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2022年7月(No.329)

 

マスクアンケートシリーズ②
大沼直紀Dr.の特別講演1
~聴覚障害に携わる方々へのメッセージ~

講師:大沼 直紀 先生(筑波技術大学 名誉教授・元学長)
会場:宮城県立聴覚支援学校

図01 図 タイトル
図1 大沼直紀先生と、会場となった聴覚支援学校


はじめに
 2017年6月6日(火)、院長が学校医を務める聴覚支援学校(旧ろう学校)にて、院長とは昔からのお知り合いである筑波技術大学・名誉教授の大沼直紀先生(図1)による特別講義が行われました。
 2012年6月に開催しました当クリニックの開院20周年記念講演会では座長をお務め頂きまして、院長とはとてもご縁が深い先生です。

※以下、大沼先生の講演内容を文章化。

大沼Dr.
 皆さんこんにちは。
 一昨年ここでお話しさせて頂いたばかりですけど、新しい先生もおられますので、同じような話が繰り返されるかも知れませんけれども、どうぞ宜しくお願いいたします。
 私にとっての仙台とはまさに原点と言いますか、思い出深い土地でもあります。なので、少し時間をオーバーしてしまうかも知れません。

高等部から中学部へ(図2)
 この写真は、私が本校(当時は宮城ろう学校)に赴任して高等部から中学部に移って、学生と遠足に行った時ですね。
 この頃の私は、ろう教育そのものにあまり愛着を感じずにいました。いわゆる「でもしか先生」だったんですね。戦後の教師が不足していた時期で容易に先生という職業に就けた時代でした。
 ですが、当時受け持った生徒が大きくなり、結婚して子供が生まれ、その子の教育を受け持つといった巡りあわせがありました。

図02
 図2


中学部から幼稚部へ(図3)
 写真は、幼稚部に移ってから何回目かの卒業式ですね。私も低学年への教育にシフトしていった時期です。
 このお子さん達が大きくなって子どもが生まれたんですけど、その半分くらいが難聴でしたね。そして私が聴力検査をしたり、相談を受けたりしました。

図03
 図3


乳幼児教室を設立(図4)
 ある時、幼稚部の附属ではなくて単独の乳幼児教室を作りたいと言う事で私が作ったんですが、写真はその幼稚部のお誕生会の様子です。
 実はこの乳幼児教室を作った時期というのは、まだまだ世間に難聴児教育が知れ渡ってはいなかったですし、義務教育を行う学校が0歳児から子どもを預かって教育を行うことは、制度上では認められてはいませんでした。
 これは今でも変わってはいないんですけど、その当時は今よりも理解が得られない時代でした。どうして0歳児から子どもを預けて教育しなければならないんだ? と言う冷たい目で見られました。
 ですが、0歳児からでも音の刺激を与える事が絶対に良い事だと信じて、私自身は手探り状態でやっていました。

図04
 図4


手探りの専門性(図5)
 例えば、1歳未満の赤ちゃんの耳に補聴器を付けようとしても嫌がられてしまいますし柔らかい耳介(耳たぶ)にどんな補聴器が付けられるのか、どの程度の音質・音量で調整すればよいのか、却って補聴器を付ける事で音響性外傷になってしまい難聴を増悪させてしまうんじゃないのか、と言う不安がありました。

 また、山形や福島、岩手などの県外からも乳幼児教室に来る人がいました。
 そして、その子たちの親からは質問が寄せられるんですが、私は赤ちゃんの専門家ではありませんので、その質問の一つ一つにお答えする事が出来ませんでした。ですので、後日に回答すると伝えて、様々な研究者に連絡を取って情報を得た上で回答をしていました。言い換えれば、乳幼児教室に通う子の親に勉強させられて成長してきたと言えます。

 そんな時代を過ごして、私がこの仕事に就いてから50年が過ぎました。そこで10年区切りで私の仕事を振り返ってみたいと思います。

図05
 図5


1970年代(早期教育の芽生え)
 まず1970年代ですが、日本全体に聴覚障害児に対する早期教育の機運が動き始めた時代でした。
 ちょうどこの時、私は先にお話しした乳幼児教室を始めました。

1980年代(聴覚補償)
 1980年代は、残存聴力を有効活用した方が良いと言う動きがあり、聴覚を補う事が熱心な時代になります。
 その時の私は、乳幼児教室をやるのに勉強不足を実感していましたので、アメリカ留学を決心しました。

 当時のアメリカでは、耳の聞こえない赤ちゃんの耳を使えるようにするというオーディオロジー(聴覚障害補償学)と言う学問が盛んに研究されていました。
 日本にも耳鼻咽喉科学会傘下のオーディオロジー学会がありましたが、耳鼻科医の中でもあまり知られていない狭い領域の学会でした。

 そして、アメリカのワシントン大学医学部附属の中央ろう研究所(CID)でオーディオロジーを学んで帰国しまして、国立特殊教育総合研究所(特総研)、昭和大学の耳鼻科外来で働きつつ「耳を使う」という事を一生懸命に推し進めました。

1990年代(手話と人工内耳の対立)
 
1990年からは手話の時代になりました。
 今でこそテレビなどでは手話通訳がついたりしていますが、それまでは無かったんですね。それが、手話がどんどん社会に浸透していき、手話通訳者が育っていった時代でした。

 すると、今まで手話を使ってこなかった人たちが、どんどん手話を使うようになり自信を持つようになっていきました。
 逆に、難聴イコール手話という固定概念が広まるという危機感も生まれました。

 それと同時期に人工内耳の適応が急速に広がりまして、手話を必要としない方法である人工内耳、それに対して外科手術を必要としない手話があるという、2つの考え方が対立する聴覚障害教育の課題が出てきました。

手話と人工内耳の共存
 その時、私は筑波技術短期大学の創設に関わりまして、聴覚障害を持つ青年たちと出会いました。その青年たちは大きく分けて半分がろう学校出身者、もう半分は一般の高校出身でした。
 その姿を見て手話と人工内耳の論争をしている時ではないと思いました。

 その学生たちを見ていましたら、人工内耳であれ手話であれ、ちゃんと大学受験をして合格し、その両方を身に着けている青年に成長しているんですね。
 母親が難聴を持つ子供を病院に連れていくと、手話にするのか、人工内耳にするのか早く決めなさいと、選択を迫られるという悩みを抱える時代になっていました。

 しかし、すでに社会にはその両方の考え方を身に着けた青年たちが育っていたんです。
 それであれば、あえて手話と人工内耳を2つに分けて対立軸を作るのではなく、どちらも勧めるようにしていったんですね。

 私なんかは補聴器の事しか話さないようなタイプだったので、その私から「手話も使うといいよ」と言うものですから、皆さんは驚かれたと思います。
 今では、耳鼻科医で手話通訳の資格保持者もいますし、聴覚障害を持つ耳鼻科医もずいぶん増えてきました。それに、以前であればろう学校の校長先生は手話を使わないのが当たり前だったのが、鳩原先生(宮城県聴覚支援学校 校長)をはじめ皆さんビックリするほど手話を使って意思疎通を図っています。

2000年代(情報保障)
 
2000年代になると、聞こえを自分自身で補う「聴覚補償」から、周囲が聴覚障がい者へ伝わりやすいシステムを作る「情報保障」の時代に入りました。
 2010年代は、私が長く務めた筑波技術短期大学を辞めて、東京大学 先端科学技術研究センターに移りまして、新しく「聞こえのバリアフリー研究室」を設置しました。

 その時期になると、世の中では耳の問題だけを考えるのではなく障害全般について考える時代になっていました。

 私も70歳になって東大に入りまして、様々な障害を持った学生がいる事を知りました。
 その学生たちも、地元では特に優秀であったため障害を持っているという事を周囲に知られることなく東大に入ってきました。すると、いくら地元で優秀であったと言っても、東大では並の東大生という位置になるんですね。そこで初めて挫折を味わうんです。
 ただでさえ難しい授業に加えて、聞こえの障害などがありますので、周りとの差が出てきてしまい、やっていけないという風に感じてしまうんですね。

 そこで初めて「私、耳が聞こえないんです」と、20歳近くになって障害のあることをカミングアウトするのを見てきました。
 それで大学側もエリート教育だけではなくて、障害に対するバリアフリーの体制作りをする事になりました。そうして出来たのが先ほどの「聞こえのバリアフリー研究室」です。

現在(バリアフリーとの衝突)
 
現在は、聞こえのバリアフリー・コンフリクト(衝突、対立など)の時代になっていると思います。
 1つの障害だけに集中するのではなく、障害全体の事を考えなければいけなくなりました。そのため、ろう学校としての専門性は低下してしまった面もあります。
 1つの障害の事だけを考えているとあまり良くない事がおきる時代、それがバリアフリー・コンフリクトの時代です。

これからの10年間(需要と対策)
 
今後の10年間では、ひょっとするとまた世の中が大きく変わって、ろう学校は何をすべきか? 難聴児教育の専門性とは何なのか? 言語聴覚士と何が違うのか? 耳鼻科医のやる事と何が違うのか? と言う事の見直しがあると思います。

 これは最新のニュースですが、2016年に全国のろう学校公聴会が、聴覚障害乳幼児の教育相談の実態報告をしました。
 どうして調査を行ったのか。先ほどお話ししたように乳幼児教室はもぐりだし、今でもろう学校が0~2歳の教育をやることに何の保障もないんですね。ボランティアなんです。

 しかし、その需要がどんどん高まってきて、しかも効果が出てくるもんですからやり続ける事になって、今では当たり前のように全国のろう学校には相談窓口があります。学校によっては一番子供が多いのは、乳幼児教育相談の部署という学校もあります。
 そのため、ろう学校の評価をする時に、乳幼児教育相談の人気がどれ位あるのかで、そのろう学校のレベルが判断されると言う人すらいます。
 それなのに、乳幼児教室を担当する先生には何の保障もなく、学校内で担当する先生を捻出してもらってやっています。もちろん少しの補助はありますが。

 そんな状態ではいかんと言う事で公聴会が調査をしたんですが、0~2歳の乳幼児教室の相談窓口にくる人が1万5千件もあったんですね。こんなに多くの件数を無償でやっていていいのか? ろう学校の先生の負担が大きすぎるんじゃないのか? となりました。

 私の古くからの知り合いで衆議院議員の山東昭子さんと言う方がいまして、聴覚障害福祉協会の会長を務められていた時に一緒に仕事をしていました。その協会の事業として公聴会の調査をもっと広げて、国としての調査に匹敵するものをやろうという事で、いま実施している最中です。
 1つの事が回りだすと弾みが出るもので、議員の中からも興味を持つ人が出てきまして、今まで暗黙していた文科省も動き出しました。
 これで、今まで保障のされなかった部分が改正されて、設備や教材・教具がきちんと揃えられるような時代になるかもしれません。

聴覚補償と情報保障
 先ほどお話しした「聴覚補償」と「情報保障」の2つは、手話通訳や要約筆記の世界でも混同され漢字も間違われることがあります。
 簡単に説明すると「聴覚補償」とは、本人が頑張って補聴器を使ったり人工内耳の手術を受けるなどして、障害を自分で軽くしていく努力をする事です。

 もう1つの「情報保障」とは、いくら本人が頑張っても出来ない事は出来ないので、周りがその子に情報を伝えやすい状態を保ってあげる事です。

 この2つの考え方の内、前者の聴覚補償は十分になされてきましたので、今後は後者の情報保障をやっていこうと言う機運が高まっています。
 人によっては、手話通訳者を付けてあげる事が情報保障だと捉える人もいますがそうではなくて、手話も、要約筆記も、字幕提示も、磁気ループを貼る事も、そういった事もすべてが難聴の耳に情報が届くように周りの人が仕組みを考えていくことが情報保障です。
 この情報保障の良い例として、良い補聴器と人工内耳を付けている子が授業を受けていて、新しく赴任した先生の話だけが良く分からないと言う事があります。これは、聴覚障害を持つ子にとって新しい先生の話し方が分かりにくかったためです。

 情報保障の時代では、そういった事に周りが気づかなければならないんです。

 私も含めて、若い頃は刺激のあるメリハリのつく話し方ができたのですが、年を重ねてくるとどうしても会話の間が下手だったり、声が枯れていたり、聞きにくいテンポになったりするんですね。
 なんにせよ、周囲の人が聞き取りやすい話し方をするマナーを身に着ける、これだけで難聴者や人工内耳を使う人、補聴器を付けた人はずいぶん助かるんですよね。

バリアフリー・コンフリクトとは
 そして、先ほどバリアフリー・コンフリクトと言う話をしました。
 人類は時間をかけて文明を、歴史を重ねてきましたが、いくつかのバリア(障壁)にぶつかって乗り越える事で発展してきました。

第1バリア(物理的障壁)(図6)
 まず第1のバリアが「物理的障壁」です。

図06
 図6


 川向うに肥沃な土地があるのに川を渡る手段がない。または山脈を超えた先に豊かな土地があるのに物理的に越えられなかったという障壁です。これが誰もが思いついたバリアだったんですね。

 この第1のバリアは文明の発展とともに無くなっていきました。
 それでも少なからず、駅にエレベーターが設置されていなかったり、まだまだ課題は残されてはいますけど。

第2バリア(情報・文化の障壁)(図7)
 第2のバリアは「情報・文化」のバリアです。

図07
 図7


 まさに聴覚障害のバリアはこれだった訳で、字幕が無いのが当たり前だと思っていたテレビに字幕がつきました。この第2のバリアが取り除かれてきたのがつい最近です。

 このバリア除去が最初になされたのが目の見えない人に向けた物でした。聴覚障害と違い、目が見えないのは大変だと共感されやすい部分があったので、いち早くバリア除去が進んだんですね。

第3バリア(法律の障壁)(図8)
 そして第3のバリアが「法律」のバリアです。人のために作られた法律が、逆に法律そのものが壁になってしまう例があります。

図08
 図8


 最初にあったのが薬剤師を目指した女性の例です。
 彼女は薬学部に入って勉学を積み、いざ資格を取ろうとした時に薬剤師法では耳の聞こえない人は薬剤師資格が取れないという条文があったんです。これもつい最近まで書いてあったんですね。

 誰もが読み飛ばすようなところにそんな条文が書かれていたために、彼女は薬剤師になる事が出来なかった。まさに法律が壁となって邪魔をしたという事です。そういう法律がたくさんあるんです。
 これは変えないといけないと言う事で法律改正や、薬剤師のルールがどんどん変わっていきました。

第4バリア(心の障壁)(図9)
 第4のバリアは、人それぞれの心や意識に残る障害に対するバリアです。これが一番厄介で今でもこれはすごい訳ですね。

図09
 図9


 第1~3のバリアはどんどん解決されてきています。つまりバリアフリーになってきたんですね。

第5バリア(バリアフリーへのバリア)(図10)
 ところが、このバリアフリーのある部分が究極まで行きつくと変なことが起き始めました。バリアフリーが生み出す新しい第5のバリアです。

図10
 図10


 例えば点字ブロックです。今では日本中に張り巡らされて、誰一人として反対する人はいませんでした。
 これだけ至る所に点字ブロックがあればさぞかし便利だろうと思っていましたが、実はアレが邪魔でしょうがなかったとか、アレさえなければ歩行が楽になると思って黙っていた人が、声を上げ始めたんですね。

(現実に、院長のお義母さんが高齢のために足が上がり辛くなっており、地下鉄泉中央駅の点字ブロックに躓いて転んでしまったことがあります)

 バリアを除去するためにやってきた事が行きつく前に、考えなければいけないバリアが生まれたんです。

 映画にもバンバン字幕が付いたんですが、そうすると「あの名シーンが台無しだ!」という人が出てきて反対運動が起きたんですね。なので、障害のバリアフリー化をする時はその周囲にも気を配ってバランス良くしなければいけない時代になってきました。

バリアフリー・コンフリクトの歴史
 このバリアフリー・コンフリクトと言う問題は、聴覚障害の世界では一番ドロドロとして生々しい喧嘩が、聴覚障害を支援する団体内でも続いてきたんです。
 もしかしたら、別の障害でも同様のコンフリクトが起きる可能性もあります。
 特に聴覚という世界は、障害の分野において先端を走って進歩してきたものですから、コンフリクトが激しいのかも知れません。

 皆さんご存知のように聴覚障害者の団体内での衝突や、日本ろう話学校と手話教育を行う明晴学園との間にも対立してきた歴史があります。
 または、古今東西に通じている口話法(発音時の口の形と、補聴器などから得た音情報を併用する教育法)と手話の対立、聴覚障害者のために創られたギャローデッド大学のギャローデッド先生とフランスの耳鼻科医で「アヴェロンの野生児」という本を書いたイタールさんとの対立など、多くの対立の歴史がありました。

 そうした中、難聴児を持つ親からは手話が良いのか人工内耳が良いのか、どうすれば人間らしい生活が送れるのかという未解決問題が突き付けられていました。

恩師の存在
 少し話を戻しまして、ずいぶん昔に日本の中でも先駆けて宮城県医師会がヒアリング・センターを作りました。
 これを作ったのは、私が恩師と言って憚らない耳鼻科医の三好佑先生(みよし たすく)でした。

 そもそも三好先生は宮城県ろう学校の校医であり、私が周囲の冷ややかな目のなか乳幼児教室をやっていた時に随分と助けて頂いた先生です。
 ある時には、君がやっているような事をアメリカの大学ではこのようにしていると教えて頂いたり、多くの本や資料を見せて頂いたり、耳鼻科健診の後に乳幼児教室に足を運んで頂いたりしました。
 その内に三好 佑先生から、耳鼻科とろう教育の両方を学んではどうか? と刺激を与えて頂きました。そして私が30歳後半の時にろう学校を辞めて、前述したアメリカ留学に繋がりました。

 その時の私は、乳幼児教室をやる中でどこかにモデルや見本がないかなと探していた時期でした。

 すると三好 佑先生から、アメリカのワシントン大学中央ろう研究所(CID)のデモ・ホームについて伺いまして、そこで初めて私と同じような事をやっている世界があるんだと知りました(図11)。

図11
 図11


 その大学には附属のろう学校、補聴クリニック、ノーベル賞級の方が所属するオーディオロジー研究所などがありまして、当時とても厳しい親子指導を行っているシモンズ・マーティン博士と出会いました(図12)。

図12
 図12


 この先生から、0歳児の早期教育の重要性や方法を学びました。
 そのシモンズ博士が言うには、親に絶対に守らせた8つのルールと言うのがあります(図13)。

図13
 図13


 本当は、親は最初にこのルールの全てを出来るようにならなければならないのですが、これにいつまでも縛られてもいけないと言う意味でも記載しています。

 そして、私はシモンズ博士の下で学んだあと、私は大学の別部門である補聴クリニックに入りました。ここでは患者さんの聴力検査や補聴器のフィッティングなどを行いました。
 その時に、ポペルカ教授という方とお会いしたのですが、この教授が何をしていたかと言うと、部屋の半分位を占める大きさのコンピューターを使って補聴器のフィッティングをする研究をしていました(図14)。

図14
 図14


 例えばイヤーモールド(耳の形に合わせた耳栓)の穴の大きさを変えると、高い音と低い音の調整ができると言った職人の手仕事の世界だったのが、コンピューターで出来るようにするという突拍子もない事の様に当時は思いました。ですが、今ではそれが当たり前となり、補聴器はコンピューターそのものとなりました。

 私も補聴器を使っていますが、両耳それぞれの補聴器が通信して、どの方向から音が来ているのかを強調して教えてくれます。

 また、今日は朝から補聴器を付けて新幹線に乗って仙台まで来ましたが、その間の騒音などのデータを補聴器が記録・分析しまして、次の時には自動的に応用してくれるという位に頭が良いんです。
 そういう補聴器のアイデアが生まれる前に、ポペルカ先生は一生懸命にコンピューターの研究をしていたんですね。こういう先生に巡り合ったんです。

 それから、聴能訓練という方法を生み出したアーバー博士や、数多くの補聴器が出てくるなか補聴器を選別するフィッティング法をまとめたパスコ博士などに師事しました(図15、16)。

図15
 図15

図16
 図16


 そして、今年出たばかりの私の著書で「教育オーディオロジーハンドブック」(図17)には、その頃に学んだ事のまとめですとか、私の弟子になった先生などに執筆してもらった内容が書かれています。こういった本が出来たのも恩師の方がいたからこそですね。

図17
 図17

つづく

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