3443通信 No.360
訪れた人たち
~武永 真さま(仙台藩白老元陣屋資料館 館長)~
~友の会の皆さま~

3443通信 No.316でもご紹介した、北海道白老町から武永 真さまと友の会の皆さまが来院されました。
私の北海道白老町や中国などでのアレルギー疫学調査については、エッセイ『アレルギー疫学調査の思い出』(3443通信 No.347)をご覧下さい。
今回、武永さま一行は、院長のご先祖・三好監物の生家である岩手県藤沢町黄海を訪れて三好監物の墓をお参りして、そこから仙台にまで足をお運び頂きました。遠く北海道からわざわざお越し頂きまして誠にありがとうございました。
白老町は美味しい海産物や畜産物でも有名で、美しい自然の中にある静かな町です(図2~3)。
ぜひ読者の方は、一度、白老町を訪れてみて下さい!

しらおいポロトコタンの光景(2009年8月号掲載)
白老町にあるアイヌ民族博物館のポロト湖です。
2020年7月、本施設は国立博物館として施設全般がリニューアルされ、博物館棟や、民族共生公園や慰霊施設などが改修されました。
毎年、院長が実施していた白老町の学校健診で訪れる予定でしたが、コロナ渦で健診が中止となり、いまだ再訪が叶っていません。

今にもコロポックルが顔を出しそうな白老ポロトコタン(2020年9月号掲載)
前述のアイヌ民族博物館前に広がるポロト湖の写真です。
ちなみにポロトコタンとはアイヌ語の単語を合わせた言葉で、ポロトは「大きな沼」、コタンは「集落」を意味しています。つまり「大きな沼の集落」です。
またコロポックルとはアイヌ伝承にある小人を指し、北海道や南千島、樺太に広く流布されているそうです。

英国のガーデニング? 実は白老町の一光景です(2016年8月号掲載)
一見、優雅な英国風庭園を思わせる雰囲気ですが、実はここは白老町にある焼肉屋さん「牛の里」の裏庭です。学校健診で白老町を訪れていた際には、ほぼ必ず足を運んだお店で、同町のブランド牛である「白老牛」の美味しさに何度も舌鼓を打ってしまいました。
幕末を生きた偉人
そして、今回改めて触れておきたいのが、三好監物と同時期に幕末の志士として活躍した松浦武四郎(図5)という人物についてです。

図5 松浦武四郎
松浦武四郎は、いまの北海道という名称の名付け親として歴史に名を刻んだ人物で、生涯の中で計6回に渡る蝦夷地調査を実施した探検家でもあります。
実はこの松浦武四郎と三好監物には深い関わり合いがあります。
1857年(安政4年)、武四郎は白老に赴任した直後の監物の元を訪れ、監物と夜を通して共に語らったと言われています。
後年、武四郎は自身の著『東蝦夷日誌』にて、厳しい蝦夷地警備にあたる監物の決意と君主繁栄を祈願した短歌「宮柱 太しく建てて 祈りける 照日のおかに 君が八千代を」を紹介しています。
北海道の名付け親である松浦武四郎。
蝦夷地警備に尽力した三好監物。
この二人の存在なくして、北海道史を語ることはできません。
そこで私は、3443通信No.359に伊勢神宮を訪れたレポート(https://www.3443.or.jp/news/?c=18981) をご紹介しましたが、実はその旅の折、三重県松阪市にある松浦武四郎記念館を訪問して来ました。
ここでは松浦武四郎について、ご紹介させて頂きます。
松浦武四郎とは、幕末から明治維新にかけて日本史においても激動の時代に生きた人物です。
伊勢の国(現在の三重県松阪市)に生まれた武四郎は、蝦夷の詳細な地図を作成したと同時にアイヌ文化を世間に周知するよう働きかけた人物でもあります。
恐らく、伊能忠敬(いのうただたか)や間宮林蔵(まみやりんぞう)といった名前はよく目にする事かと思いますが、武四郎はこれらの人物の後輩にあたり、伊能らとは逆に蝦夷地の内陸部を地図に書き記しました。
とは言っても、あの広大な蝦夷地の内陸を隅から隅へと渡り歩き地理・地形・環境を記録するという大事業は、到底一人では為し得なかったことは想像に難しくありません。
当時、蝦夷地には先住民族であるアイヌの人々が住んでおり、武四郎はアイヌ人の現地ガイドと供に六度に渡る調査を行ったと文献に記されています。その折、現地の人々の生活に触れ、文化を学び、後に和歌や挿絵を織り交ぜた『東西蝦夷山川地理取調紀行(とうざいえぞさんせんちりとりしらべきこう)』(図6)という書物を、庶民向けの出版物として発行して好評を得ていたそうです。

図6 東西蝦夷山川地理取調紀行
しかし、なぜ武四郎は未開の地と言ってよい蝦夷地へ足を向けたのでしょうか。
それは武四郎の幼少期にまでお話は遡ります。
幼少期、病気を患った武四郎は、お坊さんのお祈りで病が治った事がきっかけでお坊さんに憧れを抱きます。
それがきっかけとなり、七歳の頃に近くの曹洞宗の寺小屋に通い、そこで読み書きや『名所図会(めいしょずえ)』という在の観光地ガイドブックとも言える書物を愛読し、見知らぬ土地への興味を持ったそうです。
当時、松浦家は伊勢神宮へと続く伊勢街道沿いに位置しており、参拝者や旅人で往来はにぎわいをみせていました。そんな中、全国より500万人(当時の日本の全人口は約3,000万人)もの人が伊勢神宮にお参りする『文政のおかげ参り』により、様々な土地の話や名所旧跡の話題に触れたことで、武四郎の旅心に深く印象を与えました。
その後、武四郎は学問を身につけるため塾に入り三年間勉学に勤しみます。そして16歳を迎える年になると、突如江戸へと向かったのです。
家出同然のように江戸へと向かった松武四郎は、自立のため就職活動をします。しかし身元もはっきりしない人を雇うところはなく、なかなか勤め先は見つかりませんでした。
そして最後に頼った先が、武四郎が親しくしている人の親戚がいる屋敷だったため、実家に所在がばれてしまい故郷に帰らざるをえなくなります。
こうして武四郎の初めての旅は、終わりを迎えました。
しかし、武四郎にとってこの旅は、更なる旅路へ向かわせる大きな要因となりました。
17歳になり、武四郎は本格的に全国を巡る旅に出ることになります。
そして28歳になるまで北海道と沖縄以外の日本列島を歩き回り、果ては朝鮮半島にまで足を伸ばそうとしますが、当時幕府は鎖国体制をとっており外国へ渡る事は制限されていたので実現はしませんでした。
しかし日本国内といえども、旅中では様々な苦難がふりかかってきました。
江戸に居たころに覚えた『篆刻(てんこく)』という石板を削ったハンコ作りの技で路銀を稼ぐも、そのお金を盗賊に奪われ生死の境をさまよう病にかかるなど、七難八苦の旅であったと言われています。
そんな折、長崎で看病をしてくれたお坊さんに出家を勧められ、長崎県北部の平戸でお寺の住職になります。この時の人々との交流が、松浦氏の人生に大きな転換期を生み出すことになりました。
鎖国体制の中、長崎の出島ではオランダ・中国の貿易船が入港しており、さまざまな海外の情報を見聞きすることができました。
そこで武四郎は衝撃的な話を耳にします。
すでにその頃、東南アジアのほとんどはヨーロッパ諸国の支配下にあり、日本へも開国を求めて幾度も通告がなされていました。とくに日本近海ではロシア船がたびたび南下してきており、蝦夷地の防備を強化する必要に迫られていました。
しかし誰に話を聞いても、蝦夷地を詳しく知る人はいませんでした。もしロシアが蝦夷地を占領すると、津軽海峡を越えるだけで本州に上陸することが出来ます。
そんな危機的な状況が、松浦氏を一転北に向けさせる、大きな要因であったのではないかと思われています。
弘化2年 (1845年)、武四郎は28歳の年に初めて蝦夷地探査を行ないます。
専門的な測量器具などもたず、距離は歩測で、方角は海中羅針盤(コンパス)で、情報は『野帳(のちょう)』と呼ばれる小さなメモ用紙に非常に細かく情報を記載しました。足りない部分はアイヌの人々の話を基に補足していました。
後に、地図帳としてまとめた時に協力してくれた人の名前が200名以上書き込まれていたそうです。
武四郎はその後18年間で計6回の蝦夷地調査を行ない、そのうち最初の3回は個人として、後半3回は幕府の役人として現地に渡っています。
同時期に院長の5代前のご先祖である三好監物氏も、仙台藩士を引き連れて北方警備の任務に就いていました。監物は白老町に元陣屋(本陣)を構えましたが、それが現在の白老町の始まりとされています。
監物ら仙台藩の守備範囲は、他の東北諸藩とは比べ物にならないほど広範囲(図7)に及び、非常に重要な役目であったことが分かります。

図7
武四郎の蝦夷地調査に尽力したアイヌの人々ですが、その当時アイヌ人たちは幕府から迫害の対象とされていたためにアイヌ文化の喪失が懸念されていました。
そんな窮状を見てとった武四郎はアイヌ文化をなんとか残さなければならないと考え、幕府に対して当時の蝦夷地を支配していた松前藩や商人の所業を訴えました。
それは武四郎にとっても非常に危険な事でもありました。利権を独占していた松前藩や一部の商人により命を狙われる事になりかねないためです。実際、自宅で執筆中に命を狙われたこともあり、馬屋に机を置いて作業を続けたと言われています。
それほどまでに、武四郎にとってのアイヌは、他人事では済ませなくなるほど深い親交を抱くようになっていたと推測出来ます。
明治維新の後、武四郎は蝦夷地という呼び名を変えるため、『北加伊道』(加伊はアイヌの人々を指す)を含む6つの改名案を幕府に提出します。
結果はご承知の通り、蝦夷地は“北海道”として名を改めることになりました。
武四郎は、絵を盛り込んだ書物で北海道の状況を大衆に判りやすく訴え続けました。
晩年も全国各地を歩いて回り旅行記の出版を手掛けた武四郎は、近畿の屋根と評される大台ケ原の探査において、その心境を和歌に遺しています。
「優婆塞(うばそく)もひじりもいまだに分け入らぬ、深山(みやま)の奥に我は来にけり」
この句にある“優婆塞(うばそく)”とは飛鳥時代の呪術者である役小角(えんのおづぬ)を指し、“ひじり”は弘法大師を指していると思われます。武四郎は、その両氏すら訪れた事のない深い山の奥に私は来たのだと詠んでいます。
武四郎は71歳でこの世を去りますが、その直前にも大台ケ原の調査準備を続けていたと言われており、まさに生涯を旅に費やした人生だったと言えます。
この武四郎に関する記念碑が、北海道に50箇所以上も建てられており、故郷の三重県松阪市では子孫の方が松浦氏の生家を記念館として運営されていますが、今回私が訪れたのがまさにその記念館です(図8)。

図8
館内には、武四郎が手書きで残した地図や、蝦夷地やアイヌへの理解を深めようと作成した大衆向けの絵書物などが残されています(図9~12)。

図9 武四郎の旅の足跡

図10 武四郎直筆の絵

図11 同上

図12 大衆向けに発行した絵書物
松阪と言えば……
最後に、松阪ならではのグルメをご紹介します。
地名から「あっ」と思われた方もいるとは思いますが、そう、松阪と言えば松阪牛(まつさかうし)ですね。
約30年ぶりにお邪魔したのは、松阪市でも老舗のすき焼き料理を提供されている『和田金(わだきん)』(図13)です。当時は木造の店舗でした。

図13 和田金の前で
その調理には、わざわざ炭(断面が菊を思わせる樫類を用いた菊炭)を用いられており、南部鉄の鉄鍋で作る砂糖とたまり醤油で焼く本来のすき焼きはまさに絶品です(図14、15)。

図14

図15
自社牧場から直送される牛肉は冷凍処理はされず、そのため厚めにスライスされたお肉は食べ応え十分。それでいてひとたび舌の上に乗ったお肉は、まるで雪のようにサラリと溶けていきます。
読者の皆さんも、かつて国を思って人生をかけた先人たちの軌跡を学び、彼らが築いた明治という時代に暖簾を開いた和田金のすき焼きを食べて、明日を生きる活力にしていきましょう。