3443通信 No.374
台湾クルーズの旅
~偉人たちと飲水思源 (その1)~
院長 三好 彰

クルーズ船“飛鳥II”で巡る
2025年の年末年始にかけてクルーズ船での台湾ツアーに参加してきました。冬の寒さを凌ぐ(?)にも、台湾はとても過ごしやすい気候だと聞いていましたので、とても楽しみにしていました。
【旅 程】
12月26日(金):神戸港から出港。同27日(土)~29日(月)にかけて太平洋上を航海。
12月29日(月):台湾北部の玄関港である基隆に入港。
12月30日(火)~1月1日(木):台湾南部の高雄を見学。
1月2日(金)~4日(日):クルーズの旅。神戸に帰港。
今回のツアーに際して乗船したのは、日本の代名詞的なクルーズ船である飛鳥IIです。もともとはクリスタル・ハーモニーという船名で1990年に竣工した同船は、その後に日本郵船が買い取り、日本向けの改装を経て飛鳥IIとして再デビューを果たしました。
全長241メートル。総トン数50,000トンを超える日本最大(飛鳥IIIの竣工前)のクルーズ船です。
ちなみに同じクルーズ船でも、世界には何倍も巨大な船が就航しています。特に世界最大とうたわれるアイコン・オブ・ザ・シーズというクルーズ船は、全長365メートル。総トン数25万トン。乗客・乗組員を合わせて1万人もの人員を収容できるというモンスター船です。もはや一つの町ですね。
それはさておき、私が今回のツアー参加にあたって、絶対に知っておきたい人物がいました。
その人物とは、八田與市氏(図1)という日本の土木技師です。

図1 八田與市氏
詳しくは後述しますが、八田氏は日本が台湾統治をおこなっていた当時、水不足に喘ぐ大地から一転、台湾有数の穀倉地帯に蘇らせました。彼が課せられたのは、遠く離れた河川から水を引いて、香川県に相当する広さの平原に十分な水を行き渡らせることでした。
私は、彼の難事業の軌跡を辿るたびに、古代中国の「飲水思源(いんすいしげん)」ということわざを連想します。
その意味は「水を飲む者は、その源に思いを致せ」とあり、つまり「井戸の水を飲む者は、その井戸を掘った人たちの苦労を思え」という意味で、秦の時代に造られた巨大な水利施設のある四川省都江堰市に残されている言葉です。
台湾の人たちは、このことわざの通りに八田氏と彼の”家族たち“が成した功績を忘れることなく今に語り継いでいます。
私は、今回のツアーを通じてその事実を再認識し、偉人とはまさに彼らのことを指す言葉なのだと改めて感銘を受けました。
さて、出港を翌日に控えてホテルに入った私は、窓から見える神戸港の夜景(図2~6)を眺めながら、明日からの旅路に思いを馳せます。

図2、3 ドローンが描く空中の文字

図4 図5

図6 手前が飛鳥IIの停泊するバースです
神戸海洋博物館
夜が明けて、澄んだ青空がのぞく、まさに絶好の出航日和となりました。
夕方の出航まではまだ時間があるので、ホテルの目の前にある神戸海洋博物館を見学しました(図2の網目状の屋根の建物です)。
こちらの博物館は、近代神戸港の開港120周年にあたる1987年に建設された施設です。
その後、新型コロナ感染症が流行した2020年にリニューアルし、時代と共に移りゆく神戸の街と、海・船・港の歴史を映像や精巧な模型、映像作品などを通じて紹介されています。
現存する世界最古の戦列艦(の模型)
入口から入ってすぐに目を引くのは、エントランスホールに鎮座する大きな帆船模型(図7、8)です。全長12メートル。高さ9メートル。実物の1/8スケールの帆船模型の迫力は、船好きにはたまらないことでしょう。
モデルとなったイギリス海軍のロドニー号は、1833年に建造された2等戦列艦(数十門の大砲を備えた大型軍艦の総称)でした。2等とは戦闘艦の規模を表す分類で、複層の砲列甲板と90~98門の大砲を搭載したクラスに用いられています。

図7 ロドニー号の1/8スケール模型

図8 こちらはロドニー号を描いた絵画
余談ですが、世界でも特に有名な戦列艦と言えばイギリス海軍のヴィクトリー号(一等艦。104門)でしょう。現存する唯一かつ世界最古の戦列艦としてイギリスのポーツマス歴史ドックに係留されており、有名なトラファルガー海戦(イギリス対フランス)では旗艦をつとめた殊勲艦でもあります。
こちらに展示されているロドニー号は、徳川幕府によって200年続けられた鎖国政策が終わりを迎え、欧州列強の圧力によって神戸港の開港に際して祝砲を撃った軍艦でもあります。
ほかにも、当時敵対していたオランダ海軍から「黄金の悪魔」と恐れられた一等艦ソブリン・オブ・ザ・シーズ(図9)や、フランス海軍の一級艦ソレイユ・ロワイヤル(図10)、VIPの送迎などを担ったオランダの公用船スタテン・ヨット(図11)、イギリス海軍のブリッグ帆船ビーグル(図12)などの模型が展示されています。

図9 「黄金の悪魔」ソブリン・オブ・ザ・シーズ(英)

図10 一等艦ソレイユ・ロワイヤル(仏)

図11 公用船スタテン・ヨット(オランダ)

図12 ブリッグ船ビーグル(英)
また、日本の船模型も展示されており、学生時代に歴史の授業で習った遣唐使船(図13)や、中国の王朝・宋との貿易で往還した日宋貿易船(図14)があります。海外の大型帆船に比べると喫水(きっすい)が浅く外洋航海にはあまり適さない構造であることが見て取れます。
他にも、満州(中国東北部)開発のために大阪と大連を就航した貨客船・吉林丸(図15)や、日本戦艦の代名詞で知られる大和(こちらはスループ艦。図16)などの珍しい船がラインナップされていました。

図13 小野妹子らを運んだ遣唐使船

図14 日英貿易船

図15 吉林丸

図16 後に戦艦大和にその名を譲った”スループ艦”大和
いざ、乗船
さあ。いよいよ乗船です。数百人の乗客とともに神戸港の中突堤(なかとってい)に停泊している飛鳥IIに乗り込み、チェックイン手続きを済ませて部屋へ。今回は海側のバルコニー個室(図17)を利用。雄大な海を見ながらの船旅を楽しめます(図18~25)。

図17 海を臨むバルコニー個室

図18 図19

図20 図21

図22

図23 図24

図25
土木技師・八田與一(はったよいち)って?
ではここで、八田氏が台湾で何を成したのか。約100年前の時代まで遡ってみたいと思います。
1886年、石川県金沢市生まれの八田氏(図26)は、高校卒業後に地元を離れて上京し帝国大学(現在の東京大学)工学部土木科に進学。その後、日本統治下にあった台湾総督府に就職しました。

図26 学生時代の八田青年
その当時、台湾では民政長官である後藤新平によって伝染病予防対策が重点的に実施されており、八田氏は衛生事業の一環として台湾南部の上下水道の整備を担っていました。
その現地調査の折、八田氏は台湾南西部に広がる嘉南平原一帯が慢性的な水不足に晒されている事実を目の当たりにします。そこでは地元住民たちが旱魃(かんばつ)による水・食料不足に喘ぎ、わずかな水を求めて毎日何時間もかけて河川に水汲みに向かう姿を目撃します。
農家出身である八田氏は、この地に住む人々がいかに水を欲しているかを痛いほどに理解してしまったのです。
奇しくも日本では、第一次世界大戦による大戦景気によって働き口の多い都市部に人口流入が起きており、地方の農村部での働き手が減りコメの生産量が低迷していました。それと同時に寺内内閣によるシベリア出兵に端を発した投機目的のコメの買い占めによってコメ価格は暴騰し、主食であるコメの安売りを求めた民衆による暴動(米騒動)が多発していました。
そうした国内事情もあり、日本統治下にあった台湾では早急な自給自足体制をとる必要がありました。
先行きの見えない台湾統治
しかし、それまでの台湾という土地は、決して正常的に安定した土地とは言えない状況が続いていました。かの清王朝の武将である李鴻章(りこうしょう)は台湾を「化外の地」(文明の外の地方)と呼び、初代内閣総理大臣の伊藤博文をして「三年小反、五年大反」(反乱が絶えず起こる)と言い表すなど、台湾は“難治の地”であると認識されていました。
実は、日本が統治する以前にも、台湾では灌漑事業が行われたことがありました。
17世紀ごろ、アジアに入植してきたオランダは中国大陸の福建・広東地方からの流民を台湾に連れてきて、低税率による小作事業を広めようとしました。
また、日清戦争以前に台湾を領有していた清王朝は、前述の李鴻章の言葉の通り台湾を「化外の地」と呼び、開発に熱を注ぐことはしなかったことも台湾発展の足かせになっていました。
そうした歴史的な経緯があり、現地住民たちは八田氏による灌漑事業も失敗に終わると諦観しており、あまり期待を寄せることはなかったそうです。
ですが、石川県の農家に生まれ育った八田氏は決してあきらめませんでした。嘉南平原に十分な水が行き渡れば、この地は実り豊かな穀倉地帯へと変わることを確信していました。そしてそれは、将来的にも台湾という国を支える重要な事業であることを説き、徹底した現地調査と綿密な計画を練り上げていきました。
そうして計画されたのが、二つの大河から水を引くという大規模治水工事(他にも、水力発電所の建設なども計画されました)でした。
世紀の一大事業
ですが、八田氏の思い描く未来像の実現は容易いものではありませんでした。嘉南平原の広さは日本の香川県とほぼ同じ面積を誇り、その広大な平原に十分な水を行き渡らせるには一つの水源からではとても賄いきれるものではありませんでした。ただでさえ水不足に喘ぐこの地に、環境を一変させるほどの量の水をどのように用意するのか。
八田氏が着目したのは、二つの河川でした。
一つは嘉南平原の北に流れる濁水渓(だくすいけい)という台湾最長の河川で、中央山脈を源に発して西の台湾海峡へ注いでいました。
もう一つは台湾南部の曽文渓(そぶんけい)と呼ばれる河川で、これら二つの河川から水を引き込む用水路を建設し、広大な嘉南平原に水を供給するという途方もない計画でした。
しかし、この計画を成功させるためには、特に大きな問題が一つありました。
豊富な水量を誇る曽文渓は山脈を挟んだ東側を流れており、その水を引くためには烏山嶺(うざんれい)という山を越える必要がありました。
グーグルマップで見ると良くわかりますが、この烏山嶺は台湾を幾重にも縦断する山脈の一角を成しており、まるで強固な城壁のように嘉南平原と曽文渓の間に立ちはだかっているのが理解できます。
八田氏はこの地理的な障害を、地下トンネルを掘ることで解決を図りました。
そのトンネルは全長3,100メートル。直径10メートルにも及ぶ大トンネルであり、もし完成すれば毎秒50トンもの水が流入するよう計算されていました。
さらにその水は、嘉南平原の東側に計画された巨大な烏山頭ダムへと貯水され、およそ東京ドーム120個分に相当する水が蓄えられる計画となっていました。
巨大づくしのトンネル&ダム工事
この前代未聞の大事業は世界的にもほぼ例がなく、アジアではただの一例も実践されたことのない、まさに夢の計画でもありました。
その工事費用は3,800万円(現在価値に換算すると3,000億円相当。最終的には5,348万円が計上された)にものぼり、大蔵省の理解が得られないのでは……という懸念がありましたが、日本本土での米騒動が深刻な社会問題となっており、この計画が実現すれば台湾の自給自足に加えて、日本へのコメの輸入すらも可能になるという試算があったことが、決定の後押しとなりました。
4つの新手法を導入
この計画を成功させるためには、従来の人力主体による工法では限界があることは明白でした。八田氏はこの難工事を、新たな4つの手法を導入することを思いつきます。
① 大型土木機械の大量導入。
② 希少なセメントの使用量を抑えたセミ・ハイドロリック工法の採用。
③ 従業員への福利厚生の充実。
④ 3年輪作給水法の採用。
一つ目の大型土木機械の大量導入は、今日では当たり前の手段となっていますが、戦前の日本ではそういった工作機械はほぼ普及しておらず、海外から輸入する以外に入手することが出来ませんでした。
八田氏は、これら本土ですら使用していない大型土木機械をアメリカやドイツから大量に購入し、工事の効率化を図りました。
用意された土木機械類は多種に及び、代表するだけでも大小多種のスチームショベル(図27)が9台、ドイツ製56トン機関車12両と土砂運搬用のエアーダンプカーが100両(図28)、堰堤の斜面を削るラダーエキスカベーター(図29)が2台、土地を均す軌道式スプレッターカー(図30)が1台などの大型機械に始まり、放水用のジャイアントポンプ(図31)、コンクリートミキサー、トンネル掘削用の大型削岩機、空気循環用のエアーコンプレッサーなどの計47種類にも及ぶ機械類を導入しました。

図27 上記で動くスチームシャベル 図28 大量の土砂を運ぶエアーダンプカー

図29 斜面を削るラダーエキスカベーター 図30 土地を均すスプレッターカー

図31 土砂に放水するジャイアントポンプ
これほどの工作機械を用いた土木工事は日本国内どころかアジアにおいても経験はありません。1936年にアメリカのフーバーダムが完成するまでは、この烏山頭ダムは世界最大のダムとして歴史に名を刻んでいます。
二つ目のセミ・ハイドロリック工法とは、当時アメリカでも数件の実績しかない工法でした。
これは積み上げた土砂の上から大量の水を放水し、水と土砂が流れていく中で表面には大きな石が残り、躯体の中心部には密度の高い砂利や粘土が残って固まり水を通さない躯体が自然と出来上がっていくという工法です(図32)。
これは、現在主流となっているコンクリート製のダムに比べて地盤の緩い場所に建設するのに適しており、かつ希少性の高いセメントを最小限(ダム全体の0.5%)に抑えて、現地調達できる材料を用いて建設できるというものです(図33)。

図32 放水によって外側に大きな岩が残り、内側は密度の高い粘土や砂利が集まります

図33 実際の堰堤工事の様子
この工法を選ぶまでに八田氏は綿密な現地調査を幾度にも重ね、さらに土木技術の優れたアメリカに数カ月間に渡って訪米し、いくつものダムを見学しながら研究者と議論を重ねて研究をまとめました。
三つめは、工事に従事する従業員の福利厚生の充実です。
八田氏は日本人と台湾人を一切区別することなく「安心して働ける環境なくして、良い仕事はできない」と説き、原生林を開拓して宿舎68棟、住宅200戸余り、学校、病院、購買所、お風呂、プール、弓道場、テニスコートなどの娯楽施設も設置しました。
その結果、工事現場にはおよそ2,000人近い関係者が集まり、その規模は一つの町くらいにまで膨れ上がったため、慌てて交番が作られたと言われています。
四つ目は、3年輪作給水法と呼ばれる農法でした。
これは、広大な嘉南平原のすべてに水を行き渡らせるには給水量が不足するという試算から編み出された方法で、現地に暮らす農民すべてが水の恩恵を授かれるように農地を3分割し、1年毎に作物を変えていく(必要水量に合わせて転作する)というものでした。
八田氏は、技術者という立場に加えて農家に生まれた者としての視点から、住む地域によって貧富の差を生まないことを念頭に、現地に住む人々にこの方法を説得して回りました。
襲い来る試練とダムの完成
綿密な研究と工事計画。それらをもってしても八田氏の治水事業には困難が数多く待ち構えていました。
特に八田氏に衝撃を与えたのが、烏山嶺のトンネル掘削工事中に起きた爆発事故でした。その原因は土中から噴出した石油ガスがランタンの火によって引火し、トンネル内で大爆発を引き起こしたのです。その犠牲者は50余人に上り、八田氏の心を挫くにはあまりにも大きすぎる犠牲でした(最終的に10年間の工期で134人が亡くなりました)。
ですが、台湾人の遺族から亡くなった人のためにも工事はやり遂げて欲しいという言葉に後押しされ、八田氏は決意を新たに工事再開に臨みました。
しかし、その大事故から半年余りの後、日本本土に厄災が訪れました。関東大震災です。その甚大な被害からの復旧には多額の費用が必要とされ、台湾総督府からも多くの義援金が供出されました。そのためダム工事の補助金が減額されてしまい、八田氏はやむを得ず従業員のリストラに着手せざるを得なくなってしまいます。
八田氏は、あえて再就職が容易であろう優秀な従業員から解雇していき、そうではない一般的な従業員の生活を守るべく奔走しました。
そうした幾多の苦難を乗り越え、工事着工から10年後の1930年5月10日、完成した烏山頭ダムの放水門が開かれました。毎秒70トンもの水が総延長1万6,000キロに及ぶ給排水路(図34)に流れ込んでいき、現地の人が“神の水”と呼んだ恵みの水がすべてに行き渡るには、およそ3日かかったと言われています。

図34 烏山頭ダムから網の目状にのびる用水路
そして、1億6,000万トンを超える水を蓄えた人造湖は、まるで水中に咲くサンゴのような形になったことから珊瑚潭(さんごたん)と呼ばれるようになりました(図35~40)。

図35 土手から眺める珊瑚潭

図36、37 ここから3日間かけて嘉南平原に水が行き渡りました

図38 土手にある記念碑 図39 「臥堤迎暉」とかかれた石碑

図40 案内看板
工事の成功を祝って八田氏の銅像建設の話が持ち上がりますが、八田氏は「せめて偉ぶったような恰好ではなくして欲しい」と話したそうです。
その意を汲んだ制作陣は、土手の上に座りながら思案に耽る姿を採用。その銅像は珊瑚潭を見下ろす丘に設置されました。
こうして、空前絶後の一大事業を成功に導いた八田氏でしたが、1942年にフィリピン方面への南方資源開発要員として現地に赴く途上、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けて乗船していた客船大洋丸が沈没。八田氏は多くの優秀な技術者とともに船と運命を共にしました。享年56歳の悲劇でした。
その死を嘆き悲しんだ住民たちは、珊瑚潭を見下ろす丘に八田氏の墓碑を設けました。
また、戦争中に鉄材不足のため一度供出されて行方が分からなくなった八田氏の銅像も、戦後ある日本人の少年によって発見されて再び珊瑚潭の畔に設置(図41)されました。

図41 珊瑚潭を臨む丘に建てられた銅像
現在、八田氏の命日である5月8日には現地で墓前祭が開催され、2025年の式典では台南市長時代から毎年欠かさず出席してきた頼清徳総統が参列され「八田技師の粘り強く果敢な精神は台湾全土に大きな影響を与えており、その精神は現在に至るまで、台湾のさまざまな分野に大きく貢献している」と述べられました。
八田氏の功績は台湾発展の礎となり、いまもなお台湾の人の心の中に生き続けています(図42、43)。

図42

図43
現地の人々のために生きた日本人
私がこの八田氏のエピソードに触れた時、台湾よりもさらに遠い中東アフガニスタンで支援事業に従事した一人の日本人のことを連想せざるを得ませんでした。
その方は八田氏と同様に、アフガニスタンに暮らす人々の未来を創るために死の砂漠と呼ばれたガンベリ砂漠に全長25キロにもおよぶ用水路を建設し、不毛の大地を緑あふれる土地へと変貌させました。
その人の名は中村哲医師(図44)です。

図44 中村 哲Dr.
3443通信のバックナンバー(https://www.3443.or.jp/news/?c=18911)でもご紹介しましたが、中村医師はパキスタンやアフガニスタンで医療支援を行いながら、この地に根付く問題の多くが過酷な土地環境からくる貧しさにあり、この荒地を緑化して「普通の人が普通の生活ができる」ようにすることで現地の人々が当たり前の未来を思い描けるように尽力された人物です。
中村医師の手掛けた用水路建設については、ドキュメント映画『荒野に希望の灯をともす』にまとめられています。興味のある方は、映画鑑賞レポート(https://www.3443.or.jp/news/?c=18407)もどうぞお目通しください。
さて、八田氏と中村医師。二人は生まれ育った祖国・日本を離れて、縁も所縁もない外国の地で身命を賭して支援事業に従事しておられました。その志は真似をしようとしても真似できるものではありませんが、彼らの背中を見て突き動かされた人たちは少なくありません。
二人の生きた時代は離れていても、その目には豊かな緑の大地で笑いあう現地の人々の笑顔が見えていたのかもしれませんね。
余談ですが、私が以前北京の万里の長城を訪れた際、アフガニスタン人の胸部外科医(図45)と出会ったことがあります。彼らは中国に医療技術を学ぶために訪れているとのことで、祖国発展のために努力をするのは当たり前だという話をしていました。
国は違えど、生まれた国のために努力を惜しまないという精神は、とても尊いように思います。

図45 院長の両隣りがアフガン人の胸部外科医師です
古代中国の水利施設『都江堰』
私がアレルギー疫学調査で毎年訪れていた中国には「飲水思源」という故事があります。その意味は「水を飲む者は、その源に思いを致せ」とあり、今でこそ当たり前のようにある水は、想像を絶するような苦労の末に得られたものだという原点を、忘れてはならないという戒めの言葉でもあります。
私は、その飲水思源の碑(図46)が建てられた四川省都江堰市を訪れたことがあります。そこは、かの統一王朝・秦(しん)によって建設された水利施設(図47)のある場所で、長江の支流の一つである岷江(みんこう)という川の水から農業用水を得るために建設されました。

図46 「飲水思源」とかかれた碑

図47 岷江から水をひくために造られた都江堰
岷山山脈に端を発する豊富な成分を含んだ岷江の水は、大洪水を時に生じ惨事のもとだったのですが、当時の人々の努力により造成された中州(都江堰)により分水されました。それ以降この川は運河によって平原一帯へ生命の水として導水されています。
八田技師や中村医師の努力を思わせる大事業により、成都一帯は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯に生まれ変わり、後の三国時代においては大国・蜀の重要な食糧供給地となりました。“臥龍”と称された諸葛孔明の大活躍も、この工事なくしてはあり得なかったのです。
そして歴代の施政者たちによって守られ続けてきた都江堰は、2000年以上の時代を経たいまでもその機能は生き続けており、およそ5,300平方キロメートルにおよぶ農地の灌漑用水として活用されています。
今でこそ当たり前のようにある水ですが、その始まりは水を得るために苦労した当時の人たちの願いと膨大な努力があってこそ得られたものであることを、忘れてはならないと思っています。
私自身も、八田技師や中村医師のように、時には命がけで強い意志を持って艱難(かんなん)に臨んでいく、その心意気に感銘を受けた一人です。こうして彼らの足跡をひとつひとつ辿るたびに、その道程が極めて困難で苦難に満ちていたのかを肌身で感じますし、巡り合う機会がもしあったならば……と思わずにはいられません。
残念ながらその機会は得られませんでしたが、彼らの軌跡から学び感じたことを生かすべく、医師また一学徒として病に悩む患者さんたちが少しでも楽に、そして普通の生活が送れるよう医学の進歩を目指して、自身の出来る精一杯のことをやり遂げたい。そんな夢に生きています。

図48 今回話題に上がった場所