3443通信 No.377
「仙台歴史文化観光シンポジウム」参加レポ
秘書課 菅野 瞳

図1
去る2025年3月15日(土)、仙台国際センターにて「仙台歴史文化観光シンポジウム」が開催されました(図1)。シンンポジウムと名が付くものは、難しめ?…いや、お堅めとでも言いますか、そんな印象がありますが、何と本日のシンポジウム(討論会)には定員500名の募集に対して1000名以上の応募があり、予想を遥かに上回る反響が故に急遽800席に増席しての開催となりました。
これはひとえに、“独眼竜”の異名や三日月の兜、ド派手な“伊達者”の風貌で知られる戦国屈指の人気武将「伊達政宗」の魅力に他なりません。
私は、3度の飯よりも日本の歴史が大好きな歴女……ではありませんが、そんな私にあっても東北の礎を築いた伊達政宗公が、大変人気のある武将であることは承知しています。
本日のシンポジウムは、2部構成になっており、第1部では伊達政宗の冒険と魅力と題した基調講演、続いて第2部では、パネルディスカッションにて伊達政宗の魅力をたっぷり語り尽くすという内容になっています。
本日パネラーを務められるのは、郡和子仙台市長、第1部講演の講師を務められる、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)館長である平川新氏、タレントであり歴史愛好家として知られる松村邦洋氏、そして奥州・仙台おもてなし軍団である伊達武将隊から、伊達政宗氏(ご本人?笑)とのことで、お堅いイメージとは裏腹に、伊達政宗公への熱い想いを、面白おかしく聞かせて頂ける予感がしました。
さて皆さんは、伊達政宗公のことをどれだけご存知でしょうか? そもそも私が、伊達政宗という戦国武将を知るきっかけなったのは、学校の教科書ではありません。1987年に放映されたNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」を見たことにあります。
渡辺謙さんが熱演されたこのドラマは、1963年から始まったNHK大河ドラマの平均視聴率において、39.7%という驚異的な数字を残しており、未だこの数字は破られていません。このドラマの並外れた視聴率もさることながら、私には脳裏に焼き付いた名場面が多々あります。
その中でも、当日のディスカッションでも触れられていましたが、1590年に起きた“小田原征伐”の際の政宗公のパフォーマンスは、「伊達男」の言葉の生まれた起源にせまる演出でした。ご存知の方も多いと思いますが、豊臣政権による小田原攻めにおいて、豊臣秀吉の参陣命令に大幅に遅参した伊達政宗は、白装束(死装束)をまとって謁見し、死を覚悟した謝罪の上、切腹を逃れました。この“死の覚悟”を示した奇策は、無礼を詫びる効果が絶大で、秀吉に強烈な印象を与えたことは間違いありません。このエピソードはあまりに有名ですが、伊達政宗という人物は、幼少期から勇猛果敢であったわけではありません。伊達政宗(幼名は梵天丸)は5歳の時に、天然痘(疱瘡)に罹患し右目を失明しています。隻眼となったことで、内向的な性格であった少年が、独眼竜と称されるまでの軌跡を、追ってみることにしましょう。
右目にコンプレックスをかかえたシャイな少年を、後に奥州の覇者に上り詰めるきっかけを与えた人物がいます。伊達政宗が、生涯の師と仰ぐ、臨済宗の僧侶「虎哉宗乙(こさいそういつ)」です。彼は、文芸の師として、仏教・漢学・文学などの学問を政宗に教えるだけでなく、“武将としての生き方”を示しました。
時同じくして、大河ドラマの中では梵天丸が放った「梵天丸もかくありたい」という名台詞が取りざたされ、後に流行語となりました。これは不動明王の恐ろしい顔に梵天丸は疑問を抱きますが、禅師から「これは悪をこらしめるためであり、内には慈悲深い心があるのですよ」と教えられ、その言葉に感銘を受け発したものです。隻眼の梵天丸は、自分の姿に重ね合わせ、どれほど胸をえぐられたことでしょう。
また虎哉宗乙は、政宗と同様に、隻眼でありながら“独眼竜”と称された中国の猛将「李克用(りこくよう)」の例を挙げ、政宗を奮い立たせました。
李克用は唐末期の将軍で、全身に黒衣をまとう猛々しい兵士達を率いていたことから「鴉軍(あぐん:カラスの軍団)」と恐れられていたのだそうです。
この教えに感化された政宗は、後に李克用と同じく、黒一色の甲冑(鎧兜)をまとうようになります。虎哉宗乙との出会いにより、梵天丸(伊達政宗)は、独眼竜として強くなることを決意しました。
皆が知り得る、野心家で威風堂々たる姿の伊達政宗公誕生までの背景を勉強したところで、続いては、政宗公が遺した功績、今も尚人を惹きつける魅力について触れます。政宗公と言えば、江戸時代初期の仙台藩初代藩主であり、関ヶ原の戦い後、徳川家康から認められた62万石の領地を治めました。
本格的な仙台のまちづくりに着手した政宗は、塩釜神社の修築や大崎八幡宮の建設、北上川・貞山運河の整備に代表される大規模な治水工事などを実施し、仙台藩主として数々の施策を行いました。政宗公が残した功績の中でも特に大きいのが、北上川の河口に、石巻港を建設したことです。この時、水路として整備された北上川や貞山運河は、各地で収穫した米の大量輸送に役立ち、石巻港から船で江戸に出荷され、莫大な富を築いたと言われています。生粋の宮城県人でありながらも、私は知り得ませんでしたが、石巻港は現在、「世界一長い魚市場」としてギネスに認定されている、世界最大規模の漁港なのだそうです。政宗公は、先見の明があったとはよく言われていますが、この当時から、石巻が海運の拠点として発展することを見越し、大きな港を造ったのだとしたら・・・そう考えると、畏敬の念を抱かずにはいられません。
先見の明と言えば、政宗公は、1611年に発生した慶長三陸地震という大災害からの復興を指揮し、仙台藩の礎を築くとともに、早くから世界に目を向け、1613年には、家臣である支倉常長を、慶長遣欧使節としてスペインやローマに派遣し、海外との交流を行いました。幕府がキリスト教の弾圧を強化したため、欧州との貿易は残念ながら実現しませんでしたが、常長が欧州から持ち帰った数々の資料は、非常に歴史的価値が高く、2001年には「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定されています。
この時に使われた船“サン・ファン・バウティスタ号”は、1993年に木造船で復元され、2022年に老朽化のために解体・縮小標本とされるまで、石巻市渡波のサン・ファン館で一般公開(図2)されていました。

図2
本日の講師を務められた平川先生(平川館長)が、一番熱く語られていたのは、言うまでもありません(笑)。またこれはあまり知られていませんが、政宗公は仙台城下に、敷地900坪の「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という味噌蔵を造っています。これが、日本で最初の味噌工場であり、ここで造られた風味高い赤味噌は、仙台味噌の始まりであると言われています。
自分で厨房に入るほど、料理への関心が深かったと言われる政宗公ですが、私たちが普段食べている仙台味噌の普及も、政宗公のお陰だったとは・・・政宗公の知られざる偉大さに、恐怖すら覚えました。
あと10年先の話にはなりますが、2036年と言う年は、仙台・東北にとって、極めて意義深い節目の年になります。この年は、戦国武将・伊達政宗公の没後400年という記念の年であり、また仙台城跡・青葉山には、かつて威容を誇った大手門の復元が予定されています。これは、仙台・東北の歴史と文化を、未来へ継承する象徴的な事業であり、地域の誇りと郷土愛を育む重要な取り組みとなっています。
最後に、先日もニュースに上がっていましたが、この2036年という節目の年に、伊達政宗公を主人公とした、新たなNHK大河ドラマ実現に向けた官民共同組織が設立されました。没後400年となる政宗公の偉業を再び全国に、いえ世界に発信する為、関係自治体や関係団体等が一丸となり、100万筆を目標に、署名活動を行っているのだそうです。仙台を築いた、偉大な偉大な戦国武将である伊達政宗公を主軸に、大手門の復活、そしてNHK大河ドラマの再制作案まで……本日は、大変充実したシンポジウムになりました。
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が放映されていたあの当時を、懐かしく思い返し、政宗公の大河ドラマ誘致への署名をし、帰路に就きました。
もちろん、その夜の私の夢には「伊達男」の政宗公が出演され、大河ドラマの実現を予告しておられました。
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