3443通信 No.371
半田銀山シンポジウム参加レポ
秘書課 菅野 瞳

図1
去る2024年11月10日(日)、福島県伊達郡桑折町にて、五代友厚による半田銀山再興150周年イベント“半田銀山シンポジウム”(図1)が開催されました。
この半田銀山は、江戸時代初期頃、上杉景勝によって本格的に開発され、1747年以降は幕府直轄の鉱山となり、新潟県にある佐渡金山・兵庫県にある生野銀山とともに日本三大鉱山に数えられて隆盛を極めました。
幕末に一度閉山となりましたが、1874年に再興してからというもの近代技術の導入により、1881年には産銀高日本一を記録しました。
その後は、明治・大正・昭和と操業を続けましたが、1950年(昭和25年)、半田銀山の歴史に終止符がうたれました。
本シンポジウムの趣旨は、歴史の中での半田銀山の役割や半田銀山を巡る人々の物語を深堀りし、歴史遺産としてのロマンやその価値を再発見すると共に、先人の夢を未来に継承することなのだそうです。
スタディーツアーに参加!
本日、私は桑折町歴史案内人であるガイドさんの引率で、半田銀山史跡公園や半田銀山中鋪(なかしき)跡を巡るスタディツアーに参加して来ました。
いざ、桑折町役場に集合(図2)し、このスタディツアーに参加をする勉強家たち?(笑)を乗せたバスは、一路、半田銀山史跡公園と女郎橋へ向かいます。

図2 予想外の参加者の多さにビックリ
半田銀山史跡公園
公園に到着し、まず目に入ってきたのは年季を感じさせる石垣ですが、この石垣は橋脚跡(図3)なのだそうです。橋脚跡とは、過去に橋の本体を支えていた橋脚が取り壊されたり、地盤沈下などで地表に露出したりした遺跡や痕跡のことを言いますが、かつてはこの石垣の上をズリ(鉱山や炭鉱で採掘される、価値のない岩石や土砂を指します)を乗せた車が往来していました(図4)。

図3 女郎橋の橋脚跡

図4 かつての姿
その中で、石垣の北の水路に架かる小橋は“女郎橋”と呼ばれており、桑折宿まで来た鉱夫たちを女郎が見送ったことから、名付けられたのだそうです。
女郎橋跡は、丁度その真下に羽州街道を横切る形になっており(図5)、現存する橋脚両端の石垣は当時の様子を伝える数少ない遺構として、大変貴重なものになっています。

図5 周辺地図
女郎橋の目と鼻の先には、半田銀山坑夫供養塔そして、明治天皇行幸記念碑(図6)があります。
今となっては、半田銀山で働き、骨を埋めた鉱夫の明確な人数は分かりませんが、この地で無縁仏となり静かに眠っています。

図6 明治天皇行幸記念碑の前にて
1876年(明治9年)には、明治天皇の奥羽御巡幸にあたり、岩倉具視・大久保利通らを伴い半田銀山を御臨幸され、鉱山施設をつぶさにご覧になったとされています。
これを記念し、旧鉱山事務所跡に記念碑が建てられましたが、今ではその記念碑が半田銀山史跡公園に移設されており、重ねて鉱山王の別名を持つ半田銀山再興の立役者である、五代友厚を祀る祠(図7)も設けられています。
五代友厚の左横には、龍作という名が刻まれていますが、五代友厚が51歳で死去した後、長男である龍作氏が経営を引き継いだからなのだそうです。

図7 五代友厚碑
半田銀山史跡公園を一通り巡った後、一行を乗せたバスは紅葉がまだ残る半田山自然公園中腹にある当ツアーの一番の見所である半田銀山中鋪跡(図8)へ向かいます。
半田山は、半田沼を囲むように複数のハイキングコースが設けられており、四季折々の景色を楽しむことが出来ます。

図8 紅葉が映えますね
お天気にも恵まれ、自然美が溢れる公園に癒されながら「ハイキング日和ですね!」などと談笑をしていた私たちの耳に、一瞬、場が凍り付く音が聞こえてきました……。
数分の間を取りながら、
――バンバン、バンバン
「……えっ?」
当然、私だけではなく、皆さんがざわめきます。繰り返し聞こえてくる音の正体……それは、森の中からもしや顔を出すことがあるかもしれない熊除けの為の爆竹音でした。
ガイドさん曰く、何度となく響く爆竹音は、熊除けというよりは熊に人間の存在を知らせる目的が大きいのだそうです。予期せぬ爆竹音が耳に入り、熊ではなく、驚き怯えた私の方がこの場を立ち去りたくなったのは言うまでもありません(笑)。
自然公園駐車場から一体どれ程歩いたでしょうか。ハイキングコースを外れてからは道が極端に狭くなり(図9)、中鋪跡到着に王手をかけます。その道がまた恐い位にぬかるみ、そして急勾配……ガイドさんからも、中鋪跡はこの下になりますので、恐いと思われる方は滑りますし無理をしないようにとの注意喚起がありました。

図9 山道をひたすら歩きます
さて、その言葉に私は、先程の爆竹には驚きを隠せませんでしたが、ここはお尻を使い滑ってでも行くしかない(笑)。答えは一択です。一歩ずつ足下を確かめながら、桑折町が誇る半田銀山中鋪跡に何とか到着です(図10)。
坑口には、厳重に鍵がかかっており網戸のようなネットが張られています(図11、12)。坑内は恐ろしい程に真っ暗闇で、奥をうかがい知ることは出来ませんでしたが、ここに辿り着くまでに、汗ばんだ私の身体に中から吹いてくる冷たい風が染みました。

図10 ようやく到着!

図11 厳重に閉じられた坑口

図12 内部は暗く、冷たい風が吹いています
江戸時代頃の半田銀山では、佐渡金山同様に全国各地から集められた罪人が働いており、落盤事故などによって多くの人が亡くなられたのだそうです。予想がついていたこととは言え、坑口の前で実際にお話を伺うとやはり背筋がゾワっとして、坑口から時折り吹いてくる風が尚一層冷たく感じました。
安全性の問題がある以上、半田銀山中鋪跡に立ち入ることは難しいのだろうと思いますが、秘密基地(図13、14)にでもなりそうな好奇心を搔き立てられるようなこの場所に探索ツアーのような企画が持ち上がり、一日の入場制限を設けてでも実現した際には半田銀山の知名度はもっともっとアップするのではないかと感じました。

図13 鉱山内の様子

図14 半田銀山の概要
あの“単語”の語源……?
最後に、ガイドさんのお話では、真偽の程は定かではないとの前置きがありましたが、金属の配線を繋ぐ“はんだ付け”の“はんだ”の語源は、半田銀山が由来ではないかという説があるのだそうです。
他にも、マレー諸島のバンダ島の名を取った錫と鉛の混合比がほぼ「半々だ」が訛った、中国語のハン料、ハンロウが変化した、はたまた英語のhandが変化したなど、様々な説がありますが(どの説も、真偽の程は不明なのだそうです)、半田銀山は主に、金や銀、亜鉛や鉛などを生産していたことからも、はんだの語源は半田銀山から……の説が一番合点がいくのでは? と思いました。
半田銀山再興150周年イベント、と題して開催されたシンポジウムでしたが、半田銀山の歴史の奥深さを肌で感じる、良い機会になりました。