3443通信 No.366
江戸東京博物館展 in 多賀城
院長 三好 彰
はじめに
ゴールデンウィーク明けの2025年5月30日(木)、多賀城にある東北歴史博物館にて『江戸東京博物館展』が開催されました。この催しは、東京の両国国技館に隣接する江戸東京博物館に展示されている江戸・東京文化を広く紹介するために、宮城県・愛知県・静岡県の3つの臨時会場で開催されました。
宮城県の会場となったのは、多賀城市にある東北歴史博物館(図1)です。

図1 東北歴史博物館の外観
本館である江戸東京博物館は、2022年からリニューアル工事が行われており、その休館期間を利用して企画されました。同館では主に江戸時代を6つのテーマに分け、それぞれのテーマを表わした展示がされています。
プロローグ:戦国時代の終焉による平和の時代の到来
江戸時代の始まりである徳川家康を中心とした将軍家や江戸城について解説しています。
【江戸幕府の始まり】
江戸幕府を開府した徳川家康の坐像(図2)、二代将軍秀忠の肖像画(図3)、江戸時代前期に描かれた日光東照社参詣図屏風(図4)などが展示されています。

図2 江戸幕府初代将軍となった徳川家康の坐像

図3 二代将軍 徳川秀忠の肖像画

図4 江戸時代前期に作られた日光東照社参詣図屏風
テーマ①:江戸の町づくり
日ノ本の中心が関西から関東に移る時を迎え、増加する人口を抱えた江戸の水道・消防事情について解説しています。
【世界最優の上下水道】
江戸の町は、その当時の西洋の都市と比べても画期的に衛生面に優れた町でした。屎尿(しにょう)や便はすべて汲み取りとなっており、幕府がそれらを買い取り農業用肥料に転用していましたし、生活排水もこの頃はまだ量もそれほど多くはなかったため、河川に流入したとしても汚染はそこまでひどくはなかったと言われています。
ちなみに中世ヨーロッパのロンドンやパリといった大都市ですら、下水道が設置されたのはなんと19世紀に入ってからのことです。それまでは各家庭で出た屎尿などはすべて家の外に放り捨てられるといった形で投棄され、町中がなんともいえない腐臭にまみれていたという逸話も残されています(図5)。

図5 井上 栄 著『文明とアレルギー病』より
飲用水に関しても、多摩川や神田川から取水した水(図6)を木や石製の水道管(木樋・石樋|図7)によって江戸市中の各所にある上水井戸へと運ばれ、住民はその井戸から飲料水を汲み取っていました。

図6 江戸の上水道菅の分布図

図7 耐水性のある松やヒノキで作られた木製の水道管
【火事と防火対策】
しかし江戸は、火事の町と揶揄されるほどに火災の多い都市でした。「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残されているように、木造に茅葺屋根が殆どだった江戸の町は幕府のあった約260年余りの間に49回もの大火が発生したと言われています(図8)。
ちなみに同じ期間中に京都は9回、大阪6回、金沢3回という発生件数からもその多さが分かります。

図8 明暦の大火発生時の状況
その火事の様子は、明暦の大火(1657年)を記録した江戸火事図巻(図9)にも描かれています。そこでは、次々と延焼していく建物とそれを押しとどめようとする火消しの奮闘する光景が見て取れます。
この火消しという役職は、開府初期はまず武士による武士火消が組織されていましたが、やがて江戸時代中期になると町人を中心とした町火消が制度・組織化されました。

図9 明暦の大火の様子を描いた江戸火事図巻
しかし、明暦の大火(1657年)では従来の方法で延焼を防ぐことが出来ず、市中で約68000人もの犠牲者を出してしまいます。それ以降、幕府は消防制度の見直し(図10、11)をはかり、炎症を防ぐための火除地(広場)の整備や燃えにくい瓦屋根や土蔵造りという耐火構造の建築を奨励していきます。
また、ポンプ車の前身ともいえる龍吐水(りゅうどすい|図12)を開発するなどの積極的な防火対策を取り入れていました。
それらを操る火消(図13、14)は住民の注目の的でもあり、町を救うヒーロー的な存在として認識されていたそうです

図10 町火消の配置図

図11 町火消の配置を描いた絵

図12 消火用の木製ポンプ

図13 町のヒーローであった火消

図14 大名行列のような火消の出動光景
テーマ②:町の暮らし
天下統一されたことにより、庶民の生活にも彩りが求められるようになりました。長屋での衣食住や、治安維持を担う江戸奉行などの江戸の暮らしぶりについて解説しています。
【町の治世】
戦国時代が終焉となり天下泰平の世を迎えましたが、それまで以上に町で暮らすための治世が求められるようになりました。住民が安心して暮らすための治安維持や司法の制定、滞りない行政の実施などを行なうべく、江戸には町奉行と呼ばれる組織がありました。
江戸の奉行所は、北町奉行と南町奉行の2つがあり、北町奉行は現在のJR東京駅の八重洲口北側にあり、南町奉行はJR有楽町駅前に設置されていました。
いまは放送終了となってしまいましたが、人気を博したテレビ時代劇の『遠山の金さん』こと遠山金四郎(遠山景本)が就いていた役職がこの町奉行です。
奉行所の役目は多岐に渡り、図15のとおり警察や裁判所といった一通りの統括機能を兼ね備えていました。また、町自体も画一的な区画整理がなされています。各区画は長方形のマス目状に区切られており、周囲を商店が囲ってその内部に長屋と呼ばれる住民の居住エリアが設けられました。それらをひとつの“町”と呼び、町ごとに上水井戸やごみ溜めが設置されていました(図16)。

図15 江戸の統括組織であった町奉行

図16 江戸の基本的な区画構造
【食生活の変化】
町民の食生活も変化し、江戸の初期までは朝・夕の1日2食だった食事が、江戸中期になると朝・昼・夕の1日3食の現在と同じ形態へと変わっていきました。しかし、食事内容はあまり変わらず「一汁一菜(いちじゅういっさい)」と言われるご飯と味噌汁と漬物がベースとなっており、たまにもう1品が追加される程度の物だったそうです(図17)。

図17 江戸の一般的な食事内容(メザシがついた豪華版)
余談ですが、精米技術が発展した江戸時代には庶民に白米食が普及するようになりましたが、その精米する過程でビタミンB1が失われてしまい、江戸では慢性的なビタミン不足から来る脚気(かっけ)が流行したことがありました。
この脚気の被害は近代まで続き、日露戦争中の陸軍の戦死者4万7千名の内、約6割にあたる2万8千人が脚気で死亡したとの報告もあります。陸軍における脚気患者は25万人ほどにものぼり、その重大さが理解できるかと思います。
ちなみに海軍は洋食(吉村昭著『白い航跡』)だったため、脚気患者はほぼいなかったと言われています。食事は本当に大事ですね。
食事内容こそ質素であった江戸ですが、こと行事になると熱の入れようが変わります。
江戸の年中行事は非常に多く、様々な行事が住民の日常を活性化させるお祭り騒ぎとなって催されていました(図18、19)。なかには相撲番付にちなんで、巷の些細な出来事さえも番付にした書き物が人気を得ていたようで、図20のように庶民の食卓にのぼる献立を番付化した瓦版です。これを読んだ家族の賑わう姿がなんとなく想像できますね。

図18 江戸の年中行事をまとめた一覧

図19 江戸に住む人々の一年

図20 庶民の楽しみであった瓦版
また、江戸は祭りの町としても有名でした。
現代まで続く神田祭、山王祭、深川八幡祭りは、江戸の三大祭りとして庶民の生活に根付いていますが、そうしたお祭りの様子は浮世絵として描かれており、当時の賑わいの一端が感じることができます(図21、22)。

図21 見物客でにぎわう屋形船

図22 後ろの灯りが透けて見える錦絵
テーマ③:江戸の経済
それまで大名が独自に作っていた貨幣が統一され、全国的な商取引制度が始まりました。人口100万都市となった江戸の経済活動について解説しています。
【統一貨幣の誕生】
経済活動の始まりは、古代に行われた物々交換にあります。
それが徐々に米や布、塩などが貨幣替わりに用いられるようになり、飛鳥時代に中国の開元通宝をモデルにした富本銭という貨幣が作られました。安土・桃山時代になると金・銀の採掘技術が発達したことで金貨や銀貨が作られるようになり、豊臣秀吉の治世では平たい楕円状の大判が作られました。大判小判がザックザク♪の大判ですね。
全国統一がなされた江戸時代になると、それまでバラバラだった貨幣も統一され、金貨・銀貨・銅貨(三貨制度)が導入され、それぞれの交換比率も制定されました(図23、24)。

図23 通貨の交換比率

図24 金貨の種類
また、それら三貨を作っていた鋳造所の名残は、銀座や銅座町といった地名として残されています。金座のみその名前は残されておらず、いまの日本銀行本店が建っている跡地にあったとされています。
テーマ④:江戸の出版と文化
江戸時代になると、さまざまな庶民文化が花開いた時代でもあります。木版印刷による本や錦絵が流通し、大衆娯楽が一気に高まりを見せるようになりました。
【出版物】
この時代の出版物は、主に版木を彫って墨を付けて紙に刷る木版印刷(図25~28)が主流でした。そのため刷られたものは全てモノクロでしたが、遊郭などの風俗を取り扱った筆で彩色した肉筆浮世絵が流行するようになると、丹絵(鉛・硫黄・硝石を加えて焼いた塗料)や漆絵(丹絵の黒色をより強調するために黒漆や膠入りの墨を用いた)、紅刷り絵(塗料の配合によって紅・黄・藍・紫を表現した)などの彩色技術が発展していきました(図29、30)。

図25 瓦版『志ん宿おばあさん』

図26 歌舞伎・市村座の顔見世(興行)の番付

図27 手探り状態で翻訳された『解体新書』

図28 版本の製作工程

図29 地震の原因と信じられた地中の大ナマズ

図30 麻疹に罹った際の食事療法について書かれています
それらは平賀源内などの手を持ってさらに研究が行われ、多色摺版画である錦絵が誕生しました(図31~33)。
江戸時代以前の書物とは、貴族や大名などの教養人が読むためのもので庶民には読書という風習は根付いていませんでした。また、写本を作るのも全て手で写していくという非常に手間のかかる作業だったため、一つの書物に対して100部程度しか刷られない貴重品でした。
やがて江戸時代に入ると庶民向けの情報発信としての書物の需要が高まり、木版印刷による商業印刷物が大ブームを迎えるようになりました。

図31 色の組み合わせで彩色豊かな表現が可能となりました

図32 歌川広重作『亀戸梅屋舗』(名所江戸百景)

図33 錦絵の製作工程
エピローグ:江戸から東京へ
黒船来航によって、数百年続いた平穏な時代は終焉を迎えます。海外に目を向けざるを得なくなった日本はさらなる激動の時代へと突入していきます。
【ペリー来航】
250年近く続いた太平の世にも変化の兆しが訪れます。
オランダやロシアそしてアメリカなど列強国が、外国との交流をほぼ閉じた鎖国状態の日本に対して開国を迫ってきます。江戸幕府はそれらの要求を断り続けていましたが、1853年、アメリカはペリー提督率いる当時最新の外輪式蒸気フリゲート『サスケハナ』を旗艦とした東インド艦隊を派遣し、砲艦外交を仕掛けてきます。
江戸の住民は、見たことのない巨大な黒い軍艦の襲来に不安を露わにしますが、怖いもの見たさの見物客もまた多く集まり、自分たちとは容姿の違うアメリカ人に興味を惹かれたそうです(図34)。
翌年の1854年、再来日したペリー提督(図35)の要求に応えて日米和親条約を締結し、下田と函館の2港を開港します。こうして215年間続いた鎖国体制は終わりを迎えることになりました。

図34 瓦版で出回った黒船来航の様子

図35 有名なこの絵はペリー二度目の来航を描いています
この時、アメリカからの献上品に対する返礼として、幕府から米俵などの品々がペリーに贈呈されました。その輸送に従事したのは、なんと相撲力士たちだったそうです。
体格のいいアメリカ人に引けを取らない巨漢の力士たちが、ひとつ60キロもの米俵を軽々と担ぐ力士たちの姿(図36)に、アメリカ人の船員たちは大いに驚いたそうです。

図36 アメリカ海兵を驚かせた相撲力士
今回の東北歴史博物館では、同館の常設展示のうちの江戸ゾーンからセレクトされた人々の暮らしや娯楽を中心にした資料が多く展示されていました。
戦乱の世が終わり、庶民文化が花開いた江戸時代の歴史はとても興味深く、調べれば調べるほどに面白い出来事や、現代にも通じる風習・慣習の発祥であったことが分かって来ました。
改めて歴史に学ぶことの面白さと重要性を再認識しました。