3443通信3443 News

2022年12月(No.334)

 

アンパンマン誕生秘話
戦禍から生まれたヒーロー

院長 三好 彰


はじめに

「お耳の中でバイキンマンが暴れてるよ? いまからアンパンチで退治してあげるからね!」

 これは、当院を受診した急性中耳炎の子どもさんに向けて、鼓膜切開の説明をする際に使う言葉です(図1)。
 寒い季節になると体調を崩しやすくなり、特に子どもさんは風邪症状と共に「耳が痛い!」と言うことがよくあります。
 これは「急性中耳炎」でのどの炎症が、耳管(じかん)というのどと耳の奥(中耳)を繋ぐ管を通して波及する症状です。細菌感染により中耳腔に膿が溜まり、内側から鼓膜を強く圧迫するために刺すような痛みが起きます。

 そのため、鼓膜に小さな穴をあけて膿が出るようにしてやると、圧力が下がって痛みもなくなります。これを鼓膜切開術と呼んでいるのですが、子どもにはなんだか意味も分からないし怖がらせてしまうので、皆のヒーローであるアンパンマンに例えて説明しているのです。

図01 プチ3443劇場19話 No.104
 図01


アンパンマンのモデルは?
 さて、この大人気のキャラクター・アンパンマン。故・やなせたかし氏が原作ということは皆さんご存じかと思いますが、実はこのアンパンマンのモデル(?)が、やなせ氏ただ一人の弟・千尋氏かも知れないというお話をご存じでしょうか。
 まるでコンパスで描いたような丸い顔。
 学業・運動に優れ、愛嬌に溢れた人柄で友人たちからも多いに好かれた自慢の弟だったそうで、まるでアンパンマンのキャラクターをそのまま表したかのような人物像だったそうです。

 柳瀬嵩(やなせたかし)氏は東京生まれ。弟の千尋氏は新聞記者である父親が上海転勤した際に上海で生まれました。
 しかし、父親が中国・厦門(アモイ)の転勤になると同時に家族は東京に戻り、その父親が厦門で亡くなったことで縁故を頼りに高地へと移りました。
 その後、弟の千尋氏は叔父の家(柳瀬医院)へと養子に入り、母親の再婚を契機として兄の嵩氏もその叔父の家に養子として入りました。

 嵩氏、7歳の時でした。

 そして時代は流れ、嵩氏は養父のアドバイスで進んだ東京高等工芸学校図案科を卒業し東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)宣伝部に就職。千尋氏は養母の実家のある京都帝大法学部に進学を果たします。

柳瀬兄弟の戦争体験
 1941年12月8日早朝。
 日本中のラジオが一斉に同じニュースを告げます。

「——大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国海軍は今八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり……」

 アメリカを主体とした欧州列強の対日圧力が限界を迎えたこの日、日本帝国海軍の空母機動部隊がハワイ真珠湾を攻撃。日本は日英との戦争に突入しました。
 緒戦こそ破竹の快進撃を続けた日本でしたが、強大な工業力を背景にしたアメリカの軍備体制カが整い始めると次第に戦況はひっ迫し、各地で苦戦を強いられていきます。

 あらゆる物的・人的資源を欲した日本は、将来を担う学生たちをも戦地に投入する「学徒出陣」を発令します。当時のエリートコースを歩んでいた優秀な生徒たちが順次入隊し、通常4年である訓練期間を4カ月に圧縮した促成教育を施され、戦地へと赴いて行きました。

苦戦する日本
 緒戦の勢いに乗って東南アジア・南太平洋に勢力圏を拡大した日本軍でしたが、1942年6月5日、日米両海軍の空母機動艦隊が矛を交えたミッドウェー海戦において、日本海軍は正規空母4隻を含む空母機動艦隊を失い、これをきっかけとして徐々に苦戦を強いられるようになります。
 制空権・制海権を失った日本は、アメリカ軍の潜水艦隊による通商破壊作戦“狼群戦法(ウルフパック)”によって国の動脈である海路を脅かされてしまい、多くの輸送艦が沈められていきました。

音楽で鍛えた“耳”で海軍へ
 弟・千尋氏は、この国の動脈とも言える海路防衛の要である輸送艦護衛の任務に就きます。
 千尋氏は、軍艦に乗り込んで海中の音を探る水測手(ソナーマン)という対潜水艦のエキスパートを担う部署に配属されました。

 実は千尋氏は、実父・養父ともに音楽好きということもあって洋楽や和楽の造詣が深く、そこで培われた聴力を見いだされての選抜だったと言われています。
 低速で自衛能力のない輸送艦にとって、潜水艦はまさに天敵。
 海中に潜む潜水艦から放たれる必殺の魚雷は、装甲の薄い輸送艦を一発で行動不能へと追いやる恐怖の存在でした。

 千尋氏は、その鍛えられた聴力を活かすべく駆逐艦「呉竹」の水測手として乗艦します。
 この水側室という部署は海中の微細な音を人の耳で聞き分ける必要があるため、様々な雑音から切り離された環境が望ましくなります。そのため水側室は艦底に近い場所に設置されることが多く、それは艦が沈む際に脱出が困難であることを意味しています。

 ちなみに、千尋氏を含めた海軍兵科三期生の予備学生3,660名の中で、千尋氏の専攻した対潜学校・艦艇班の戦死率は34.1パーセント。実に3人に1人が戦死するという極めて高い比率であったと言われています。

水底に沈む
 輸送艦護衛の任務に就いていた駆逐艦「呉竹」ですが、年明けを目前に控えた1944年12月30日、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡において、アメリカ潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没します。
 呉竹が最初の雷撃を受けたのは、千尋氏がつめた水側室のある艦首付近であったと、生存者の証言などをまとめた『慟哭の海峡』(図2)にて、作家の門田隆将氏が書かれています。

図02
 図2


 全長6メートル近い魚雷に搭載された約300キロもの高性能軍用爆薬の威力は凄まじく、装甲の薄い駆逐艦「呉竹」はその一発で艦首一帯がまるまる吹き飛び、航行不能となってしまいます。
 千尋氏の遺品も遺骸もなにもかもがバシー海峡の水底で静かに眠っており、中国戦線から復員した嵩氏が再会できたのは、仏壇に置かれた壺に入った名前が書かれた一枚の木札のみだったそうです。

 後に嵩氏は、弟の戦死したバシー海峡が、多くの戦没艦を生み出した“輸送船の墓場”“魔の海峡”と呼ばれる激戦地であったことを耳にします。

脱サラして漫画家へ
 戦後、嵩氏は高知新聞社会部の記者となり、そこから移動先である『月刊高知』の編集会社にて後の伴侶である小松暢さんと出会います。その小松さんの上京に合わせて嵩氏も行動を共にし、嵩氏は運よく日本橋三越に就職します。
 しかし資本家と労働者との労使闘争が本格化していくと、嵩氏はそうした動きには一切乗ることはなく、逆にフリーの漫画家になりたいという想いを強くしていきました。

 そして嵩氏は、妻・暢さんの後押しもあって脱サラし、フリーの漫画家となります。
 嵩氏は、新聞や雑誌に掲載される一コマ漫画や四コマ漫画を多く手掛け、その仕事量は月に二十五本にも達したそうです。

激動の漫画界
 その頃、漫画界に大きな変化が訪れます。
 後に『鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』を世に送り出した漫画の神・手塚治虫の登場です。
 それまでの漫画は、本や冊子・新聞などの片隅を彩るものとして用いられていましたが、手塚氏による前述の長編漫画シリーズによってこれまでとは全く違う、絵主体の漫画ブームが到来したのです。

 手塚氏の影響を受けた若手漫画家たちは、揃って新しい漫画を世に解き放っていくなか、嵩氏は漫画とは別の分野であるテレビの構成作家としての頭角を現していました。
 いわゆる戦前派と呼ばれる嵩氏のような漫画家は、この長編漫画ブームの潮流に乗ることが出来なかったそうです。
 嵩氏は、大成しない漫画家としての自分に忸怩たる思いを抱きつつも、童謡『手にひらを太陽に』、詩集『愛する歌』などの漫画以外の大ヒット作品を生み出していきます。

アンパンマン誕生
 嵩氏が初めてアンパンマンを世に問うたのは1973年のことでした。
 それ以前に嵩氏自身が手がけた絵本『とぶワニ』(岩波書店)や『やさしいライオン』(フレーベル館)が好評だったことから、次回作品として『あんぱんまん』を作り上げたのです。

 ですが、その反応は冷ややかなもので「顔を食べさせるなんて残酷だ!」という、成熟した大人たちの感性には理解されることはありませんでした。
 嵩氏もこのアンパンマンの初期作は「売れないと思っていた」と、著書『アンパンマンの遺書』で書かれています。

 嵩氏が描きたかったアンパンマンというヒーロー像は、悪と戦ったヒーローが傷一つも追わずに懲悪するような決して綺麗なものでもなく「ほんとうの正義というものはカッコいいものでもなく、自分自身すらも深く傷付くものだ」と思っていたそうです。
 最初の『あんぱんまん』発表の2年後、1975年に絵柄を子ども向けに手直しし、タイトルも片仮名の『アンパンマン』として再出版されました。

もう一人の生みの親
 大人の理解を得られなかった『アンパンマン』ですが、子どもたちにはとにかく人気だったと、その絵本を置いていた幼稚園の先生は語っていました。

 ある時、日本テレビのプロデューサーだった武井英彦氏は、子どもの預け先である幼稚園の参観日に参加します。

「これは何だ……」

 それは一冊のボロボロに汚れた絵本でした。
 他の絵本はキレイであるにも関わらず、その一冊だけが使い古されて一際汚れていたのが目についたのです。

 武井氏が幼稚園の先生に尋ねると「子どもたちに大人気の絵本で、とっかえひっかえページをめくるので手垢まみれなんですよ」と言われました。
 その絵本は一般書店での販売がされず、幼稚園に直接販売される『キンダーおはなしえほん』というおはなし絵本シリーズだったのです。
 それこそがまさに、嵩氏が生み出した『アンパンマン』の絵本でした。

 自分の顔を食べさせるという特異なキャラクターに、武井氏の意識は一気にアンパンマンに引き込まれてしまいました。

 武井氏は、今でも知られる人気アニメ作品『新・エースをねらえ!』や『キン肉マン』を手掛けた人物でした。その武井氏が幼稚園児に絶大な人気を誇る『アンパンマン』を放っておくわけがありません。
 翌日、直ぐにフレーベル館や嵩氏の元を訪れた武井氏は『アンパンマン』の映像化権の許諾について打ち合わせし、日本テレビの上層部に企画を持ち掛けました。
 ですが、やはりここでも“大人”の壁は厚く立ちはだかります。

「頭をかじるなんて気持ち悪い……」

 上層部やスポンサーに理解を求めようと奔走する武井氏。
 その努力が認められたのは、アンパンマンとの出会いから2年の月日を必要としました。

 武井氏は、日本テレビに連なる様々な関連会社にアンパンマン製作の出資を持ち掛け、かつその放送権や商品化権、キャラクター商品の利益などを分配する約束をすることでお膳立てを全て作り上げてしまいました。

 今ではごく当たり前の手法ですが、当時はテレビ局の編成予算ですべて賄うのが通常でしたので、武井氏の“寄せ集め手法”は画期的だったのだと思います。
 これには上層部も文句を言うことは出来ず「じゃあ、やれ」とのゴーサインを得る事に成功します。

アンパンマンブームの始まり

「最初は視聴率5パーセントも取れれば御の字」

 そう思っていた武井氏でしたが、関東一郡六県で公開された『それいけ! アンパンマン』は10パーセント近い数値をはじき出し、放送2カ月後のクリスマスには17パーセントもの視聴率を達成しました(日本テレビ版以前にも、NHK総合版の短編アニメ「あんぱんまん」が放送されたことがあります)。

 それから一気に全国区へと広がっていったアンパンマンは、子どもたちに不動の人気を誇る超人気作品の地位を築き上げました。今では絵本、アニメ、おもちゃと子どもが触れるあらゆる場面に、笑顔を絶やさないアンパンマンがこちらを見守っています。

「アンパンマンの顔を描くとき、どこか弟に似ているところがあって、胸がキュンと切なくなります」

 この言葉は、嵩氏が2005年に出版した『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)の一説です。
 嵩氏がアンパンマンを描く時、弟・千尋氏をモチーフにしたとは明言されていません。ですが、その深層心理には、国(故郷)を守るために戦地に赴き、自らを犠牲にして任務に就いた丸顔の弟・千尋氏のイメージがあったことは間違いなかったのでしょう。

 嵩氏はよく「作品というのは自分の人生で描く」という持論を話されていたそうです。アンパンマンの顔を千切って他者に与える“自己犠牲精神”は、嵩氏の戦争中の“飢え”という経験と、家族である千尋氏の“自己犠牲”によって醸成された、自ら傷を負うことを厭わないヒーロー像だったのでしょう。

おわりに
 この記事は、門田隆将氏の著書『慟哭の海峡』をもとにしています。
 誰もが知るヒーローであるアンパンマンが、実は当時の大人からは全く理解されず、嫌悪感すら抱かれたということに生まれた時からアンパンマンを知っている私には衝撃でした。

 たしかに”自分の顔を千切る”という、いまだアニメ・漫画の概念が定着しきっていない当時にあっては特に奇異に映ったんだろうと、想像を膨らませるしかありませんでした。

 そして嵩氏の弟・千尋氏の存在も全く知らず、アンパンマンを知っているのに“知らない”という不勉強さを恥じてしまいました。
 紙面や画面からは一切感じられないヒーローの深い影。
 急性中耳炎の子どもを始め、子どもたちの心を深く掴むアンパンマンというヒーロー誕生の裏に、これほど壮絶な経験と想いが詰まっていることに言葉を失ってしまいました。
 もしご興味があれば、門田氏の本書にぜひお目通し下さい。
 ここでは書ききれなかったお話の数々が、これでもかと詰まっています。

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