3443通信 No.370
このたび宮城耳鼻会報(91号)に『三好彰:スギとマンモスとユーラシア大陸~ユダヤ人と日本人との関りを含めて~』が掲載されました。
エッセイ『スギとマンモスとユーラシア大陸~ユダヤ人と日本人との関わりを含めて~』
(宮城耳鼻会報91号)
三好 彰(三好耳鼻咽喉科クリニック)
I.ブラキストン線で分かたれたスギとマンモス
宮城耳鼻会報No.83(2021年6月発行)にて著者らは『チベットにおけるスギ・ヒノキ植生と感作』と題して日本固有とされて来たスギ・ヒノキが氷河時代から現在の日本と中国(ユーラシア大陸)に分断して植生していることを証明しました(図1~5)。

図1

図2

図3

図4

図5
スギが当時、後に陸化した日本海に連続して植生していたため、現在の日本と中国そしてインドなどにまたがって植生していたことを見出した訳です。
No.83ではその証拠として、シベリアを中心に生息していたマンモスが陸づたいに北海道まで歩いてやって来た、その化石が北海道で発見されていることについて述べました(図6、7)。
加えて人類も南米の南端まで歩いて到達していたとされており、その名残も伺えます(図8)。

図6

図7 そして著者の化石(ではありません)

図8
さて、それでは一方のマンモスはスギと同じように、その痕跡をシベリアと日本に残しているのでしょうか?
おそらくマンモスは大陸と日本の間を歩いて移動しており、更に人間と同じように地続きだったベーリング海峡を歩き、今の北アメリカ大陸へと到達していたものと思われます。しかしやはり時代が進み海面が上昇したことでそれまで陸地だった箇所は海へと沈みます。
それまで歩行移動になんの障害もなかった陸地が海となり、物理的に断絶された環境が生まれたことで動物の生息域に明確なラインが形成されました。
その一例が北海道と本州の間のブラキストン線です(図9)。

図9
これは幕末から明治期にかけて日本に滞在した動物学者トーマス・ブラキストンが提唱した、陸上動物の分布境界線です。ブラキストンは津軽海峡を境にして北海道と本土のそれぞれに棲息していない動物のいることを発見しました。
それは例えばヒグマ、エゾリス、シマフクロウなどは北海道にしか生息しておらず、そしてツキノワグマ、ニボンザル、ムササビなどは本土にしか存在していないことからも理解出来ます。
マンモスも津軽海峡が障害となり、上記の如く本土に渡ることなく北海道の地で化石として発見されることになりました(図10、11)。そう言えばスギも、植林前は北海道にはありませんでしたネ。

図10

図11
Ⅱ.マンモスの足跡を辿って
著者らは現在の中国とロシア(シベリア)との国境に位置する街・満州里とロシア側のザバイカリスク(旧オトポール)との国境まで赴き、マンモスの足跡を追いました(図12~14)。
すると(外)モンゴルにほど近い内モンゴルのホロンバイル地区(別称:フルンボイル、フルン湖とボイル湖のある地方)に図7左のようなマンモスの記念碑の存在することを見出しました。

図12

図13

図14
一方、日本では北海道の幕別町(図6)から出土したマンモスの歯(図10)が北海道博物館に存在し、その化石も展示されていました。
まぎれもなくマンモスは氷河期に陸続きだった大陸と今の日本との間を歩いて移動しており、更に人間と同じようにベーリング海峡を渡っていたのです(図8、11)。
なお、マンモスが北海道以南にその跡を留めないのは、氷河期の日本湖(?)つまり今の日本海の水位が現在の津軽海峡の水位に影響し、ブラキストン線を越えて東北地方まで南下できなかったためと考えられています。
Ⅲ.大陸を跨ぐマンモスとユダヤ人の移動(図15)
マンモス化石が発見された旧オトポールの地は実はナチの手を逃れたユダヤ人たちを、日本の軍人や外交官たちが命を懸けて守ることになった運命の地でもあります。

図15
1.アウシュヴィッツ
説明は不要でしょう(図16、17)。

図16

図17
2.クラクフ(図18)
現在ではアウシュヴィッツは、ポーランドのクラクフを基点として見学ツアーが組まれています。
街の様子は写真のように綺麗な観光都市なのですが、1241年にはウィーン近郊まで攻め込んだモンゴルの侵略をヨーロッパで最初に受けた歴史がありますし、ナチとの思い出もあってか見えないところに張られた諜報の網の目が著者自身にも感じられる都市でした。
そう言えば、後述する杉原千畝のサポーターたちもユダヤ系ポーランド人の情報将校たちでしたものネ。

図18
3.カウナス
杉原千畝が領事を務めた、日本人が忘れてはならない小都市です。
杉原のデスクで、杉原がサインしたペンを手に持って千畝に成りきる……そんな著者でした(図19~21)。

図19

図20

図21
また、杉原の出身地である岐阜県八百津町にも杉原千畝記念館が建てられており、杉原直筆のビザが展示されていたのを確認しています(図22、23)


図22 図23
Ⅳ.ユダヤ人の移動と日本人
1.外交官・杉原千畝
杉原千畝は、第二次大戦期に東欧に赴任した日本の外交官でした。
彼は、外務省の留学生として旧満州のハルビン(現在の中国東北部、中国語読みはハルピン。図15、24、25)へと渡り、ハルビン学院にてロシア語を専攻します。その語学の堪能さから彼は同学院の教員として勤務し、その後は満州国外交部へと籍を置くことになりました。

図24 ハルビンの夕焼け。街全体が真っ赤にそまります。

図25 聖ソフィア大聖堂(ハルビン)
外交部在勤中に杉原は、当時ソ連の保有していた東清鉄道(北満州鉄道)を満州国へと譲渡させるなどの大きな実績を残すのですが、それがソ連当局の脅威とされたことで“外交上の好ましからざる人物”いわゆる『ペルソナ・ノングラータ』と認識され、希望していたソ連行きが不可能となってしまうのです。
そしてその後に杉原は、北欧フィンランドの在ヘルシンキ大使館勤務を経て、2年後にはバルト三国の一つであるリトアニアの在カウナス日本領事館へと赴任することになります(図15、19、21)。
杉原が赴任した1938年当時、ヨーロッパはナチ(nationalSozialist;Nazi)の独裁者ヒトラー率いるドイツの影響下にあり情勢は極めて不安定でした。
1939年、第二次世界大戦が勃発すると、ナチとソ連のポーランド分割が行なわれ、両国によるユダヤ人迫害そして殺害政策から逃れようとするユダヤ人が激増することになりました。
在カウナス日本領事館に勤める杉原の元にも多くのポーランドからのユダヤ人難民が詰めかけ、自分たちの極東への避難に必要なビザ発給を求める声が日増しに強くなっていきました。ですが、1940年に日独伊三国同盟を締結していた関係から、ユダヤ人たちに対してビザを発給することは同盟相手であるドイツに対する外交上の懸念がありました。
とはいえ、ユダヤ人たちの困窮する様子と彼らの未来が決して明るくはないことを見通していた杉原は、ビザを求めるユダヤ人たちに手書きのビザ(図20、23)の発行を決意するのです。
杉原の”命のビザ“を受け取ったユダヤ人たちは、ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道を利用して極東へと逃れ、ソ連と満州国の国境にある町オトポール(!)へと辿り着くことになります(図12~14)。
なお、リトアニアを含むバルト三国とソ連との国境は平坦な陸地で軍の侵攻が早かったため、ソ連軍の侵攻に伴い、被害に遭う人も多かったのです(図26、27)。

図26 ソ連による死者たちの「十字架の丘」(リトアニア)

図27 バルト海の夕暮れ(エストニア・タリン)
人道的見地から多くのユダヤ人たちを救った杉原は、1985年、イスラエル政府より『諸国民の中の正義の人』の称号を授与され、杉原千畝の名前は記念碑に刻まれることになりました(図28)。

図28 イスラエル外務省の看板(杉原の名前を指さす著者)
2.樋口季一郎(図29)

図29
実は杉原以外にも、東方へ脱出してきたユダヤ人たちを救った日本人がいます。
ナチによるホロコーストとソ連の迫害から逃れたユダヤ人たちが、シベリア鉄道を経由して極東へ脱出する前述のルートは“ヒグチルート”と呼ばれていました。
杉原が、ユダヤ人たちのヨーロッパ脱出を手引きするその3年前、先んじてナチの影響を逃れてソ満国境の町オトポール(図12~14)へ辿り着いたユダヤ人たち。毛布1枚で寒さにふるえていた彼らを、満州国を経由させてアメリカなどの上海租界(行政特別区)に送るというオトポール事件がありました。
当時日本はドイツと1936年に日独防共協定を締結したばかりで、ユダヤ人の満州国通過を認めることは同盟国ドイツを非難する行為であると、ドイツ側には考えられたのです。
この時に尽力したのが、樋口季一郎(ひぐち きいちろう)陸軍中将(図29)でした。樋口中将は人道上の観点から国を失ったユダヤ人たちの放置を是とせず、関東軍参謀長の立場にあった東条英機に直訴し、難民となったユダヤ人たちに満州国のビザを発給したのです。さらに医療品などの支援物資や上海租界までの交通手段として満州鉄道の特別列車を用立てるなど、手を尽くした歴史上の事実がオトポール事件だったのです。
オトポール事件以後、ユダヤ人たちの間でこの件は“ヒグチルート”として知られるようになりました。
そして多くのユダヤ人を救った樋口中将の行動は“人道の人”として語られるようになったのです。
話は戻るのですが、ヒグチルートによるユダヤ人たちの極東への脱出が成功したことで、杉原もシベリア鉄道を経由する”命のビザ“の発給を決断したことは間違いないでしょう。杉原はユダヤ人たちの脱出の際、ソ連国営の交通公社インツーリストを通じてユダヤ人たちの脱出を進めていました。このインツーリストはソ連にとっては数少ない外貨(ドル)獲得の手段であり、ナチ同様にユダヤ人迫害政策を進めるソ連にとっても無視できない懐事情が存在していたのも、ユダヤ人たちにとって後押しとなったと思われます。
(トランプに対するプーチンの言葉“イスラエルにはロシア語を話す20万人の人々がいる”)(図30)

図30 ロシアからイスラエルに逃れるユダヤ人たち(イスラエルのホテルにて)
彼らが避難した場所の一つに、上海市の日本人街であった虹口(ホンカオ)という地区があります。上海の中心部から北東にあるエリアで、東北大学医学部に在学した魯迅(図31)が晩年を過ごした町として知られています。その当時は約10万人の日本人が居留する行政特別区いわゆる『租界』があり、上海に辿り着いたユダヤ人の一部はこの虹口に一時的に居留し、世界各地へと渡って行きました(図32、33)。

図31 上海虹口の魯迅の碑にて

図32 魯迅の住居と上海外灘(バンド)

図33 バンドのユダヤ人
ちなみに図33右上の黒い建物は、ソ連作成のホテルです。著者も宿泊したことがありますが、全ての家具がロシア人サイズで大きく、ベッドに座ると足が床に届かないのはともかく、トイレでお尻がはまり込みそうになるのには弱りました。
それはさておき、ユーラシア大陸を横断したユダヤ人たちは更に苦難の旅を続け、彼らの悲願(図20『約束の地』)であるユダヤ人国家イスラエルの建国を成し遂げたのです。
3.日本に渡来した太古のユダヤ人
ここで面白いお話があります。
実はかなり以前から、ユダヤ人たちが日本に渡って来ていたというのです。
お話は、東北大学の先輩にあたる故・田中英道教授の書籍『日本にやって来たユダヤ人の古代史』などに詳しいのですが。大まかにご説明すると、かつて中東にあった古代イスラエル王国が滅亡した際、散り散りになったユダヤ人たちの一部が欧州とアジアを繋ぐシルクロード(陸路、海路)を通じ、太陽の昇る地・日本にやって来たという説です。
その中でも、渡来したユダヤ人と思われるいくつかのエピソードをご紹介します。
4.日本書紀に綴られる渡来人・秦氏
太秦(うずまさ)と言えば、日本を代表する時代劇の撮影所のある京都の町です。その由来は応神天皇(201~310年頃)の治世であった古墳時代に、大陸から渡ってきた秦氏という渡来人が関係していると言われています。
秦氏とは、ローマ帝国によってパレスチナから追放されたユダヤ人たちが興した中央アジアの弓月国(ヤマトゥ)の人たちを指します。彼らは応神天皇の援助を受けて日本に渡来し、第16代仁徳天皇より「波多(はた)」の姓と土地を与えられます。そして第21代雄略天皇の時代になると、波多氏は太秦の土地を与えられました。
なぜ、大陸渡来の秦氏が天皇の住む京都に土地を分け与えられたのでしょうか。
それは、彼らが培ってきた土木・灌漑技術が、前方後円墳などの作成に係わり、天皇の権勢を大いに支えたことに大きな理由があると言われています。
また、かの聖徳太子の側近とされる秦河勝(はたのかわかつ)も、この秦氏出身の人物であることが『日本書紀』や『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』などの古い書物には記されています。
田中教授はこれまでの、秦氏は中国あるいは朝鮮系の民族であるとの説を真っ向から否定し、じつは遥か中東から両国を通り抜けて日本へやってきたユダヤ人たちの末裔であると主張しています。
5.ユダヤ人だった秦の始皇帝?
加えて、これも興味深いエピソードなのですが、秦(はた)ならぬ秦のあの始皇帝もユダヤ人の血を受け継いでいたのではないか、と伝えらえています。
始皇帝である嬴政(えいせい)の特徴について、中国の歴史書『史記』においては「鼻が高く、目が長く、くまたかのように胸が突き出し…」と、アジア人らしからぬ風貌で描かれており、嬴政の治めた秦国(現在の西安市―歴史上の長安―が中心)は列国のなかでも一番西方に位置していたことから、シルクロードを介して中央アジアや欧州と交流のあったことが想像されます(図15)。
(正倉院の御物を思い出して下さい)
また、嬴政の陵墓である始皇帝陵には、約8,000体にもおよぶ兵士を模した陶製人形『兵馬俑(へいばよう)』(図15、34)が埋葬されていましたが、その一つとして同じ顔の人形はなく、実在した兵士たちをモデルにして制作されたと考えられています。

図34 西安の始皇帝陵に眠る兵馬俑
そして人形の平均身長は約178センチと、非常に大柄な体躯であることが分かっています。
皇帝麾下の軍団員ですから精強な成人男性が選ばれたにしても、現代の中国人の平均身長よりも高かったことから、アジア人よりも体格の優れたユダヤ人の血が混じっていたのかと疑いたくなります。
つけ加えれば、著者の6回の西安訪問で、西安では中国人同士の間にランク付けがあり、一番ステータスの高いのは「背の高い一族」であると現地ガイドから説明を受けています。
6.ユダヤ人そっくりの埴輪
田中教授は、さらに古代日本にユダヤ人が渡来していたと思われる証明の一つとして、遺跡から発掘される出土品にも注目しました。
それは当時の人々の姿を表した埴輪(はにわ)で、その造形的な特徴がユダヤ人によく似ていると書かれています。
それはユダヤ教徒の正装である真っ黒なスーツ、黒い帽子、それと切らずに伸ばしたもみあげといういで立ちで、敬虔なユダヤ教徒(図35)であることを一目で表した格好ですが、千葉県芝山古墳から発掘された埴輪には、そのユダヤ教徒の姿に酷似した造形が見られます(図36)。

図35 嘆きの壁に向かって祈りを捧げるユダヤ人(長いもみあげに注目)

図36
また、聖徳太子の肖像画(図37)には角髪(みずら)と呼ばれる頭髪を二つに分けて耳の横で括って垂らす二人の息子の姿が描かれていますが、この髪形もどこかユダヤ教徒の姿(図35)に似ていなくもありません。
さらに、日本の伝統芸能である能の中にも隠されたユダヤ文化の名残が感じられると、田中教授は『能の起源と秦氏』という著書で触れています。

図37
先ほどもご紹介した、京都・太秦の秦氏が朝廷に対する影響力を確保する中で、土木・灌漑技術といった先端技術に留まることなく、伝統芸能などの文化的な分野に関しても影響力があったと言われています。
それは能の舞台で使われる天狗のお面(図38)にしても、日本人とは到底思えない彫りの深い顔立ちからも、当時住んでいた秦氏を始め渡来人たちを模したものだったのではないでしょうか。

図38
V.3.11
ここまでは、古代ユダヤ人たちが世界を跨ぐ長い放浪のなかで日本に渡来していた経緯についてお話ししました。
長い人類の歴史の中で育まれてきた日本とユダヤ人との不思議な繋がりは、実はいまも脈々と受け継がれています。
2011年3月11日、東日本大震災による津波によって東北や関東沿岸部は大打撃を被りました。まるで災害映画のワンシーンを彷彿とさせるような黒い大津波が大地を攫い、尊い人命と人々の毎日の暮らしを根こそぎ奪ってしまいました。
ですが、この未曽有の大災害は日本のこれまでの国際貢献の結果を思い知らせてくれることにもなりました。
最終的に世界138カ国もの国々から支援チームの派遣や支援金の供出など、惜しみない助力を送って頂いた訳ですが、まさにイスラエルも、そうした支援に手を上げてくれた国の一つです。
発災当時、在日イスラエル大使であったエリ・コーヘン氏(図41)の要請により、発災からわずか4日後にはイスラエルから緊急支援チームが派遣されました。日本に到着した支援チームの中では世界最速でした。
そのコーディネーターとして医療支援チームのアテンドをしたのが、イスラエル親善大使でNPO法人セリアの会理事長のセリア・ダンケルマンさん(図39)です。
音楽家でもあるセリアさんは、主に宮城県沿岸部の亘理町や山元町などの被災地を中心に奔走され、特に心にダメージを負った子供たちのケアや地域コミュニティの構築に尽力されました。
そのセリアさんとの出会いも、数奇なものでした。
音楽家としても活躍されているセリアさんのCDタイトルが、奇しくも著者の娘と同じ名前『慈』(図40)だったのです。これにはセリアさんももちろん娘も驚いていました。

図39

図40
そして、セリアさんの復興支援活動に対して私たちも微力ながら協力させて頂くなかで、セリアさんからこんな提案を受けました。
「一緒にイスラエルに行ってみない?」
前述のように、著者は杉原千畝や樋口季一郎の活動に感銘を受けて、はるばるバルト三国やポーランドそしてオトポールへと足を運んでいましたので、一も二もなくセリアさんの提案を受け、2018年5月に中東イスラエルへと旅立ちました。
現地の詳しいお話は、著者のホームページ(https://www.3443.or.jp/news/?c=18753)上に公開しているので省きますが、非常に刺激的で貴重な体験であったことは間違いありません。
著者がテルアビブに降り立ったその前日、故・安倍元総理もイスラエルを訪問していたと現地の外務省職員から聞きました。もし1日ずれていたら、厳戒態勢の中で行程に影響が出ていたかもしれないと思うと、ギリギリの入れ違いだったことに安堵しました。
セリアさんのアテンドの元、イスラエル各地を巡った私たちはイスラエル外務省に赴き、『諸国民の中の正義の人』の表彰を受けた杉原千畝の名前が刻まれたプレート(図28)に感動と共に接し、また元在日イスラエル大使エリ・コーヘン氏と面談して、貴重な体験談を拝聴する機会を得ました。
前述の田中教授と同様に、コーヘン氏もその著書(図41)の中で日本人とユダヤ人が文化や精神性がよく似ていると述べています。
これは余談ですが、面白いことに、青森県新郷村にはキリストの墓があると言われており、その村では十字架が捧げられていたり、その左側には戸来(へらい)という土地があり、加えて能登半島の宝達山にはモーゼの十戒で有名なモーゼがこの地に渡り余生を過ごしたとか、聖徳太子の別名である厩戸皇子(うまやどのおうじ)がイエス・キリストの誕生した馬小屋にちなんでいるといった、奇想天外なお話も残されています。

図41
真偽はともかくとして、コーヘン氏自身は親日家として日本の歴史や文化に対する非常に深い見識の持ち主で、空手や居合、剣道を嗜むサムライでもあります。
数千キロも離れた二つの民族が太古の時代から不思議な縁で繋がっているというのは、マンモスほどではないにしても歴史的なロマンを感じざるをえません。
現在、イスラエルを取り巻く状況は、より混迷の度合いを深めています。
紀元前の時代に住む土地を追われたユダヤ人は、その後のイギリスによるバルフォア宣言によって聖地エルサレムの復古を果たすことになりましたが、ここはあらゆる文化・文明・歴史の入り混じり常に宗教問題や大国の利権が複雑に絡む土地柄でもあります。
この地に真の平和が一日も早く訪れることを切に願っています。
Ⅵ.おわりに
さて本稿で著者は、スギの植生に始まり、マンモスや人間の長い進化の足跡を追い掛けてきました。今後どのようにして研究を進めていくことになるのか、そしてどんな結果が待っているのか、今からとても楽しみにしています。
Ⅶ.おまけ
1990年12月に、当時松下政経塾生だった高市早苗さんが当院を訪問しました。
それから35年が過ぎて高市新総理が生まれ、彼女は間違いなく成長を続けています。私も彼女に恥ずかしくないよう、これからまだまだ成長して行くつもりです(図42、43)。

図42

図43