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2024年3月 No.349

 

南三陸「震災語り部バスツアー」参加レポ

秘書課 菅野 瞳 

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“勿忘(わすれな)”語り部バス
 去る2024年2月25日(日)、東日本大震災を風化させまいと南三陸町にある『南三陸ホテル観洋』が運行しているバスツアーに参加して来ました。
 当初このツアーは、ホテル宿泊客向けに実施されていたものでしたが、防災意識を高めるきっかけにして欲しいとの願いから一般にも開放するようになり、その後は参加希望の声を多数頂いているのだそうです。
 本日の語り部バスツアーは、ホテル観洋を出発し、2021年3月に供用を開始した三陸縦貫自動車道の気仙沼湾横断橋(愛称を『かなえ大橋』と言います)を経由し、気仙沼の人気の立ち拠り所の一つに挙げられる『お魚いちば』へと向かいます。

 この『お魚いちば』はいつ訪れても活気がありますが、俳優の渡辺謙さんが近隣にカフェをオープンさせたことでも有名な場所になりました。こちらのカフェは震災の津波で人が集まる場所が全部なくなってしまったという住民の声を、被災地に出向いていた渡辺氏が重く受け止め、それでは皆が顔を合わせ談笑が出来る場を作ろう、というコンセプトの基に設立されたのだそうです。

『お魚いちば』に立ち寄った後は、東日本大震災のみならず、三陸沿岸部を中心とした、過去の津波災害の記録の提供を行っている『リアス・アーク美術館』を訪れ、本日の語り部バスツアーの大本命とも言える『いのちの階段』を見学し帰路に就きます。半日で終了予定のツアーではありますが、学びが多いものになるであろうことは、予想がついていました。

一人目の語り部「震災“ガレキ”なんて物はない」
 定刻より少し遅れてバスは出発し、早速一人目の語り部さんである宮川さんがマイクを握りました(図1)。

図01
 図1 噛み締めるように当時を振り返る宮川さん


 震災当日は、嫁いだ先のおばあ様から、耳にタコが出来てしまう程に、散々刷り込まれたという『てんでんこ』の話が役に立ったこと、あちらこちらで谺していた「助けて」と「さよなら」の声、家族5人が5年もの間避難生活をされた、四畳半二間の仮設住宅での話、そして宮川さんがこの世で一番嫌いな言葉についてなど……宮川さんのお話が終わる頃には、車内は鼻をすする音が響いていました。

 3443通信 No.337(https://www.3443.or.jp/news/?c=18645)でも綴りましたが、ここ三陸地方には、古来より言い伝えられている「津波起きたら命てんでんこ」という教訓があります。
 その教えが役に立ったというお話しを、まさかの語り部さんから直に聞くことが出来たなんて! 私にとって思いがけないサプライズになりました。

 てんでんこの教え(津波が起きた際、家族が一緒にいなくとも気にせず、てんでばらばらに高所に逃げ、まずは自分の命を守りなさいという教え)をしっかり受け継ぎ、個々が然るべき行動をとった宮川さんのご家族は一人も欠けることなく、震災から数日後に再会を果たしたのだそうです。
 そして、宮川さんが目の当たりにしたという、助けを求める声と、ご自身の命を諦めた方の声。命を諦めたという表現は、適切ではないのかもしれませんが、自身の死を覚悟された方は看護師さんや介護士さんに多く、患者さんをおんぶした状態のまま亡くなられた方もいらしたのだそうです。宮川さんが語られるお話は、私だけではなく、ツアー参加者は皆そうであったと思いますが、一つ一つが胸を締め付けられる内容のものでした。

 その中でも特に、私が一番心に刺さったお話があります。宮川さんからそのお話を伺い、震災の話をする際には、二度と口にするまいと心に決めた言葉があります。それは、“震災がれき”という言葉です。

“震災がれき”という言葉は、私がこの世で一番嫌いな言葉です……ッ

 と、宮川さんはきっぱり、強い口調で仰っていました。

 報道番組では、震災がれき、がれきの撤去などと、がれきという言葉が何度となく使われていましたが、「がれきなどではないです、私たちのかけがえのない、思い出がいっぱいいっぱい詰まった宝物なんです」と、必死に訴えかけられる宮川さんの言葉は、どうしようもない程に胸をえぐられました。

 “がれき”という言葉を辞書で引いてみると、小石や瓦という意味の他に、必要のないもの、価値のないものとあります。震災で山積みとなった“宝物”は、必要がないものでも価値がないものでもないと、私もそう思います。大切な方のご遺体を、死体や死骸などと表現しないように、“がれき”と表現するべきではないと、私はそう思います。
 被災者の方が抱くこの想いを、一人でも多くの方にご理解いただき、ほんの一握りでも心に留めて欲しいものだなと、切に思いました。

二人目の語り部「震災遺構のあり方」
 さて宮川さんには、震災当時の経験談を語っていただきましたが、宮川さんからのバトンを受け継ぎ、本日二人目の語り部である橋本さんには、震災がもたらした痕跡についてお話をいただきました(図2)。

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 図2 現地を歩きながら語る橋本さん


 橋本さんの案内でまず向かった先は、南三陸町から車を走らせること約30分、気仙沼市新浜町にある鹿折(ししおり)唐桑駅です(図3)。この駅はもともと東日本旅客鉄道(JR東日本)の大船渡線が走る鉄道駅でした。震災の地震による津波の影響で、港から1㎞以上離れた同駅周辺に、大型漁船(第18共徳丸、全長約60メートル、総トン数330トン。図4)が打ち上げられ、営業を停止していました。

図04 鹿折唐桑駅(BRT)
 図3 BRT停留所として再建された鹿折唐桑駅


 現在は、2013年に使われなくなった電車の軌道を再利用したバス高速輸送システム(通称:BRT。図5)が整備されたため、東日本旅客鉄道大船渡線BRTのバス停留所となっています。

図05
 図5 気仙沼校外を走るBRT


 語り部の橋本さんは、持参されたスクラップと、いま私たちが見ている景色とを比較し、当時の状況を事細かに説明してくださいました。
 震災の津波により運ばれた漁船や被災物がどんどん取り除かれ更地になっていく中、大きすぎて移動が出来なかった、第18共徳丸だけが残されました。津波の教訓を後世に伝えたいと、保存を目指した気仙沼市長らの意向で、約2年半にわたり解体作業が見送られてきましたが、船主の儀助漁業が船体保存に反対する地元住民が多いなどという理由から市に解体の意向を伝え、市長が断念するかたちで解体作業が着手されました。

職務に殉じたある警察官のお話
 私の眼に映る鹿折市街地の風景は、駅舎があり、市民の安全を優しく見守り、時には住民との憩いの場になるのだろう駐在所があり、この場に大型船が流れ着いたとは想像だに出来ない、とてもとても穏やかなものです。大きく深呼吸をしながら、今あるこの風景を見渡していると、橋本さんから思いもよらぬ出来事が語られました。
 BRT鹿折唐桑駅の目と鼻の先にある鹿折駐在所は、震災から8年の時を経て再建されました(図6)。

図06 鹿折唐桑駅(交番)
 図6 慰霊碑のある鹿折駐在所


 震災当時、この駐在所に勤務されていた警察官が、避難の誘導を行っていた際に殉職されたのだそうです。警察官として、命を全うされた鹿折駐在所の所長さんには、近日中に異動の辞令が出ており、この辞令が「あと一日早かったら……」と、住民の方は大変悔やんでいたと仰っていました。

 地元住民の発案があり、再建された鹿折駐在所の前には地元の犠牲者を悼む慰霊碑とともに、慰霊碑を温かく見守る小さなお地蔵さんが建てられています。慰霊碑には、「絆 鹿折の安全安心を永遠に」と刻まれており、これを切に願っていたであろう所長さんの想いを、痛いほどに感じ取ることができました。

記憶を記録へ
 鹿折唐桑駅を後にし、一行は“リアス・アーク美術館”へと向かいます(図7)。私は今まで、陸前高田市を訪れた際には東日本大震災津波伝承館(いわて津波TSUNAMIメモリアル)を、石巻市にある震災遺構大川小学校を訪れた際には大川震災伝承館を見学しており、東日本大震災の貴重な資料を目にする機会が多数ありましたが、こちらの美術館に展示されている震災資料には、他資料館にはない一工夫が加えられていました。
 個々人が撮影した写真にはそれぞれ状況コメントが添付されており、当時の状況が手に取るように分かります(図8)。

図07
 図7 リアス・アーク美術館

図08
 図8 震災直後の写真と解説文


 撮影者のコメントをじっくり読んでいると「時間がいくらあっても足りませんね」と橋本さんにお伝えすると——、

「学芸員冥利に尽きます、嬉しいお言葉を有難うございます。被災現場を五感で知っている撮影者(学芸員)は、現場に立った人間が味わった感覚や思考を伝えることを重要視していて、時に何を想い、何を伝えるために撮影した写真なのか、その意味を理解していただくために、被災現場写真には全て撮影者自らが執筆したレポートを添えているんです」と、教えて下さいました。

 またこちらの美術館には、1896年(明治29年)、並びに1933年(昭和8年)の三陸大津波に関する資料や、1960年(昭和35年)のチリ地震津波の資料、また戦前戦後の沿岸部埋め立てや開発に関する資料なども展示されています。
 三陸沿岸部には、過去に平均すれば約40年に一度の頻度で大津波が襲来している事実があり、その都度甚大な被害が出ていましたが、2011年の東日本大震災当時、その事実を正しく認識し、津波に対する関心を高くもっていた住民が少なかったため、未曾有と呼ばれるほどの被害になってしまったと考えられているのだそうです。

 とは言え、過去の津波災害を例とすれば、大津波襲来は想定されているべきであり、未曾有という表現も適切ではないという見解をお持ちなのだそうです。美術館での滞在は、残念ながら僅かなものではありましたが、大変充足感に満たされた見学となりました。

命をつないだ“らせん階段”
 そしていよいよ一行は美術館を後にし、2024年1月24日(水)の河北新報朝刊(図9)に掲載され、当院院長の目を釘付けにした『命のらせん階段』へと向かいます。震災時に約30名の命を守り、『命のらせん階段』と呼ばれるこの階段をご存知の方は、どの位いらっしゃるでしょうか。
 このらせん階段は、気仙沼市や南三陸町などで水産業や観光業を営んでいる阿部長商店の創業者である故・阿部泰兒会長が、鉄骨3階建てのご自宅の外側に取り付けたものです(図10)。

図09
 図9 河北新報より

図10
 図10 いまに遺るらせん階段


 東日本大震災が起きる5年前の2006年、会長のお住まい周辺である気仙沼市内の脇地区には高台がないうえに高台の避難場所も遠く、すぐには避難が困難な地域であるため、1960年のチリ地震津波で被災した教訓から、地域住民の避難先になればと設置を決めたのだそうです。
 この階段が完成した後には、地域住民とともに幾度となく避難訓練を繰り返し、2011年に起きた震災時には、住民約30人が階段を駆け上がり難を逃れました。
 らせん階段の設置は、教訓を糧にした賢明なご判断でしたと言ってしまえばそれまでですが、その裏にはそれ相応の反対があったことを忘れてはいけません。それもその筈です。ご自宅に外階段を取り付けるということは、外部から侵入される恐れがある訳です。その反対を押し切ってらせん階段の設置に漕ぎ着けた故会長のご判断は、英断の一言に尽きると思います。

三人目の語り部「らせん階段の隠されたエピソード」
 橋本さんからのバトンを引き継いだ、本日3人目の語り部は、阿部長商店で相談役を務められている宝田さんです。
 宝田さんからは、らせん階段が避難に使われた震災当日のエピソードが紹介されました。階段を必死で駆け上がり屋上に辿り着いた方の中には、高齢で足が思うように動かない方や身重の女性の姿もあったのだそうです。らせん階段から少し距離をとり全景を眺めてみると、階段の中腹より下部分の凄まじい変形が確認できます。階段の中腹の高さまで容赦なく津波が押し寄せたであろう痕跡が、そこにはありました(図11)。

図11
 図12 猛烈な圧力にひしゃげた階段と破損した壁


 なんとか屋上に避難をし、津波からの難は逃れましたが、気仙沼地方のあちらこちらで火災が発生したため、波が引いた後にもすぐに地上に降りてくることは叶わず、幸いご自宅の3階部分が無事だったことから2、3日をそこで凌いだのだそうです。
 津波に破壊されてしまった、ご自宅の破片だけを綺麗に撤去し、故・阿部会長は繰り返されてしまった悲しみをもう二度と繰り返さぬよう、震災の教訓を語り継ぐ目的で、ご自宅を震災遺構として残すことを決断されます。

 チリ地震津波の教訓かららせん階段の設置をし、多くの方の命を繋いだ故・阿部会長ですが、語り部の宝田さんから「これだけでは終わりません、最後に……」ということで、このツアーに参加しなければ知る由もなかったであろう、衝撃の事実が語られました。

 なんと震災当時は、今あるこの場所にご自宅はなかったと言うのです。

「ご自宅がない……えっ? どういうことですか?」

 聞いていた皆が、そう感じたことでしょう。
 では、種明かしです。被災されたご自宅は気仙沼市から災害復旧事業による整備計画のために立ち退くように言われており、故・阿部会長は自腹を切って(自費で、です)家ごと動かされたのだそうです。

「……???」

 そうお聞きしても、すんなりと納得がいかなかった私は、宝田さんの更なる解説に耳を傾けました。

「動かした? どうやって?」

 ツアー参加者の方々から、そんな声が上がったのは言うまでもありません。
 ここで本当の本当の謎解き種明かしです。お城を動かすような感じで、専門の業者さんに依頼されて、震災前にご自宅があった場所から曳家にて約85メートルもの移動をされたのだそうです。
 一瞬、開いた口が塞がらなくなりましたが、もうこうなると故・阿部会長は、郷土の偉人そのものだろうなと感じました。命のらせん階段にまつわる、これでもかという程のエピソードを教えて頂き、気付けばお昼をゆうに過ぎた時間になっていました。

 本日の語り部ツアーの、あまりにも濃い学習内容のためか、お腹も空いてくるであろう時間の筈が、気持ちの満腹感に満たされて、帰路に就きました。
 南三陸に限らず、度々被災地を訪れる機会に恵まれている私ですが、その先々で学びの多い経験が出来ていることに、改めて感謝の念を抱きました。もう直に、東日本大震災から13年になりますが、これから三陸地方を訪れる一人でも多くの方々に、震災を風化させまいと運行されている語り部バスツアーにご参加を頂き、被災された方が語る、見たこと聞いたこと感じたことに、直に触れて頂きたいなと、強く強く思いました。

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