3443通信 No.379
私の友人であり、今年3・4月に代診としてお越し頂いた長崎の藤原久郎先生より、長崎市医師会に投稿された紀行エッセイを頂きましたのご紹介させて頂きます。
寄稿文『あれから15年』

藤原 久郎(三原台病院リハ科・耳鼻科)
3月は寒暖の激しい目まぐるしい月である。春かと思うような陽気な日があったり、雪の降るような寒い日もある。あの2011年3月11日東日本大震災の日は長崎は好天で日差しは暖かかった。東北地方は日中は晴れであったが、寒気強く、夜は氷点下、雪も降る厳しい天気であった。私のクリニック待合室のTVは津波襲来の映像を流し続けており、皆さん、固まってその惨状を見ていたのを覚えている。夕刻19時過ぎ、政府は原子力緊急事態宣言を発令した。
それから2年後、私は開業医から勤務医に変身していた。丁度その頃、学会で相馬市立総合病院の長谷川純先生との知己を得た。同じセックションで順番前後しただけの奇縁であった。先生は震災後のストレスによるめまい増加を発表されていた。先生のお誘いがあり、震災2年目の相馬市を訪問したのだ。日没時の薄暗い時間帯であったが、福島県屈指の漁港である松川浦漁港はシーンとしており、岸壁には大型底引き漁船が港の端までズラーと係留されており異様な眺めだった。しかも船上に張られたケーブル上には夥しいカラスが群をなしてとまっており背筋が凍った。カラスは人の亡霊と会話ができる霊鳥と知られ、亡くなった方々の伝言を伝えていると感じたからだ。港ではただ漁船が一隻、探照灯を灯し、黙々と津波が運んできた瓦礫回収作業をしていたのが強く印象に残った。
この時、私も復興支援に参加したいと強く思ったのである。すぐに仙台在住の前長崎大学前耳鼻咽喉科教授の小林先生に相談した。
それから2年後に相馬市立総合病院に震災支援医師として赴任するのであるが、当時福島県立医大副学長であった山下俊一先生、長崎大学河野茂学長、国立診療場院長森俊介先生、愛野記念病院理事長貝田英二先生には様々な面でお世話になった。
そこから波乱万丈なる東北での生活がスタートし、新しい人生を経験してきた。3年後に故郷の長崎に帰り三原台病院に嚥下リハ医・耳鼻科医としてお世話になっている。
今年は震災後15年の年にあたる。福島県ではまだ200名近く遺体が見つからない方が残っており、震災関連死の方は当時の死者(1614名)を超え、2千人をゆうに超えている。県外避難者はいまだ2万人を超えているという。
本年3月、たまたま仙台の友人が突然の病魔に倒れ、私に応援依頼があった。それで、仙台に4回行く機会があったが、3回目の訪問の折には診察2日前から仙台に飛び、レンタカーで岩手・宮城・福島の震災の地を巡ってきた。
15年目の被災地の復旧を自分の眼で確かめてみたかったのである。下調べはgemini君にお世話になった。
訪れたのは陸前高田市高田松原津波復興祈念公園、気仙沼漁港、気仙沼市震災復興祈念公園、石巻市門脇小学校遺構、南三陸町震災復興祈念公園、浪江町復興伝承館、請戸小学校遺構などである。また事前に、ノンフィクション作家門田隆将氏の作品を図書館で借りて読んでおいた。
まず、三陸方面の足回りのインフラは国の威信をかけた復興事業でものすごく改善しており、びっくりした。なかなか進まぬ長崎県の高速道路とは雲泥の差である。
その日は陸前高田市の奇跡の一本松を見て、日没となり気仙沼に宿をとった。
夜遅く、スーパーにビールのつまみを買いに行った所、店内に異様に人だかりがあるコーナーがあった。女性、お年寄りがめだつのである。そこで眼にしたのは、時間が来ると割引シールを店員が食品に貼って回るのであるが、その割引商品を目当てに集られていたのであった。
気仙沼港は港口に防波堤役をする大島を持つリアス式海岸にできた天然の良港で、親潮と黒潮がぶつかる豊かな漁場を持つ日本が誇る漁港である。翌日、夜明け前から広大な魚市場を見学したのちに気仙沼市復興祈念公園を訪問した。公園は気仙沼港奥の北側に位置し、地元の人が大漁祈願・航海安全を祈願する安波山(239m)の南に座し、地元で陣山と呼ばれる標高100m程度の岩山上に造られている。気仙沼港が直下に見え、太平洋と三陸の山々がよく見える。ここから津波で漁船が市内に流されていく惨状が生々しく世界に報道された場所である。
この岩山を気仙沼市が千年に一度の大災害として伝えるべく復興祈念公園として整備している。気仙沼の追悼・伝承・再生が見える場所である。頂上には帆をイメージした「祈りの帆」が朝日に輝いていた。その周りには秋田公立美術大学の皆川嘉博氏による陶彫刻作品6体が展示されていた。作品は、どれも被災地の人々のあの時の様々な場面が切り取られている。被災者の言葉で表現できない様々な心情が見事に表現されていて、津波によって大切な命の日常が無惨にも奪われ、悲憤の魂の叫びがストレートに津波を直接経験してない私の胸にも強く響いてくる。
「3月」と題した作品は津波による寒空の下、泥土の海中から、運良く助かった親子が再会し、命の生存を感謝し抱き合っている作品(図1、2)で、気仙沼ではこんなシーンが多く見られたのであろう。

図1 図2
「祈り」と題された女神像は両手を胸に合わせ、亡くなった方々の霊魂を朝日が昇る海神様にお返し、御霊の鎮魂と気仙沼の地域安寧と再生を海神様に願う祈りの作品で、私は自然に海に向かって両手を合わせていた。作品を通して、私たちは被災地の人々の悲憤の気持ちを、気仙沼の海山に抱かれながら共有できる神聖な場所であった。この公園は津波の恐ろしさを後世に伝承するパワースポットである。
南三陸町志津川湾を襲った津波は町の中心を流れる志津川に沿って街を一瞬にして呑み込み、破壊した。
津波は狭いリアス式湾内に侵入した。湾奥はさらに狭くて浅いために、高さを増し、エネルギーは増幅された。町の中央を流れる志津川を一気に駆け上り、町を破壊したのだ。現在、かつての街中心部は見渡す限りの更地となり、南三陸町災害復興祈念公園となっていた。
町の中心地にある南三陸町庁舎2階放送室から町民へ避難の呼びかけをしていた女性がいた庁舎は、震災を語る遺跡として残されている。3階から屋上の鉄骨もグニャと曲がるほどの津波の凄まじい破壊力がわかる震災遺跡(図3)である。津波の高さは15mを超えていたのだ。
津波は町を根こそぎ破壊したのだ。

図3
東日本大震災・原子力災害伝承館の伝習館には、館内に入ると、福島県出身の俳優西田敏行さんの写真が出迎えてくれる。この日は初老の語り部さんのお話を聞くことができた。印象に残ったのは、まず、震災で一番良かったことはと語り始められたのである。
彼女はいの一番に、この震災と原発事故のダブルパンチに見舞われた、この地に全国、世界から多くの方が、救援に駆け付けて来られたことへの感謝の気持ちを述べられたのである。
語り部さんの最初に出た言葉が感謝の言葉だった。館内には震災直後から関わった自衛隊、消防、警察の救助活動写真、被災地の生々しい写真が展示されている。請戸小学校の黒板には救援活動に駆けつけた自衛隊員の激励文が大切な記録として残されていた(図4)。

図4
今回の旅で、ノンフィクション作家門田隆将の『吉田昌郎と福島フィフティ』と『記者たちは海に向かった』を読んだ。福島フィフティではあの危機的な状況の中、死を覚悟して現場に残り、最後の手段であるベント開放作業を行ない、メルトダウンした原子炉を冷却し続けた男達の行動を書き残した本である。ベントは世界中で本格的に行われてない初の作業だった。彼等の作業がなかったら、チェリノブィリ事故より大きな惨事が起こっていた可能性があったのだ。
震災9ヶ月後、現場責任者だった伊沢当直長が、故郷から遠く離れ離れになってしまった各地の避難住民を一堂に集めて行われた会津での親睦会に年老いた親父さんを車で連れて行った時のことが書かれている。もう90歳近い年老いた父親は、もう再び地域の仲間に会うことも叶わないだろうと思って、連れて行った会場での場面が描かれている。
会の世話人から、「皆さんのために最後まで現場で頑張ってくれた伊沢さんの息子です」と紹介された時、集まった被災者、いまだ地元に帰れない年老いた参加者から大きな拍手を頂いたそうである。罵倒されるかと覚悟していたのだが、もらったのは温かい拍手だった。
「海に向かった記者」の中では、福島民報の将来を嘱望されていた若き記者が記者仲間の中で一人だけ亡くなったことが描かれている。生き残った人の証言を集めて、その記者の取った行動が記されていた。彼は地震発生から、現場取材のために浜に向かった際に津波と遭遇している。
地震発生後、仕事場から家族が残る自宅へと急行していた男性は、自宅まで直線わずか数百メートル前で急ブレーキをかけ車を停止させた。浜方面から上がってくる若い背広姿の男が来るな来るなと叫びながら、手で合図していたように見えたからである。若い男の背後にきらりと光るものが見えた。津波の波頭が光って飛行機雲のように見えた。津波だ。全力で走れば、まだその若者は助かっていたかもしれない距離だった。バックして海から反対の山手に走り出した車のバックミラーには青年は走らずに右手の役場の職員に「逃げろ」と合図を送っていたのが見えた。
東北は九州に比べ寒い。東北人は我慢強くて、心優しい人が多く、黙々と仕事をする。震災後15年経過したが、三陸海岸や浜通りにはまだまだ避難者は帰っていないし、さらに過疎化が進んでいる。でも、それでも希望を捨てないで、前を向く若者は多い。
頑張れ、東北。頑張れ、日本。
帰りに私が眺めた、広々と広がる紺碧の太平洋は穏やかに光っていた。
世界では軍事パワーこそファーストと、とめどない暴力と悪口雑言の応酬連鎖が映像で毎日のように流れてくる。歴史に名を残したいとか、征服搾取欲とメンツを捨てきれない指導者ばかりで、やり切れない。核を一度持つと、手放す国家はないし、持ちたがる国家が多い。アインシュタインが予言したように、この地球は石と棍棒の世界に戻るのかもしれない。愚かなる指導者達を持つ人類が地球に壊滅的破滅をもたらす。最強を誇った恐竜達が絶滅したように、月まで人を運んだ人類も絶滅するのかもしれない。
参考文献
「吉田昌郎と福島フィフティ」 門田隆将 PHP研究所
「記者たちは海に向かった」 門田隆将 角川書店
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