3443通信 No.364
【追悼】田中英道教授
日本人とユダヤ人との不思議な繋がり
院長 三好 彰


図1 田中教授とご著書
この度、私にとって東北大学の先輩である美術史家の田中英道氏(東北大学名誉教授)が2025年4月30日に逝去されました。
田中教授は、そのご著書『日本神話と同化ユダヤ人』(図1)や『発見!ユダヤ人埴輪の謎を解く』、またユーチューブ番組である『日本から見たサピエンス全史』などを通じて、古来よりユダヤ人が日本に渡来していたという説を唱えておられた偉大な研究者です。
ユダヤ人と日本人。
それぞれが一万キロ以上も離れた別の国に暮らす二つの民族が、どのような関係性にあったのか。今回は追悼を込めて、田中教授のお話をお伝えさせて頂きます。
古代史で読み解く日本人のルーツ
この講義は、私が愛読しているネット講義『NEW HISTORY』で紹介されたお話です。
田中教授はまず、それまでの日本文明がたんなる『中国や朝鮮半島といった大陸由来の文化を取り入れただけ』という視点から、研究が進んだ現代ではそうした考えは全くの間違いであると仰っています。
世界8大文明の一つである日本文明
これまでの研究から、日本人は中国人や朝鮮人とは違うDNAを持っていることが分かっています。
人類の発祥は南西アフリカにあるという定説がありますが、そこから人類は自らの足を使って何世代にもわたって大陸を辿り、海を越えて、ヨーロッパやアジア全域そして南北アメリカへと広がっていきました(図2)。

図2 人類の軌跡
ちなみにこの時、中国辺りに人類が進出したのは約3万年前と言われていますが、実は日本にはさらに時代を遡って4万年ほど前に人類が住んでいたことが証明されています。
その根拠として、群馬で発見された旧石器時代の遺物があります。
もしも大陸から人類が渡って来たとすれば、まず最初に上陸するのは九州や関西以西になる可能性が当然高くなります。
ですが、最初に見つかった旧石器の多くが東日本の群馬から出土したという事実や、縄文遺跡の分布率を調べた枝村俊郎氏(元神戸大学工学部・教授)の『縄文遺跡の立地性向』では、関東から東北にかけて遺跡が密集(図3)していることが分かっており、4万年前には日本に石器を使う人類が到達していたことを示唆しています。

図3 縄文遺跡の分布
神話から見る民族性
そうした考古学的な事実と併せて、田中教授は日本神話との関連性を説いておられます。
これまで日本神話と考古学とは全く異なる分野の学問として研究されてきましたが、田中教授はご自身の著書『高天原は関東にあった』『本当はすごい! 東京の歴史』『日本の機嫌は日高見国にあった』に詳しいように、日本神話と考古学を結合することで見えてくる新たな解釈ができるとお話しされています。
まず、西洋と日本の地理的な環境が根底にあるのではと考えておられます。
先に述べたように人類は、アフリカを発祥として自らの足で移動しながら世界各地に渡って行きましたが、西洋ではたとえ国が出来たとしても他民族からの度重なる侵略や、民族そのものが大移動するなどして一つの民族が定住することが少ないことが挙げられます。
例えば、フランスにはもともとケルト民族がいましたが、それ以前には最初のホモ・サピエンスと言われる人たちや、観光名所ともなっているアルタミラやラスコーの洞窟壁画を描いた人たちなど、これらは全て違う民族によって作られたことからも、様々な民族が入れ替わるように住んでいたことが窺えます。
比較して日本をみると、移住してきた民族は日本各地に移動はするものの海に囲まれた列島という隔絶した環境のためか、他民族による侵略を受けにくい立地条件にあったことで民族の大規模な移動はなされず、長年に渡って一つの土地に定住するということが可能であったと考えられます。
さらに人類が生活するためには食料などの物資との関りが必要不可欠ですが、これまでは気候変動などの物理的もしくは環境的な理由によって定住地を変えるというのが、ごく当たり前の考え方でした。
ですが田中教授は、さらに踏み込んで当時の人たちにも精神的・観念的な理由が行動原理にあったのではとお話されています。
例えば、エジプト文明では太陽神ラーを崇めていますし、そこから遠く離れた南米のマチュ・ピチュにも、太陽信仰が見られるなどの共通点が見受けられます。
それは太陽という人の手の及ばない存在を神格化するという、人間の精神性の表れではないかと考えられています。
そして、その神(太陽)が地上に表れるのは、常に日が昇る東の方角です。
アフリカを発祥とした人類が、徐々に東の方へ移動を繰り返して南米に行きついた理由も、そうした太陽信仰がひとつにあったのではないかと推察されています。
国を求めたユダヤ人
さて、ここまでは人類の発祥と世界拡散の経緯についてご紹介しました。
その長いながい歴史の中で、とくにユダヤ民族はいくつもの離散集合を繰り返した民族でもありました。
まず、エジプトで奴隷となっていたユダヤ人たちは、モーセの導きによってパレスチナへと帰還するための大脱出を行ないます。これは映画『十戒』なのでも語られる有名なお話ですね。
エジプトを脱出したユダヤ人たちは、アフリカ大陸とユーラシア大陸の接合点であるシナイ半島へと至り、そこでユダヤ人たちの国家であるイスラエル王国を建国します。
しかし、その後も有力なアッシリアやバビロン帝国、ローマ帝国の侵略を受けたユダヤ人たちは、始まりの12氏族のうち10氏族が離散してしまい、その行方は現在でも分からなくなってしまいます。
こうして国の興亡を繰り返したユダヤ人たちは交易路を辿りながら、安住の地を求めて世界各地に散っていきます。
日本を目指したユダヤ人
世界中に散っていくなかで、ユダヤ人たちはこれまで述べた太陽の出ずる方角(東)を目指してではなく、明確な意思を持って日本を目指したことが『旧約聖書』から読み取れます。
『申命記』の28章64節には、ユダヤ人たちが散っていく様が「主は地の果てから果てまでの全ての国々の民の中に、あなたを散らす」と書かれています。
さらに「あなたはその所で、あなたもあなたの先祖も知らなかった木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう」とあるそうです。
木や石の神々。これはまさに日本古来から伝わる自然信仰を指す言葉ではないかと、田中教授は説明しておられます。日本はユーラシア大陸の東の端(極東)にあり、まさに『地の果て』と言われてもおかしくはありません。
旧約聖書のある時代から、大陸の東の果てに自然信仰する国があると知られていたことが伺い知れます。
また最近では、日本人とユダヤ人がDNAの類似点があることも知られており、これまでの宗教的な観点から見た日ユ同祖論とは違い、歴史的・科学的な意味合いからも日本人とユダヤ人の似ていることが分かってきています。
埴輪が語るユダヤ人渡来説
実は『日本書紀』にこんな記述があります。
シルクロード沿いの現在でいうウイグル自治区に、イスラエルの祖先たちが居住した弓月(ヤマトゥ)という国(図4)があり、そこに住む人たちが日本にやって来たと書かれています。

図4 弓月国の位置
時代は414年頃、第15代応神天皇のもとに弓月国から“来日”の連絡を受けるも、新羅の国(朝鮮)の妨害を受けたため、天皇は精兵を新羅に派遣し、約1万8000人の弓月国の人々が日本にやって来るのを支援したと記録されています。
その人々に第16代仁徳天皇は“波多(秦)”という姓を与え、また第21代雄略天皇は今日との太秦(うずまさ)に土地を与えたと言われています(図5)。

図5 京都の太秦
しかし、それ以前にもユダヤ人が渡来したという証拠を田中教授は発見されました。
千葉県芝山古墳群から出土した埴輪の造形が、まるで超正統派ユダヤ教徒のような姿をしていたのです。
特徴的なつばの広い帽子と、頭の脇から伸びた揉み上げ(角髪|みずら)。
武具を模した形の埴輪とは明らかに違うその姿は、素人目から見てもユダヤ人の礼装に見えてきます(図6、7)。

図6 不思議な造形の埴輪

図7 多賀城市の山王遺跡から出土した埴輪にも”みずら”のような形が見受けられます。
神話の英雄はユダヤ人だった?
日本でも最も古い文献である『古事記』や『日本書紀』には、島根県の出雲地方を舞台にした物語である『出雲神話』が記されています。
有名なエピソードである須佐之男命(スサノオノミコト)が、八つの頭と尾を持つ八岐大蛇を討伐した話が有名ですが、この出雲神話は単なる英雄物語ではなく神々の行動や性格、そして当時の人々の価値観や文化なども語られている貴重な資料です。
その元となるのは、代々口伝で残された出雲口伝とよばれるもので、出雲大社(図8~10)を中心とした地域で伝えられてきたお話です。
このスサノオが実は、渡来してきたユダヤ人だったのではないかと田中教授はお話しされています。

図8 出雲大社

図9

図10
旧約聖書にイザヤ書と呼ばれる三大予言書の一つがあります。
その著者であるイザヤという人物は、紀元前700年ごろの二つに分かれたイスラエルの国家の一つである南ユダ王国で活躍した予言者で、彼の書物は詩の形式で書かれており、後の新約聖書にもその言葉が多く引用されています。
そして、このイザヤ書と出雲神話には、様々な類似点があるのだそうです。
名前に隠された真実
例えば、スサノオが岩戸に隠れるアマテラスと対立することや、海原を治め(スサノオの神格を表わす表現)て民衆を救済する逸話がありますが、イザヤ書においても神が”妨げの岩“となって尊顔を隠してしまう(8章14節、17節)ことや、暗闇におののく民衆が”海沿いの道“”海に至る道“を啓示され、光を見いだす(9章1節)という似た流れがあります。
他にも、夫婦神として知られるイザナギ・イザナミの名前も、イザナギをヘブライ語で発音すると「イザヤ王子」「君主イザヤ」と解釈ができるなど、そこかしこに同一もしくは類似する箇所が散見されるのだそうです。
この仮説の裏付けとなるのが、スサノオという名前そのものにあると言います。
まず、名前を漢字にすると建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)となりますが、他の文献では“素戔男尊”や“神須佐能袁命”など様々な表記が見られます。これは、その当時には存在しなかった名前(発音)に、後から漢字を当てていったのではないかと考えられているそうです。驚きですね。
文化に溶け込むユダヤ人
それに、日本の伝統芸能である“能”にも、ユダヤ人との歴史的な繋がりを示す要素が見受けられると田中教授は言います。
日本に能を伝えたのは、雅楽・能楽の祖と呼ばれる秦河勝(はた かわかつ)という人物で、彼は前述した2~3世紀頃に中央アジアの弓月国から日本にやって来た2万人のユダヤ系渡来人の後裔と言われており、聖徳太子のいた時代に活躍しています。
彼らのような渡来人たちはヨーロッパの進んだ技術を受け継いでいますので、建築技術や新しい文化の伝承といった功績を残すことで、日本の地に溶け込むための様々な努力がなされていました。
時の朝廷は、こうした異国伝来の技術を治世に取り込もうとして渡来人に建築や法律、経済といった国の運営に関わる仕事に従事させたようです。
ですが、聖徳太子は少し違ったようです。
聖徳太子は彼らに文化面での活躍を期待していました。
当時の日本にはない貴重な文化・芸術のノウハウを取り入れることは、建物などのハードのみに留まらず、人としての成長・発展をもたらすことが国を豊かにするというソフト面をより重要視していたのではないでしょうか
そうした文化継承をしていく中で、埴輪や能面などに彼らの身体的特徴などが取り入れられていてもおかしくはありません。
能の元祖として知られる世阿弥(ぜあみ)も自らの先祖を秦河勝であると話しており、彼の用いた伎楽の面(ぎがくのめん)である蘭陵王の面などは鼻が高く、日本人ではない風貌の人物を模しているようにも見えます。
そう言えば、彫りの深い渡来人のことを天狗や鬼と揶揄していた時代もありましたし、こうした古くから伝わる伝統芸能の世界にも、厳しい情勢の中でも生き抜いてきたユダヤ人のような渡来人たちの軌跡が、私たちの日常にひっそりと残されているのかも知れません。
このように簡単には言い尽くせませんが、こうした様々な視点から日本人とユダヤ人の関連性を考えるのも歴史の面白さではないかと思います。
ご興味のある方は、田中教授のチャンネルや書籍を手に取って頂いて、自分たちのルーツに想いを馳せてみはいかがでしょうか?
田中英道教授のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
(引用:田中英道『NEW HISTORY~日本とユダヤの関係図~』より)
関連動画
田中英道のNEW HISTORY(ユーチューブ)