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2022年8月(No.330)

 

マスクアンケートシリーズ③
大沼直紀Dr.の特別講演2
~聴覚障害に携わる方々へのメッセージ~

 

講 師:大沼 直紀 先生(筑波技術大学 名誉教授・元学長)
会 場:宮城県立聴覚支援学校

図01図 タイトル
大沼直紀先生と、会場となった聴覚支援学校


 2017年6月6日(火)、院長が学校医を務める聴覚支援学校(旧ろう学校)にて、院長とは昔からのお知り合いである筑波技術大学・名誉教授の大沼直紀先生による特別講義が行われました。
 2012年6月に開催しました当クリニックの開院20周年記念講演会では座長をお務め頂きまして、院長とはとてもご縁が深い先生です。

※以下、大沼先生の講演内容の続きです。


これからの人達へ
 さて、これから聴覚に関わる若い聴覚師さんたちや特別教室の方などに伝えたい事ですが、まず思い立ったら飛び出せば良い! という事です。いつまでもろう学校が良いとか、学校の先生が天職だと言うのではなく、何か変だなとか、ほかにやりたい事が閃いたという時には、若い時は思い立って飛び出して良いと思います。

 物理的もしくは精神的に飛び出しても良い、または今の時代はインターネットを使って情報収集や発信が出来るので、居ながらにして飛び出す事も出来ます。とにかくその現場に留まるのではなくて、世界の良い悪いも含めた動向を調べて、それを知った上で聴覚障害に関わるのが大事だと思います。

 世界と言う意味では、筑波技術大学と言うのは日本の中ではあまり知られていません。聴覚障害者のための総合スポーツ競技大会であるデフリンピックと言うのも、あまり認知はされていません。

 私は世界中の大学で講演をしていますが、この筑波技術大学という大学は世界ではとても有名です。
 先ほどお話ししたギャローデッド先生の作った手話教育を主としたギャローデッド大学は、今から152年前に設立しました。
 その次に理工学系のアメリカろう工科大学(NTID)が出来まして、3番目に出来たのが筑波技術大学です。

中国での仕事
 これ以降、主に中国が多いですがアジアを中心として聴覚障害を教育する大学がたくさん出来ました。私もアドバイスをしたり視察をしたりしまして、中国では4つの大学設立に関わりました。今ではこの4つの大学と筑波技術大学とは姉妹校提携をしています
 面白いのが、大学の学長はそれほど偉いわけではなく、実際の判断は書記(党書記)さんが行うんですね。

タイでの仕事
 あとは、タイの王室に聴覚障害のお子さんが生まれたので王宮の中にロイヤルろう学校を作りました。それがベースとなってバンコク市内に大学を作りました。

ロシアでの仕事
 ロシアでは、宇宙飛行士のガガーリン少佐が卒業したバウマン工科大学という大学がモスクワにありまして、そこでは冷戦前からロケットの開発競争をしていたんですね。
 ところが冷戦が終結すると、逆に規模縮小の波が押し寄せまして、職にあぶれた教員が出てしまったんです。それではイカンと言う事で、国が新しい大学を作ったんです。

 その内の1つが、バウマンモスクは州立工科大学という大学で、そこに聴覚障害を持つ子どもを受け入れる聴覚学院が出来ました。
 ロシアは広いので、全土からすごく優秀なろう者が集まりまして、工科大学の生徒にも引けを取らない成績を修めました。
 大学の学長と仲良くなった際、どうしてロケット開発をしていた方が学長になったのか聞いた事があります。学長は、ご自身の娘さんが小さい頃から聴覚障害を持っていたそうです。その当時は聴覚障害教育を行う学校もなかったので、学長自身が娘さんを教育し、娘さんも努力をして大学に入学できる学力を手に入れたそうです。そういった経緯があったので学長に選ばれたとの事でした。
 今では、ロシアに5つほどの聴覚障害教育を行う大学があるそうです。

韓国での仕事
 韓国でも、私は国立西活福祉大学とナザレ大学の2つの大学設立に関わりました。
 国立西活福祉大学が作られた経緯には、筑波技術大学を超える大学を作りたいという、その目的を達成すればよいという事で設立が決まりました

 では、どうすれば超えられるのか? と考えた時に、より広い障害の分野を集めた総合大学にすればよいと言う事になりました。ですがこれは失敗しました。聴覚障害者だからこそ専門の大学が必要であって、他の障害では必要とされなかったんです。
 先ほどお話ししたギャローデッド先生も聴覚障害の専門大学しか作らなかったのはそういった理由があったからです。

 聴覚障害者が高等教育を受けるには「情報保障」のされている大学が必要不可欠だからです。
 そこが問題の本質なのに、国立西活福祉大学では全ての障害に関わる教育をやろうとした。結果として、聴覚障害の学生が置いてきぼりになってしまったんです。今は見直しをしている最中ですね。
 こうした国際的な動きを見ていかないといけない、それが第1の提言である「世界に飛び出そう」という事です。

世界に飛び立つきっかけ
 さて、私が世界に目を向けるようになったきっかけですが、1975年に東京の帝国ホテルにおいて日本で初めての国際会議が開かれました(図18)。

図18
 図18


 私は当時20代の若者で、宮城ろう学校の代表として会議に参加しました。そこで私はとてもショックを受けたんです。
 その時の特別講演において、脳波聴力検査(ABR)の発明者でありノーベル賞候補のデービス博士と、聴覚障害教育学のパイオニアであるシルバーマン博士の記念講演を聴きまして、聴覚の世界の奥深さを感じたんですね(図19)。

図19
 図19


 後のアメリカ留学の際、ワシントン大学中央ろう研究所において、この二人のもとで勉強する事になるんです。
 そして、私がアメリカから帰国して就職先を探している時に、今井秀雄先生と言う人からお誘いを頂いたんです(図20)。ですが、私を宮城ろう学校の乳幼児教室で待っている親子連れもいましたので、県に掛け合って復職させて頂きました。今回はちゃんと県の職員としてお給料を頂ける形にして頂いたので、とても助かりました。

図20
 図20


 その後、今井先生から再度のお誘いを受けまして、昭和大学の研究所にお世話になる事になりました。
 昭和大学では、日本全国から難しい難聴を持った子供を診る外来を開いていたんですが、私はそこの岡本途也教授の元に10年居ました(図21)。大変に厳しい先生でして、若い先生なんかはこの先生の前では声も出なくなるような感じでした。本当は人情味の厚く慈悲深い先生なんですけどね。

図21
 図21
 ※岡本先生ご自身が中耳炎のopeを受けておられ、昔のタイプのopeだったので難聴があり補聴器を付けておられた。


 この先生の医局のカンファレンスで、いかにみんなで知恵を出し合って患者さんに対応するかを検討します。学校の先生ってそれがないんですね。全部自分一人で判断して成績をつけてしまいます。
 医局ではそんな事は出来ませんので、若い耳鼻科医の先生もメキメキと成長していきます。これも医学の世界が育てる後継者教育なんだと、身をもって体験しました。

恩師を見つける
 失礼な話になってしまいますが、これからの教育の世界はひどくなってしまうでしょう。それは県の教育委員会といった官製の研修会などは数多く実施されているんですが、逆にこの先生に師事したい! 自分でこれを学びたい! といった余裕や気概が段々と無くなって来ていますよね。

 やはり、自分自身で恩師を見つけて付いていく。自分がその先生の門下でもなく、その先生の居た学校の卒業生でもなくて良いので、とにかくアプローチをしていく。
 そうするといつしか目を掛けられて教えを受けることが出来ますし、恩師の方もその内に「こいつは弟子かも?」と意識するようになってきます。

 私もそうやって自分でアプローチをして、教えを受けた先生を勝手に恩師だと言っていました。時には、安月給ながら名産物を届けたりもしました。それでも、余りあるくらいの勉強をさせて貰いました。
 教育の世界では、こういった恩師を見つけづらくなっているから、ぜひ見つけて欲しいと思います。

補聴器相談医
 いま日本には約4千人の補聴器相談医がいます。耳鼻科医が約1万人いるとすると比率的にかなり多いですよね。つまり免許の安売りをしてしまったのかも知れない。
 確かに、補聴器や難聴児にまったく知識も関心もない耳鼻科医が多いものですから、補聴器相談医がいるだけで大変ありがたいです。

 ただ、耳鼻咽喉科学会が補聴器相談医の数を一気に増やした弊害もあって、いま補聴器相談医の再教育を行っている最中ですが、レベルの高い教育を受けた補聴器相談医には期待をしています。
 そして、全国にある聴覚障害の教育機関や組織に校医を就けるなら、少なくとも補聴器相談医の資格を持った医師を就けるべきだと、私は地方の講演会などで話しています。
 聴覚支援学校は、三好先生が親子二代にわたって校医をお務めなので、そんな事を言う必要はないのですが(笑)。

耳鼻科医に求められること
 では、なぜそういった事が必要なのか。
 全国の聾学校や難聴学級を見ると、そこには必ずと言って良いほどにすごい奇特な耳鼻科医が居て、若い医師がその先生に感銘を受けて仕事を引き継いでいました。

 それが現存する聾学校などの歴史にも残っていまして、歴代の校長先生のように写真が飾られているんです。それ程に耳鼻科医と言うのは学校に密着する必要があると言う事です。逆に、学校に密着した耳鼻科医は自然に教育を理解するようになります。

アヴェロンの野生児の教育者
 先ほどお話しした「アヴェロンの野生児」(3443通信 No.329参照)とも関係してくるんですが、フランスの山奥で狼に育てられた子どものお話ですね。山の中を真っ裸で、しかも四つん這いで走り回っていた子どもが発見されて、パリに連れてこられました。

 当時、西暦1800年前後は、人間とは何か? という研究がされていたんですね。そうした時にこのアヴェロンの野生児が見つかったもんですから、この子を研究すれば人間の本質とは何か? どんな条件で人間と言えるのか? と言った事が分かるのではないかと期待されたんですね。
 そして、このアヴェロンの野生児に色んな実験を行いましたが、真冬になると裸で外に出て走り回るなど、人間らしい行動がなかなか身に付かなかったんですね。

 じゃあ野生に帰そうと言ってもそうはいかないので、パリ国立聾話学校の校長先生が名乗り出て、自分のところの寄宿舎にその少年を引き取ったんです。
 その時、後に少年の名付け親となったジャン・イタール医師と巡り合ったんです(図22)。

図22
 図22


聴覚障害教育の源流
 この事を考えていくと、聴覚障害教育の源流が見えてきました。
 このイタールという人は超一流の耳鼻科医だったんです。彼は田舎からパリへとやってきてゆくゆくは一等医(当時は医師の階級があった)になるべく、パリ国立聾話(ろうわ)学校近くの陸軍病院で働いていました。

 そこで、ケガをした生徒の引率で来院した校長先生と出会います。
 校長先生はイタールの将来性に目を付けまして、「あのアヴェロンの野生児がうちにいるから働いてみないか?」と誘いを掛けます。運命が変わった一瞬ですね。

 そして、イタールは国立聾話学校の住み込み医師として勤務します。
 このパリ国立聾話学校は、手話を考案したミッシェル・ド・レペという人が作った初の手話による聾学校です。

 その2代目校長のシカール神父(フランス学士院 会員)が後を継いだ時に、イタールと出会うことになるんです。

 そのイタールは、アヴェロンの野生児に聴力検査、発音指導、聴能訓練、言語指導をやり始めます。そして、見事にある程度の人間らしい言語、発声、マナーを身につける事に成功します。
 ですが、やはり完璧に身に着けさせる事は出来なかったので、アヴェロンの野生児の教育は終了します。

アヴェロンの野生児の教育から学んだこと
 しかし、ほかに聾話学校に在籍する千人近い生徒たちがいたのですが、この時代ではまったく耳の聞こえない聾唖者であると決めつけられていたんです。
 その生徒たちの中には、聴覚を使って「言葉を出せる」「言葉を覚える」事が出来る子供も含まれている事に気づきます。そして、手話だけではなく聴覚も使った教育も行わなければならない事を示したんです。
 パリの歴史博物館に行くと、イタールが使ったヘッドフォンや集音器、伝声菅がたくさん残されています(図23、24)。

図23
 図23

図24
 図24


 面白かったのが、イタールは発音指導に熱心だったので生徒がきちんと発声できない理由についてこう言っています。
 耳に聞こえない子に対して、こうした機器を使って言葉を聞かせても、それを真似した子供自体が、その発音が正解なのかどうかが伝わっていない事にあると言っています。

 先生が「あ~」と言った後に子どもが真似をして、その発音が似てれば「それそれ!」と褒めたり、外れていれば「今のは違う」と言った先生の言葉が、子どもに伝わってないのでフィードバックがなされていないと言うのです。
 相手の声を聞くだけが補聴ではなくて、相手の声を聴いて模倣したその声が自分の耳に戻ってくる、ここまでしないと補聴にならないと気づきます。
 そしてラッパが2つ付いた補聴器を作ります(図25)。つまり自分の声と、見本となる先生の声が聞こえるように工夫したんですね。

図25
 図25


 それでこそ、赤ちゃんが喃語(なんご)を発声した時に周りが褒めてくれる。赤ちゃんは自分が発した音を聞いて、この音を出すと周りが喜ぶと思ってまた声を出す。こうして喃語の数が増えていって、それが発声となってくるという仕組みになるんです。

手話・聾話の敵対
 イタールがそんな事をやるもんだから、当然としてギャローデッドさん(手話教育を主とするギャローデッド大学の創設者)と喧嘩になります。
 ギャローデッドさんは、絶対に聾児は手話を使うことで幸せになると考えて大学まで作ってしまう人ですから、イタールの言う聾者で声が出せると言う教育とは真っ向から敵対してしまったんです。

 この時の敵対関係が、現在でも残ってしまっているんですね。

 そのイタールの下に弟子入りしてきたのがエドアール・セガンという人です。精神薄弱児教育の元祖と呼ばれた有名な先生です。
 この若いセガンがイタールに弟子入りをするんですが、その理由は知的発達障害を持つ子どもは言語獲得がうまくできないため、コミュニケーションが取れなかったんです。そんな時にイタールの話を聞いて弟子入りをして、その経験を基に精神薄弱児教育の基礎を作り上げたんです。

 そしてイタールが亡くなり、後を継いだセガンの下にマリア・モンテッソリー夫人が弟子入りします。

 この夫人はイタリアの耳鼻科医で、イタールを師と仰いだセガンの感覚教育を学んだんですが、これが後にモンテッソリー法という教育法として20世紀の教育思想に発展していったんです。
 聴覚障害の世界では、自分たちは他に比べて予算も規模も小さい遅れた分野だと思われていたんですがそうじゃありません。私たちの聾難聴教育から教わることが実はたくさんあるんですね。それを知らないんですね。この事を聾学校は、先端的機能として世の中に啓発していかなければなりません。

イタールの死後
 亡くなったイタールは、パリ国立聾話学校の校医の時に遺書を残しました。死後、自分の遺産をパリ国立聾話学校に寄付をすると言うものでした。ただし条件があって、手話だけの教育ではなくて残存聴覚を使う学級を作って欲しいと言うものでした。
 とても立派な志ですね。それくらいに意識が強かったんです。

 なお、さらに面白かったのが、イタールの後を継いで校医になったのがメニエール症候群を発見したメニエールだったんです。
 生前にイタールは、めまいと難聴の起きるメニエール病と同じ症状を持つ人を診たことがあって、その関係性についてどこかで症例を発表したんでしょうね。

 多分、それを聞いたメニエールが聾話学校に症例をたくさん持ってきて、イタールさんの症例と合わせて検証したんです。それをまとめ上げてメニエール症候群として発表したんです。
 その流れでメニエールは、イタールの死後にパリ国立聾話学校の校医を引き継いだという歴史があるんです。

教育の引継ぎ
 聴覚障害の教育を引き継いでいくには、組織ぐるみで残していかないとうまくいきません。そのためには、耳が聞こえなければ目を使えば良いと言った安易な方向に流れていくのではなくて、耳を使っていくんだと言う流れを組織が保持していかなければなりません。
 そのため、日本各地で教育オーディオロジー研究協議会が発足していきました。
 最初は1999年に近畿ブロックから発足していき順次東の方へ広がりをみせ、各協議会をおまとめるための組織として日本教育オーディオロジー研究協議会が作られました(図26)。

図26
 図26


 今は私がその会長を務めさせて頂いています。
 この組織には、全国から選りすぐりの500名の会員がおりますが、この人たちは物凄くレベルの高い聴覚の知識と指導法を身に着けていると自負しています。
 この先生方の全員が各地の協議会に所属していますから、聴覚に関する難しい質問を受けても、そのネットワークを駆使して適した先生を相互に紹介できるようにしています。

 こうした人材が揃ってきたので、それを支えていかなければなりません。放っておけば、ろう教育もどんどんと孤独化が進んでしまいますから、連携をしなければいけません。この連携先をどうするのか具体的にお話しすると、医業というのはどこかで必ず繋がっていなければならない。

 例えば、補聴器全体を取りまとめているのがテクノエイド協会。それから、補聴器の技術とフィッティングと売り上げをまとめている3つの業界団体(日本補聴器工業会、日本補聴器技能者協会、日本補聴器販売店協会)があります。

 さらに、認定補聴器技能者や言語聴覚士、手話通訳、要約筆記者、聴覚障害の当事者団体や親の会がありますが、これらが連携しなくなれば、この分野が滅亡していく前兆と言えます。
 その証拠として、昔は日本オーディオロジー学会と言われて、今では名称を変えて日本聴覚医学会と呼ばれる学会があります。

 耳鼻科医が中心となった学会ですが、2015年に開催された第60回大会のランチョンセミナーのテーマが、何と「特別支援学校(聾学校)はどう変わるべきか」というものでした。本来は、聾学校がやるべきテーマなのですが、耳鼻科の世界でやっているんです。

 セミナーでは、ある聾学校の授業風景や先生の指導法について発表がなされており、この学校は良いね! といった評価がされているんです。しかもそれを、本家本元の聾学校は知らないんです。
 セミナーには何人かの聾学校に勤める先生もいますが、こんな話になっている事を報告しても誰も信用しない。連携が無いので孤独化が進んでしまうんです。

 翌年の第61回大会では、人工内耳装用児の就学について議論がなされていました。これも聾学校がやるべき話なんですけどね。こういう事をやっていると知っていなければなりません。

聾者・聾文化と聴覚補償の両立
 そういう点から言うと、聾者や聾文化に対して、聴覚補償というのは対立をしてしまいます。
 前述したギャローデッドさんとイタールの対立のように、今では手話が人工内耳かで対立しています。いつまでも対立しても誰も喜びませんので、両立が出来ないのか。双方が、何が出来るかを考えるにはお互いの事を知らなければなりません。

 当時は、人工内耳の手術を1回やれば学位論文が書けた時代ですので、人工内耳の手術を念入りにやって症例を作って、それで学位論文を取っていたんです。
 今では人口内耳の手術例をたくさん増えて、機械的にも手術が出来るようになりましたので、学位論文が取りづらくなりました。だからお座なりになってしまうと言う危険性が出てきます。

 もう一方、手話言語が日本中に行き渡りまして、手話というコミュニケーション手段が社会に根付きました。しかしそうなると、手話さえやっていれば良いと言う偏った形になってしまいます。
 一般的に見ると、聾学校という場所は手話言語を徹底的に教えてくれる教育機関だ、と言う見方で相当数の人が思ってしまっています。聾学校とは、それぞれの聴覚レベルや言語発達が多様な子ども達が集まる場所なんだと言う事が、伝わらない雰囲気になってきていますね。

対立の雪解け
 しかし最近では、対立構造のある中でも良い動きが出てきました。聾と人工内耳の対立は激しく、日本聾話連盟と全難聴ですね。それから、聾児を持つ親の会と難聴児を持つ親の会、私立明晴学園と私立日本聾話学校、聴覚学を研究する人は人工内耳の賛成派が多いですね。それに対して聾文化研究者の先生たちは、圧倒的に人工内耳は反対の姿勢です。

 この対立が少しづつ解け始めていて、あれほど人工内耳に反対していた全日本聾唖連盟が、2016年に人工内耳に対するパブリックコメントを出しました。これが中々の文章ですよ。
 聾学校に新しく赴任した先生用に渡す、人工内耳のパンフレットに使えるくらいです。

 人工内耳なんて使えば聾唖者がいなくなり、人種差別に繋がるとさえ言っていた聾唖連盟が、ここまでの歩み寄りを見せている。こういった動きがある事も、難聴児教育の現場は知らないといけないです。
 こういった事を知った上で、相手方と連携が取れるようになるんです。

つづく

前話「聴覚障害に携わる方々へのメッセージ 1」(2022年7月 No.329)
次話「聴覚障害に携わる方々へのメッセージ 3」(2022年9月 No.331)

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