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2024年3月 No.349

インド大使館を表敬訪問しました

院長 三好 彰

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図1 左:秋葉代議士、中:シビ・ジョージ駐日大使、右:私
(インド大使館屋上にて。背景は千鳥ヶ淵)


 私が後援会長を務める衆議院議員 秋葉賢也 代議士とともに、駐日インド大使館(東京)を表敬訪問しました(図1)。
 なぜいきなりインド……と思われるでしょうが、そのきっかけはとあるインド料理のレストランから始まります。

独立運動とインド料理
 私が初めてそのお店を訪れたのは1974年の事です。それから半世紀通い続けたのですが……。
 日本初のインド料理専門店として1949年、東京銀座に開業したナイルレストランはインド独立運動家として名を馳せたA・M・ナイルさんが創業したお店です(図2~4)。

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 図2

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 図3 銀座にあるナイルレストラン

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 図4 大人気のムルギーランチ。


 その昔イギリスの植民地下にあった祖国インドの状況を憂い、高校在学中からインド独立運動やカースト差別批判運動に参加したことで、イギリス当局から要注意人物として監視されてしまいます。
 その後、日本の北海道帝国大学に留学していた5歳年上の兄の勧めで、1928年に京都帝国大学工学部に留学し、インド独立運動家であるラス・ビハリ・ボース氏(中村屋のカレーとして有名)を訪ね、インド独立運動家として活動していきます。

 1941年、日米開戦の後、日本軍がイギリス領マレー半島への攻撃(マレー作戦)を契機として、ナイルさんはビハリ・ボース氏を総裁とするインド独立連盟を結成し、事務総長として八面六臂の活躍をされました。
 しかし、1945年に日本が敗戦を迎えると、進駐してきた連合国(特にイギリス)による逮捕を免れるため奥様の実家(茨城県)へ身を隠します。

 1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)のために来日したインド代表判事のラダ・ビノード・パール氏の通訳を務められ、情報提供に尽力されました(図5)。

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 図5


 ちなみにパール判事とは、1946年~1948年にかけて実施された日本の戦争責任を問う極東国際軍事裁判(以下、東京裁判)において、被告人の全員無罪を主張したことで有名な人物です。

 なぜ、そのような主張をしたのか。

 それは、日本の戦争責任を問うための法令が戦争以前から定められていなかったことにあります。

 そもそも犯罪行為に対する刑罰を判断する場合、予め明確に規定しておかなければならないという罪刑法定主義の原則があります。
 東京裁判を実際するにあたり、連合国はドイツ降伏後に調印した国際軍事裁判所憲章を参照し、新たに極東国際軍事裁判所条例を定めました。これは犯罪を罰するための法令が戦争終結後に作られたという「法の不遡及」(その法令の効力は、法令施行前には適応されないという理念)に反することになります。
 パール判事は、東京裁判が戦勝国の都合による一方的な押し付けではなく、法の理念に基づいた判断をすべきだとのパール判決書を提出します(日本に戦争責任がないということではない)。

閑話休題

 そして、ついに1947年8月にインドがイギリスからの独立を果たします。
 念願を果たしたナイルさんは無事インド国籍を取得。その後も日本に在住され、1949年にナイルレストランを開業されました。

 私はナイルさんの活動の一端を、そのご著書『知られざるインド独立闘争~A.M.ナイル回想録』(図6)などを読み、インドに対する興味を1974年から50年間抱き続けてきました。
 そうした経緯もあって、今回秋葉代議士のご尽力のおかげでインド大使館を訪問することになりました。

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 図6


 加えて、私は2024年5月に初めてインドを訪れる予定です。
 ぜひ次はお土産話を片手にふたたびインド大使館を訪れ、大使とナイルレストランを訪問するなど日印交流の促進に尽力したいと思っています。

日本最古のインド料理専門店<ナイルレストラン>
 https://www.ginza-nair.com/(公式) 

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