3443通信3443 News

2023年9月 No.343

 

東日本大震災シリーズ
映画『生きる』鑑賞レポ

秘書課 菅野 瞳

図00


はじめに
 東日本大震災から今年で12年目を迎え、3443通信No.339では石巻市の震災遺構大川小学校『竹あかり』鑑賞記を綴りました。
 優しくそして温かいあの竹あかりには、ご遺族の方の様々な想いが込められていると書きましたが、大川小学校で起きた悲劇について、ご存知の方も多いのではないかと思います(図1)。

図01
 図1 幻想的な竹あかりの光景


 日本大震災発生から51分後(15時37分で、校舎内にあった掛時計は止まっています)に、大川小学校は津波にのまれました。
 地震発生時には、ラジオや行政防災無線で津波情報は学校側にも当然伝わり、生徒は校庭に集められ、スクールバスも待機している状況でした。避難準備が整っていたにもかかわらず、大川小学校は無残にも多数の犠牲者を出すことになりました。彼らには、津波から逃げる時間が十二分にあったことは、校舎内の掛時計が指し示しています。

 では一体、彼らは何故命を落とすことになったのか。これは自然災害とは言えないのではないか。自然災害によるやむを得ない死でないならば、命を落とすことになった子どもたちの、理不尽な死の犯人を見つけたい、というご遺族の強い信念による闘いの記録が映画になりました。

 その映画のタイトルは『生きる~大川小学校津波裁判を闘った人たち』です。

 仙台市での上映予定はフォーラム仙台にて3月17日(金)から。上映開始から3日の間は、上映終了後にトークイベントが行われると告知があります。

「折角ですから、トークイベントがある時に鑑賞に行ってらっしゃいな」と院長。

 そのお言葉に甘え、是非監督さんのお話しを聞いてみたいので、寺田監督が壇上に上がられるその日に行きます、と直訴しました。

大盛況だった仙台上映
 仙台での上映開始から2日目となる3月18日(土)、この日のトークイベントゲストは、寺田監督と映画の主題歌を唄う廣瀬さんです(図2)。もう何度となく足を運び、見慣れている筈のフォーラム仙台の館内は、入りきらない程の人でごった返しており、この映画への関心の高さが窺えました。

図02
 図2


 予想はついていましたが、公開2日目の上映は、1席も空席がないという、案の定の満席です。上映開始早々スクリーンには、先日私が竹あかりの行事で目にした震災遺構大川小学校が映し出され、熱心に大川小学校津波裁判の原告遺族の話に耳を傾ける、代理人弁護士の姿がありました。

 2014年3月10日、時効を迎える前日に、犠牲となった児童74名のうちの23名のご遺族が、石巻市と宮城県を被告とした損害賠償訴訟を仙台地裁に提起し、10年にも及ぶ裁判が始まりました。
「裁判なんて、本当はしたくなかった」と仰っていたご遺族が、何故裁判という手段に踏み切ったのか、踏み切らざるを得なかったのか……その真相を究明した映画『生きる』を見ていきたいと思います。

実際の震災映像
 この映画の映像素材は、原告遺族のお一人である、只野さん(父・妻・長女を津波で亡くされています)が記録し続けたデータが大半を占めています。石巻市が、震災から1カ月後に行った第1回遺族説明会は、2011年4月9日に開かれました。どんなにその内容が辛かろうとも、大事な可愛い自分達の子供が命を落とすことになった原因を究明したいと願うのは、当然の親心でしょう。

杜撰な対応に憤る遺族
 その気持ちとは裏腹に、第1回、第2回と説明会を重ねる度、ご遺族の市や教育委員会に対する不信感は増していきます。あのような状況下で、なんとか生き残った児童からの聞き取り調査は、親の承諾も得ぬままに行われた挙句、一切の録音もされずに立ち会った担任等の走り書きのメモですら廃棄する始末。一体何のために行われた聞き取り調査だったのか……証拠隠滅に証言の捏造。もう、自分たちの保身のためのやりたい放題の不法行為の事実が浮き彫りになりました。

 説明会の映像がスクリーンに映し出される度、例えようのない怒りが込み上げ、無意識に力一杯こぶしを握り締めていた私の掌には、うっすらと血が滲んでいました。そのような中で、私が最も怒りを感じたのは、第2回の説明会時に、当時の石巻市長が口にした一言です。

「これは宿命です」。

 宿命? 私は自分の耳を一瞬疑いました。
 宿命……この一言が、お子さんを亡くされた親御さんたちを、どれだけ傷付けたことか。宿命ならば致し方ない? 一体それを誰が信じ、納得するのでしょうか? 学校というものが、預かるお子さんの命に責任を持つというのは、当たり前のことですが、自分たちの保身だけを考えて放ったその一言と、ご遺族の方々が瞬時に抱いたであろう、悔しくてやりきれない気持ちを思うと、怒りで震えが止まらなくなりました。
 人は時にヒューマンエラーを起こします。意図しない人間の行為をヒューマンエラーと言いますが、学校側が起きてしまった事実を正直に話し、自分たちの責任逃れなどせずに真摯で誠実に向き合えば、ご遺族は提訴と言う最終手段には訴えなかったと思います。

立ち上がった2名の弁護士
 真実に辿り着く兆しが見えず、学校側との溝が深くなる一方で、失意の底に沈んでいたご遺族を支え続けたのは、2名の弁護士でした。両弁護士は、あたかもカウンセラーのようにご遺族に寄り添い続け、ご遺族と共に何度も何度も現場検証を繰り返すその姿は言葉になりませんでした。しかしながらその行為は、我が子は死ななくてすんだ筈、助かった命の筈なのだと確信を得ていくことに繋がり、裁判に勝つためだとは言え、残酷な作業だったことは、言うまでもありません。

 そのような中、原告遺族に対し、そんなに金が欲しいのか、殺す、火をつける、などと綴られた脅迫文が送りつけられます。大事なお子さんを亡くされた親御さんが、何故このような罵詈雑言を浴びせられねばならないのでしょうか。訴訟に於いては、亡くなった人を返して欲しいという提訴は出来ず、逸失利益(事故が起きなければ将来得られたであろう収入)を計算し、損害賠償請求をします。我が子の命に値段をつけ、そうすることによってしか、あの時に何が起き、何が問題だったのかを明らかにすることが出来ないという非情。結果、自分の子どもに1億などという値段をつけるのはけしからんとか、毒親であるかのような僻見を抱かれてしまいます。

 提訴後に、多くの誹謗中傷を受けたご遺族は、まるで2度殺された気分だったと、当時の心境を述べています。ご遺族の想いなど微塵も顧みず、心無い言葉を投げかけた人たちが、この映画を観て自分たちのした行いが誤りだったことを悔い、あなた方が見ようとさえしなかった“真実”を、正確に把握することの大切さを、痛感して欲しいなと思いました。

学校は子どもたちが命を終える場所ではない
 2016年10月26日、仙台地裁にて原告側勝訴“現場過失認定”の判決がくだりました。津波が到達するであろうことを、遅くとも7分前までには予見でき、児童は裏山に避難が可能だったとして、現場の教師らの過失を認定しました。
 それから1年半後の2018年4月26日、控訴審が行われた仙台高裁にて原告側勝訴“平時からの組織的過失認定”の判決がくだります。石巻市教育委員会・大川小学校校長や副校長らが、組織全体として地震発生前に津波避難場所を定め、避難訓練をし、児童の安全を確保すべき義務を負っていたにも関わらずこれを怠ったという、地震の前の備え(事前の予測防災対策)を重視した判決になりました。

 2019年10月10日、最高裁は上告を棄却・不受理を決定し、仙台高裁の判決が確定しました。

 控訴審判決の折、裁判官は「学校が、子どもたちの命の最後の場所になってはならない」と断罪します。

 この言葉は、全国で未だいじめや体罰から子どもたちの命を守り切れない学校や社会全体、私たち一人ひとりに鋭く向けられており、大川小学校の記憶とともに、この言葉が広く深く、永遠に根付いて欲しいものだなと思いました。

映画を観た私感
 これは余計な一言だと思われてしまうかもしれませんが、映画を見終えた時にご遺族は心底裁判での勝訴を喜び、納得が出来たのだろうか、という疑念を抱きました。親御さんたちは決して賠償が目的ではなく、また一般的な国や県の震災の責任を問うことが目的ではなかった筈です。
 親御さんたちは、この裁判の判決が出る時にずっと伏せられ続けた真実が、ようやっとようやっと明らかになると思った筈なのです。そして裁判では、1分もかかららずに裏山に避難することが出来たであろうに、なぜか避難しなかったという過失は認められました。

 しかしどうでしょう。それは親御さんたちだけではなく、大川小学校で起きたこの悲惨な事故を御存知の方は、皆が知っていたことではないでしょうか。親御さんたちが知りたかったのは、嘘偽りのない“震災当日に起きた真実”です。残念なことにそれは、教育委員会や行政により、隠されたままになりました。

 民事裁判というものは、事実の追求が目的ではなく損害賠償の可否にあるため、限界があったのだということは十二分に分かります。ただ私は、この裁判に声を挙げたくとも、挙げることが出来なかった方々の想いや、真実を話したくても、圧力などもあり口をつぐまざるを得なかった方々の真の想いを、判決後にでも遅いということはないので、取り上げて頂ければ良かったなと思いました。

 次世代に向け、震災が起きたという記憶や教訓のために、震災が原因で倒壊した建物などを取り壊さず保存したものを、震災遺構と言いますが、“生きる”というこの映画もまた、震災が引き金となり裁判へと発展し、のべ10年もの記録を撮り続けた、後世に残すべき作品だと私は思います。自分たちの子供を助けることが出来なかった、という深い挫折感と、喪失感に押し潰されそうになりながらも、真実追及を諦めることなく、最後まで闘い抜いた親御さんと、いつ何時にも親御さんへの配慮を忘れず、寄り添い続けた弁護団に、心から敬意を表したいと思います。

最後に
 この映画の土台となる映像を撮り続けた只野さんは「この裁判は嘘から始まった」と仰っていました。裁判は確かに終止符が打たれましたが、嘘は明らかになっていません。残るのは道義的責任ではないかと思います。それを成し得て、初めて亡くなられた方々への供養になるのではないかと思いました。

図03
 図3 学校すぐ裏手の丘。ここに避難さえ出来ていれば……

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