起点となったハイファは、各国の通貨を扱う両替所や船舶会社が数多く進出する港町として再生しました(図167)。

図167
 図167:多くの船舶が寄港します


バハーイー庭園
 港から内陸部に目を向けると、カルメル山の中腹にあるバハーイー庭園が視界に入ります(図168)。
 この建物は、19世紀にイランで発祥したイスラム教系の宗教であるバハーイー教の施設です。バハーイー教の前身であるバーヴ教がその教義の内容からイスラム教圏から排斥され、ハイファへと逃れた信者たちの手によってバハーイー教へと発展した経緯があります。
 2008年にはユネスコの世界遺産に登録がなされ、ハイファの象徴的な場所として認知されました。
 私たちが訪れたときは定休日のため中に入る事は出来ませんでした。ですが山上から見るハイファ市街と目の前に広がる地中海の景色は、まさに絶景と呼ぶべきものでした。                                                          

図168
 図168:世界遺産のバハーイー庭園


キブツ『マーガン・マイケル』
 ハイファを発った一行は、地中海を横目に見つつ2号線を南下して行きます(図169)。
 その途中、道路沿いにある大きな集落にバスは入って行きました。そこはキブツ『マーガン・マイケル』と呼ばれる場所でした(図171)。

図169
 図169:魅惑の地中海

図170
 図170:キブツ『マーガン・マイケル』の航空写真


 キブツと言われて何となく「遺跡から発見された遺物かな?」と思っていましたが、正確には独立採算制をとった生活集団の事を指しています。
 より詳しく言うと、出産・就学・労働・葬式といった社会生活の全般が、その集団内で完結している組織です。
 元々は帝政ロシアの迫害から逃れてパレスチナに来たユダヤ人達が、お互いを助け合って自主自営するために集まったのがきっかけです。

 私たちが訪れたマーガン・マイケルでは、大きな水産加工工場が主要な就業場所となっており、その加工物を外部と取引するなどして生計を立てていました。
 もちろんキブツの外に出て働いている人もいますし、キブツの運営に関わる仕事などもたくさんあります。
 キブツ内には他にも保育園や食堂、集会所や娯楽施設も整備されています。
 お昼になると、住人が食堂(と言ってもかなり大きな)に集まってきて談笑しながらご飯を食べていました(図171、172)。

図171
 図171:キブツ内の食堂

図172
 図172:1日2食はこの食堂で食事が出来ます


 集まってくる人たちは老若男女さまざまな年代の人達がおり、皆ゆったりとした雰囲気を醸し出していたのが印象に残りました。
 理由を聞くと、キブツに所属する人達にはほぼ平等に決まったお金が支給され、老後の蓄えなどを心配せずに生活する事が出来ているのだそうです。
 日々の生活に追われる日本での姿と対比して、焦燥感を感じさせない人々の表情をみると幸福とは何なのか……と、考えさせられました。

キブツ内の保育園
 食堂を見学した一行が次に向かったのは保育園です。
 保育園の周囲は多くの樹木に覆われており、その前庭には子ども達が遊ぶためのスペースと、実際に使われていた様々なガラクタが置かれていました(図173)。
 子ども達は、実際に使われていた本物の器具を触って分解したり組み立てたりする事で、物に対する理解を深めているのだそうです(図174)。

図173
 図173:ガラクタ? いいえお宝です

図174
 図174:園長先生いわく「子供博士の実験室」


 また、先生たちは基本的に子ども達がやることに対して、ほぼ干渉しない姿勢を取っています。
 例えば、ある時に子ども達が作った麦畑が庭の掃除中に刈られてしまう事故が起きました。

 先生は子ども達に投げかけます。

「どうしたら同じ事故がおきないようになる?」

 子ども達は知恵を出し合って「ここは麦畑なので刈らないで下さい」と10ヶ国語で書かれた看板を作って掲げました(図175)。

図175
 図175:子どもたち自らが作った麦畑と注意文


 先生たちはこの間、一切の手出しや口出しをしなかったそうです。
 日本であれば、恐らく経験豊富な大人である先生が子ども達に最適解を教えていたかも知れません。しかし、限られた状況において、子ども達自らが独自に答えを導き出す、その環境づくりを一貫して実践している事にカルチャーショックを受けました。

 また、そうした個人の感性が特に感じられたのは、子ども達が作った絵の『額縁』に見受けられました。そのカラフルな額縁にはパズルのピースや色鉛筆の削りカスが張り付けられており、こんな使い方があるのかと大変驚きました(図176~178)。
 既存の考え方に囚われない自由な発想。その片鱗を見た気がしました。

図176
 図176:色鉛筆の削りカスが額縁の装飾に早変わり

図177
 図177:パズルのピースが散りばめられています

図178
 図178:色粘土で作られた動物園


ローマ時代の遺跡の残る『カイザリア』
 日の当たり加減によってはエメラルド色にも見える地中海。海流の関係なのか、小石で形成される浜辺では波の満ち引きによって、独特の高い音色が耳を打ちます。
 その海岸にせり出すように、かつて港湾の跡が残るカイザリア遺跡があります(図179)。
 この遺跡は、およそ2000年以上も前から地中海の貿易地として存在していましたが、ヘロデ王の手によってギリシアのアテネに匹敵するべく新たな街づくりがなされました(図180)。

図179
 図179:古代の港が沈むカイザリア遺跡

図180
 図180:かつてのカイザリア港


 街の名であるカイザリアも、初代ローマ皇帝アウグストゥスの名前の一部であるカエサルに因んで名づけられました。
 現在は国立公園として遺跡の発掘と整備が進んでおり、コンサートホールとして使われている円形闘技場(図181)や戦車競技場(図182、183)、港湾などが修復されています(図184~186)。
 また、目の前に広がる湾にはかつての港湾跡などが海中に没しており、絶好のダイビングスポットとしてダイバーの憩いの場所にもなっています。

図181
 図181:発掘された円形闘技場

図182
 図182:馬で台車を引く古代戦車

図183
 図183:戦車の競技場

図184
 図184:遺跡を修復しています

 

図185
 図185:修復後の完成予想図

図186
 図186:遺跡の全体図


イスラエル外務省を表敬訪問
 カイザリアを発った一行は南下を続け、テルアビブの東側を擦りぬけてエルサレムへと戻ってきました。アテンド役のセリアさんの先導で向かったのは、エルサレム新市街の中心からやや北西にある国の中枢が集う官庁街、その一つである外国との渉外を一手に司るイスラエル外務省です。
 その建物は、公官庁などに使われている石灰岩『イスラエルストーン』で作られており、濃い乳白色の優しい色合いの外観が特徴的です。
 上空から見るとアルファベットの『H』の形に建物は配置されており、東西それぞれの棟にはオフィス、中央を繋ぐ棟には食堂やホールがありました。
 また、東棟の外壁には『命のビザ』を発給した日本の外交官・杉原千畝の名が刻まれていました。
 院長の数年越しに渡る杉原千畝を偲ぶ旅(バルト三国、ポーランド、イスラエル)の締めくくりに相応しい発見になりました(図187)。

図187
 図187:イスラエル外務省の壁に刻まれた杉原千畝


元駐日大使エリ・コーヘンさんと面談
 エルサレムの空がオレンジ色に染まり始める頃、宿泊しているホテルにて元駐日大使エリ・コーヘンさんと面談する事が出来ました。
 コーヘンさんは2011年の東日本大震災の際、駐日大使として東京に赴任されていました。発災直後から被災地での支援活動に着手され、親善大使であるセリアさんがコーディネーターとして派遣されました。
 以来、セリアさんは宮城県の亘理町を中心に子ども達の心のケアや住民間のコミュニティ作りに腐心されました。
 コーヘンさんのお話は、ご自身が従軍された中東戦争の際の逸話や、退役後にエルサレムで起きたテロを負傷しながら鎮圧した話、日本とユダヤ人の近似性について等、貴重なお話を伺う事が出来ました(図188)。

図188
 図188:院長と元駐日大使エリ・コーヘンさん


 その後、イスラエルでは最後の夕食をホテルでとり(図189、190)、腹ごなしに夜のエルサレムを軽く散歩しました。

図189
 図189:ホテルの食事はとても美味しいです

図190
 図190:なぜかバドワイザー


 ホテルのすぐ南には繁華街にあたるジャッファ・ストリートが走っており、多くの人が軒先にあるバーで談笑する姿や、ショッピングを楽しんでいる様子が見受けられました(図191)。
 その中でも、たまに見かける警察官の肩にはライフルがしっかりとかけられており、日本との危機意識の違いを実感させられます。どの国でもそうですが、同じ街中でも危険なエリアと安全なエリアが存在し、そこに無暗に近づかなければ地元の人と同様に過ごす事が出来ます。
 自己防衛として、そういった地域情報を集めているか、危険を回避するための術を講じたか、危機に対する感覚を研ぎ澄ませているのかが、日本と海外との差ではないかなと感じました。

図191
 図191:夜のジャッファ・ストリート


【8日目】5月3日(木)、エルサレム
 長い様で短かったイスラエル滞在の最終日です。
 この日はエルサレム市内にあるエルサレム美術館やホロコースト記念館、弾薬の丘などを見学して、夜11時出発のフライトで日本に戻ります。

イスラエル博物館
 国立博物館であるイスラエル博物館には、死海地方のクムランで発見された死海文書の写本が収められています。
 この死海写本は、約600を超える巻物がほぼ完全な形で残されており、とても紀元前に書かれた物とは思えないほどの状態で保存されていたことから、20世紀最大の考古学的発見と言われています。
 その写本が収められている死海写本館は、発見当時に写本が入っていた壺を模した玉ねぎ型の形をしています(図192)。館内は空調によって完璧に温度・湿度が管理されており、写本が劣化しないように弱めの照明が使われています。

図192
 図192:イスラエル博物館の写本館


 写本は展示場のちょうど中央にある円形の展示ケースに入っており、ぐるっと周回しながら閲覧することができます。文字を読む解くことは出来ませんが、かなりの文章が書きこまれており、それら1つ1つを研究・分析する人の苦労が偲ばれます。

古代エルサレムのジオラマ
 写本館の外には、第2神殿時代(紀元前538~紀元後70年)のエルサレムを50分の1に縮小して制作されたジオラマがあります(図193)。このジオラマは、故アビ・ヨナ教授という考古学者が『ユダヤ戦記』という文献や発掘などから得た成果をもとに製作されました。

図193
 図193:第2神殿時代のエルサレム


 当時のエルサレムを再現した模型には実際の建築材として使われる石灰岩や大理石、金などが使われており、その細部にまで渡る作り込みは製作者のこだわりが見て取れます(図194~196)。

図194
 図194:住民?のトカゲ

図195
 図195:石灰岩や大理石が使われています

図196
 図196:神殿にかかるアーチ状の橋付近が「嘆きの壁」です


 写真手前の凱旋門の様な建物が神殿で、その周囲(東西北)を城壁の様な柱廊が囲っています。唯一、南側には赤い屋根のバシリカと呼ばれる長方形の建物があり、ここでは献納物の買い物や集会所として使われていたそうです。
 現在の『嘆きの壁』と呼ばれている場所は、バシリカの奥側にある外壁の部分を指しており、ローマ帝国によって破壊された第2神殿の名残です。
 博物館の入口にはお土産コーナーが併設されており、洋服や小物、絵などが販売されています。そのどれもが思わず魅入ってしまうようなデザインの物が多くあり、ついつい長居をしてしまいそうになります。

ホロコースト記念館
 新市街の西側にイスラエル建国の父、テオドール・ヘルツルの眠るヘルツルの丘と呼ばれる場所があります。そこには、第2次世界大戦中にナチス・ドイツによって虐殺されたユダヤ人たちを慰霊するための施設『ヤド・ヴァシェム』があります(図197)。エントランスホールを抜けると、三角柱を横倒しにした形の記念館が斜面から飛び出るような形で建てられています(図198)。

図197
 図197:ホロコースト記念館の一施設

図198
 図198:特徴的な形をした記念館


 建物の正面には高さ30メートルにも及ぶ円柱があり、そこには「忘れるな」という意味のヘブライ語が刻まれていました。
 記念館の内部はホロコーストに至る経緯や、犠牲者の遺品、当時の映像などが時系列に沿って展示されています。また、記念館の最後にはThe Hall of Namesと呼ばれる円形のメモリアルホールがあり、ホロコーストの犠牲者600万人のうち、約200万人以上の個人情報が収められていました。

 犠牲者の名前や写真が壁一面にびっしりと記録されており、その余りにも多すぎる記録の量に心胆を寒からしめる思いがしました。
 ちなみに、院長は2017年11月に、ホロコーストの代表的な史跡であるポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪れており、現地の情景が生々しく思い出されるそうです。

弾薬の丘
 エルサレム旧市街を一望できるオリーブ山、そのほぼ真北にスコープス山と呼ばれる丘陵地帯があります(図199)。この山は、エルサレムの長い歴史の中で、ローマ帝国軍や十字軍などの外国軍がエルサレムを包囲する際に必ず占領される重要な拠点となってきました。

図199
 図199:エルサレムの全景(手前がオリーブ山)


 標高800メートルほどの小さな山ですが、山頂からはエルサレム市街が一望できる絶好の観測位置にあるからです。そのスコープス山から西に張り出した尾根の一部が弾薬の丘です(図200)。
 イスラエルが領土を一気に拡大するきっかけとなった第3次中東戦争の際、ヨルダン軍の要塞が築かれたこの弾薬の丘ではイスラエル軍との間で激しい戦闘が起こりました。

図200
 図200:弾薬の丘の記念館


エルサレムを巡る戦い
 イスラエル軍は、エルサレムを中心として、戦車を主力とした機甲部隊が北側から時計回りに進軍し(図201、202)、空挺部隊がエルサレム市街から東のオリーブ山方面へ、エルサレム防衛を受け持つ第14エルサレム旅団が南へ進軍しました。

図201
 図201:北側から迂回するイスラエルの機甲部隊

図202
 図202:イギリスのセンチュリオン戦車を改造したショット戦車


 対するヨルダン軍は、戦略上の要衝であるエルサレムの一帯のビルや拠点を鉄筋コンクリートで補強した防御拠点に造り変え、それらを塹壕でつないで周囲を鉄条網と地雷を敷設。鉄壁の防御網を作り上げていました(図203)。

図203
 図203:弾薬の丘の地図


 弾薬の丘には、イスラエルの空挺旅団隷下の一個大隊が攻略に向かいましたが、ヨルダン軍の決死の防戦にあい陣地のあちこちで兵士同士が肉薄する白兵戦が行われたそうです。戦闘は4時間以上に渡って続けられ、双方に大きなダメージを与えつつもイスラエル軍がオリーブ山を含む一帯を占領しました(図204)。

図204
 図204:オリーブ山からエルサレムを望むイスラエル軍


 そして、部隊を再編成した空挺部隊がエルサレム旧市街へと突入し、嘆きの壁を始めとする神殿エリア一帯を確保しました。ヨルダン軍は多くの犠牲を払ってヨルダン川の東側まで撤退し、6日間戦争とも呼ばれた第3次中東戦争が終結しました。

記念館で戦いを振り返る
 館内には、戦争当時の状況が時系列で紹介されており、白黒の動画や写真、説明資料などが展示されています(図205、206)。

図205
 図205:シナイ半島でエジプト軍と対峙するイスラエル機甲部隊

図206
 図206:弾薬の丘で戦死した兵士の名前


 様々な書籍や関係者の証言などとあわせて見みると、アラブ諸国側にも相互不信や国同士のパワーバランスなどが作用しており、イスラエルとの民族的な対立以外の背景も大きかったことが感じられました。
 弾薬の丘には戦争当時の塹壕などが今でも残されており、随所に弾痕が散見されるなど激しい戦いの傷跡が残されていました(図207、208)。
 館外には、実際に使用されていたのであろうイスラエル軍のM1スーパーシャーマン戦車(図209)やM5ハーフトラック(図210)が置かれており、子ども達の良い遊び道具になっていました。

図207
 図207:一人が通るのがやっとの塹壕

図208
 図208:トーチカの銃眼

図209
 図209:子ども達の遊び場と化したM1スーパーシャーマン

図210
 図210:ディーゼルエンジンに換装したM5ハーフトラック


 これらの車両はアメリカから中古車を輸入した物で、自国生産が厳しいイスラエルにとっては国防の要となる貴重な戦力でした。アメリカでは、発達した自動車産業の技術を応用して短時間で大量に軍用車両を作る技術がありました。イスラエルに供与されたM1スーパーシャーマン戦車も、金型に素材を流し込んで作る鋳造方式をとっているので大量生産が可能になっています。

 こうした戦跡には、イスラエル軍の若い兵士達の姿も見受けられました。自分たちの先人がどのような思いで戦い、散っていき、そして何を残したのか。忘れてはならない歴史として語り継がれているようでした(図211)。

図211
 図211:兵士たちの間を通る青柳(汗)


帰国前の腹ごしらえ
 弾薬の丘を後にした一行は、一度ホテルへと戻って早めの夕食を取りました(図212)。
 帰国便は夜中11時にベン・グリオン空港を飛び立ち、行きと同様に一度ソウルで乗り換えを行い、夜8時に成田空港に到着します。帰りの便では、私は非常口に接する最前列の席だったため、比較的自由に動きが取れたので大変助かりました。
 チケットを取ってくれた菅野秘書には大感謝です(ペコリ)。

図212
 図212:ホテルでの最後の食事


さいごに
 3部にわたって改めてご紹介したイスラエル訪問レポはいかがでしょうか?
 今回のイスラエル訪問にあたって現地との調整をお願いしたセリアさん、ご一緒した参加者の皆様、現地ガイドのエミコさん、そして貴重な機会を頂きました院長に心より感謝申し上げます。

 また、お付き合い頂きました読者の皆様にも重ねて御礼申し上げます。
 ぜひ、機会があればご自身の目と肌でイスラエルに触れてみて下さい。きっと新鮮な衝撃が、皆様をお出迎えしてくれると思います(図213)。

図213
 図213:旅中にお世話になった運転手のアワッドさん


関連記事
 以下、イスラエルに関するインターネット記事をご紹介します。

1.7歳の時にユダヤ人を殺すよう教えられた。亡命パレスチナ人が語るガザ地区の真実
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2.支援物資を巻き上げていたハマス幹部は肥満体が多い
 (加藤 健@JapanLobby|ツイッター)

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 (飯山陽 Dr.Akari IIYAMA@IiyamaAkari|ツイッター)

4.イスラエルの国連大使がハマスのガザ事務所の電話番号に「停戦を求めるならここに電話を!」
 (加藤 健@JapanLobby|ツイッター)

5.ハマスの巨大トンネルに日本の援助金が使われていた?
(門田隆将@KadotaRyusho|ツイッター)

6.日経新聞 11/9 朝刊より一部記事を抜粋。
「アヤロン氏の発言の中で特に重要だったのは、ネタニヤフ政権が、カタールからハマスに巨額の資金が流れるのを黙認したという点だ。そうやってハマスに力をつけさせ、ヨルダン川西岸地域にある自治政府主流派のファタハに対抗させた。そしてパレスチナ自治政府が分裂していることを口実に対話を拒否し続けてきたというのだ。英国守旧派やその影響下にあるイスラエル極右は、昔はPFLP などPLOPLO(パレスチナ解放機構)内の過激派を陰で敢えて応援し、好戦派を煽って来た。パレスチナが好戦的に出てくる以上、イスラエル側も和平提案は出来ず、戦わざるを得ない。こうして、戦争を継続し、イスラエル極右は領土を拡張しようとしてきた。

 英守旧派はハマスに資金を提供する、あるいはハマスへの資金提供を黙認する一方、イスラエル極右を煽動し、常に中東を騒乱状態においてきた。対立する両者を操り、中東情勢をコントロールするというのが、英守旧派の常套手段である。彼らは世界中で同じようなディバイド・アンド・ルール(分裂させて支配する)手法を用いている。旧植民地主義的な統治手段である。」

7.ナショナル・ユダヤvsグローバル・ユダヤの戦い
 以下、馬渕睦夫氏の書籍『馬渕睦夫が読み解く2024年世界の真実』より一部抜粋。

「今回のハマス奇襲はナショナル・ユダヤvsグローバル・ユダヤの戦いの一環と見ることができます。イスラエル政府内に反ネタニヤフ勢力が存在しており、何とかネタニヤフのガザ攻撃を遅らせている様子が窺えるのです。イスラエルはガザ地上侵攻を行う前に、かなりの時間的余裕を与えているのです。しかも、ガザ地区の南部を攻撃対象から外し、パレスティナ人に南部への避難を呼び掛けています。つまり、パレスティナ人を攻撃するのではなく、DSが育成し、ネタニヤフがアッバス議長を牽制するため利用してきたハマスに照準を定めています。この点に、今回の地上部隊によるガザ侵攻の真相がありそうです。ナショナル・ユダヤは将来のアッバス指導のパレスティナ国家との共存を視野に入れているのです。これこそ、ユダヤ人国家イスラエルの安全保障の強化そのものです。その際のイスラエル国家の指導者はセム族のユダヤ人であることが想定されます。アラブ人と義兄弟であるセム族のユダヤ人です。

 これに対し、グローバル・ユダヤはイスラエルの安全よりも、世界戦争戦略に重きを置いていました。イスラエルを世界戦争の駒として利用するという戦略だったと言えます。

 彼らのこの方式も、ウクライナ戦争敗北で通用しなくなりました。プーチン大統領はネタニヤフ首相のパレスチナ人への態度を批判しており、仲介の用意がある旨宣言しています。トランプ大統領がネタニヤフ首相のスレイマニ暗殺作戦に反対したとの故事を今このタイミングで持ち出したことは、ネタニヤフ退陣を求める圧力とも考えられます。ネタニヤフ首相がグローバル・ユダヤに軸足を置いている限り、イスラエル国家の安全は不十分なのです。

 以上のように、いま世界はグローバル・ユダヤのDSから距離を置きつつあります。グローバリズムではなくナショナリズムの時代が到来したのです。岸田総理も、早くこの現実に気づいてほしいものです。そうでなければ、バイデン・グローバル・ユダヤ政権とともに沈むことになるでしょう。」

図214

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