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2022年10月(No.332)

 

白老健診シリーズ
北海道開拓の先達・三好監物
~「宮城人 郷土の群像」(宝文堂)より~

図01
1971年7月1日 初版発行


はじめに
 この書籍は、明治100年を機に1968年宮城の歴史を紐解く企画として制作されました。
 109人の宮城人にスポットをあてて、それぞれの方々の家系を紐解き、現在の東北に影響を与えたと言われる幕末・維新の人々や、伊達騒動を中心とした江戸中期、そして若い明治の人物像について解説しています。
 この取材をきっかけとして、白老町の興りに三好一家が深く関わっていたことを知ることができ、今日までの白老町との深いご縁が歴史と言う一つの線となって再び繋がった貴重な機会となりました。


文化祭で祖先の偉業を知る
 大切なのは現在、そして未来だけだ。過去に一体何があるか――浪人中の三好彰君(十八)は四十四年の初めごろまでは祖先のことはもちろん、歴史に少しも興味を持てなかった。その彰君が、その年、母校の仙台一高の秋の文化祭で、テーマに「北海道開拓史」を選ぶことになった。
 同校の図書委員長だった彰君は進んで歴史をひもとかねばならぬはめになった。図書委員の同僚も手伝ってくれた。すぐ、仙台藩と北海道がゆかり深いことがわかった。彰君らは資料捜しのために北海道・白老町に手紙や電話で問合わせた。当然、開拓者の子孫のことも……。
 間もなく白老町から返事がきた。

「子孫は仙台市東三番町で三好という病院を開業している」と。

自分が五代目とは?
 彰君らは仙台なら簡単に捜せる。資料も借りられる、と飛上がって喜んだ。去年の夏のことだ。ところが、彰君はびっくりした。東三番町で三好病院は自分の家しかなかった。
 彰君はおそるおそる祖母の八重さん(七七)に「先祖は北海道開拓に関係はなかったか」と聞いた。「幕末のころ、先祖の三好監物という人が仙台藩から北海道の警備隊長として出かけたことがある」との返事だった。

 彰君は監物から数えて三好家の五代目だったのだ。さらに、八重さんが監物直筆の掛物、南画、蝦夷(えぞ)地の地図、記録などを大切に保存していることも知った。八重さんも、父親の佑(たすく)院長(四七)も母親の裕子さん(四一)も、監物のことについてはなにひとつ、それまで彰君に話してくれたことがなかった。文化祭は家の歴史を彰君に教えてくれたのだ。いまでは三好家で一番の監物通は彰君である。

 三好耳鼻咽喉科。従業員約三十名。医師三人。ベッド数四十。耳鼻咽喉科では市内唯一の病院。監物から四代目の三好拓院長は同市医師会の理事。三好院長は毎日が忙しい。昼は患者の診察、夜は医師会の仕事、家族いっしょに顔を合わせることも珍しい。だから、祖先のことを調べる余裕もなかった。もちろん、祖母の八重さんは「監物が明治元年に死んだとき、朝廷から二百円の供養料を贈られたこと。藩主が墓標を作ってくれたこと。郷里に監物を祭った三好神社があること」などを知っていた。しかし、三好院長は自分の先祖が監物だということは知っていたが、そうした細かいことは八重さんからも聞いていなかった。

 現実の生活が忙しすぎた院長には、そんなことはむしろ、どうでもよかったのかもしれない。が、彰君のことがきっかけになり、院長も家の歴史に興味を持った。監物のことを調べずには、いられなくなった。しかし、家には系図もなかった。だから、院長は仙台藩に関する書物を古本屋で片っぱしから買いあさった。そして――監物には七男四女がいたこと、父の桂(医師)は監物の実子の養子だったこと、さらに監物が幕末の仙台藩の重臣で、蝦夷地の仙台藩初代備頭(そなえがしら)だったこと、勤皇と佐幕の対立の中で苦悩したが、勤皇に力を入れていたこと、結局は自分の主張を譲らず自害してしまったこと、などを知った。

実録が語る北方領土
「北方領土は日本固有の領土。ソ連がどんないいわけをしようとも監物直筆の『蝦夷地道中実録』を見れば明らか。この間、秘書を通じて愛知外相にこの実録を見てほしいと訴えた」と院長は力説する。そして続けた。

「この実録を残してくれた祖先に感謝している」と。

 そばにきちんとすわっていた八重さんがつけ加えた。

「母のみきからいつも聞かされましたが、監物は現実と理想のなかで迷い、苦しんだ人でした」。

 監物は学識も深く、南画をよくしたといわれる。三好家の床の間にもその南画がかかっていた。遺品といえば、この南画と四、五本の掛物、藩の重臣で仲のよかった大条孫三郎にあてた手紙類など十余点。八重さんは、ほとんどの遺品は戦災で焼けてしまったという。

「監物の直系は東京、横浜などに行ってしまい、県内にいるのは私たちだけ。監物の墓守りは自分の仕事になってしまった」と院長は感慨深げにいう。

遺品の南画も保存
 三好家の人々はあまり多くを語ろうとはしなかった。が、院長は最後に「歴史を知らない人たちには客観性がない。だから人を納得させる力も弱い。歴史に無関心だった過去の自分も反省しているし、若い医者仲間にも、もっと歴史を見る目を……と訴えることにしている」といった。そばで彰君もうなずいた。三好家の応接室に月の光がさし込んできた。中秋の満月だった。彰君がひとりごとのようにいった。

「監物は、この満月をながめながら自害したんですね」

図02
 左から3番目が院長


メモ
三好監物 一八一五年十二月二日、仙台領東磐井郡黄海村(現、岩手県東磐井郡藤沢町)の五百石の家柄に生れた。通称武三郎、後に監物と称した。その祖先は阿波国三好郡にいたため、三好氏と称した。織田氏に滅ぼされ、三好氏の一族の義元ひとりが難をのがれ、藩祖政宗に仕えた。黄海村に五百石を賜った。監物は公儀使にと昇進、江戸で諸藩との外交にあたった。四十三歳の時には北海道警備の備頭兼旗本奉行、四十五歳で若年寄。当時、藩内は尊王攘夷派と開国平和派との間で激しい論争があり、監物は一時尊皇派を弾劾した。官軍一行が仙台にはいると、坂本大炊とともに藩論を動かし、会津征討の軍を起させたが、藩論が反官軍に傾いたため、黄海村に閉居、戊辰戦争の最中の明治元年八月十四日、自害。五十四歳。
(仙台先哲偉人録から)

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