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みみ、はな、のどの変なとき

77 嗅覚障害

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⼈間の感覚は五感と⾔われます。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。これらのうち、視覚・聴覚はドイツ語で”精神に近い感覚”と呼ばれ、思考・思索に関与することが多い、とされています。それに対し嗅覚・味覚は、”⽣命に近い感覚”と称されます。⼈間が⽣命を維持する、基礎的な部分に関わっているからでしょう。

確かに⼈間の⽣命維持は、⾃⼰の固体保存と⾃分たちの種族保存から成っており、嗅覚はとくにこの両者に深く関与しています。固体維持のために⾷物を摂取する、その際に⾷物が腐っていないかどうか確認するのは嗅覚です。また種族保存の⽬的で異性を探す、この場合にもフェロモンなどの匂い物質(においの素という意味で嗅素と呼びます)を介して関与している。それはやはり嗅覚です。

他⽅で嗅覚は、⾃⼰と⾃⼰を取り巻く世界とを結びつけている、もっとも原始的な感覚と考えられています。プルーストが”失われし時を求めて”の中で、マドレーヌを⼝に含んだ瞬間、お菓⼦の⾹りとともに過ぎ去った⼦ども時代の情景が、体感として突然蘇って来る。そんなエピソードを記しています。このような現象は、五感の中でも嗅覚に特有なものです。
 ⼈⽣の途上で、⾃⼰と世界との接し⽅を確⽴せねばならない思春期に、⾃らの体から嫌なにおいが発⽣していて、他者が⾃分をうとんじる。そんな妄想の⽣じることがあり、⾃⼰臭妄想と呼ばれます。この妄想は例えば、”電⾞に乗っていたら、隣に⽴っていた男の⼈が急に電⾞を降りた、あれはこの私の体から嫌な匂いが出ているために、それを避けたのだ”。そんな形で表現されます。これも嗅覚という⾃⼰と他者を結びつける感覚の独⾃性と、無関係ではなさそうです。

もう⼀つの嗅覚の特徴として、疲労現象があります。これはかなり強い匂いのそばにいても、最初こそその匂いがキツく感じられるものの、やがてその匂いが気にならなくなる。いわば、慣れみたいな現象ですが、索敵⾏為がその⽬的かと思われます。つまり、嗅覚を通じて動物は敵の⾏動を察知します。そしてこのためには、常に新しい匂いに敏感でなければなりません。常在する匂いに囚われず、⾃分のテリトリーに侵⼊する敵の匂いを⼀瞬にして捉える。嗅覚の疲労現象は、そういった⽬的には実に合理的と⾔えます。これも嗅覚が、⽣命の維持に密接に関連している証かも知れません。

この嗅覚を感じ取るのは⿐内の、位置的には⽬と⽬の間の⿐粘膜です。嗅粘膜と呼ばれるここは、ちょうどわさびを⾷べたときに強烈なツーンと来る感覚を覚える、あの部位のすぐ傍に存在します。

今の例えやプルーストのエピソードからも判るように、嗅覚は⿐の⽳から⼊って来る嗅素だけでなく、⼝腔内で発⽣し後⿐孔を通じて⿐腔に到達する嗅素の、両⽅を感じ取っています。前者ももちろんそうですが、とりわけ後者は⾷事の⾵味を繊細に味わい分けるのに重要です。例えば蕎⻨を頬張ったとき、のど越しに蕎⻨の絶妙な⾹りを楽しむ。それこそ後⿐孔を通った蕎⻨の嗅素の独壇場です。そんな理由で嗅覚が障害されると、まるで味覚までだめになったような気がします。味覚そのものには異常が無いのですけれども。この状態を、純粋な味覚障害そのものの障害と区別して、⾵味障害と名付けることがあります。

ところで嗅覚障害の原因ですが、圧倒的に⿐そのものの疾患が多いようです。アレルギー性⿐炎、急性もしくは慢性の副⿐腔炎、そして⾵邪に起因する急性⿐炎などがそうです。前⼆者では⿐粘膜がひどく腫れ、嗅素が嗅粘膜まで届かないために嗅覚障害が⽣じます。急性⿐炎では、⿐づまりの他にウィルスが直接嗅神経を冒している可能性もあります。なお、前⼆者でも放置されて炎症が⻑引くと、嗅神経がダメージを負い、治りにくくなります。

また交通事故での後遺症の⼀つとして、嗅覚障害の現われることがあります。殊に頭部外傷に際して、においの判らなくなることが多いようです。嗅神経は、他の視神経や聴神経などの脳神経と異なり、⼤脳そのものの⼀部が頭蓋底に緊密に張り付くように、⿐内へ延びています。この為、いわば”たわみ”が少なく、頭部外傷のときすぐに傷付き易い、そんな構造的な特徴が関係します。交通事故による嗅覚障害が直りにくいのも、そのせいかと思われます。

前回、嗅覚は⽣命の維持に密接な関連がある、と述べました。したがって⽣命⼒の低下と考えられるデプレッション(うつ病)のときに、匂いがにぶくなることもあります。デプレッションの状態を形容するのに、”世界がすべて冷たい⽯になってしまった”という⾔い⽅をしますが、匂いも味もしない⽣命⼒の感じられない境遇を、良く表現していると思います。つまり⽣体を維持する⾷物を⽬の前にしても⾷欲が湧きにくく、種族保存の対 象である異性を探す元気も無い、そういう味でしょうか。全⾝的な不定愁訴(捉えどころの無い漠然とした体調の悪さ)があり、それに伴って匂いが判りにくくなったら、このデプレッションも考慮すべきです。

嗅覚障害の検査法として、⽢い匂いやこげた匂いなど、5種類の基準臭を濃度別に紙⽚に付け被験者の⿐⼊⼝部に提⽰し、匂いが判るかどうか判定する⽅法があり、オルファクトメーターと呼ばれます。この⽅法は⼿間が掛かりますので、以前はアリナミンを⾎管注射し、発⽣するにんにく臭を嗅ぎ分けさせる、静脈性嗅覚検査が良く⾏なわれました。ところがビタミン製剤であるアリナミン注射液が、⽪⾁なことにそのにんにく臭が強過ぎるとの理由で製造中⽌となり、本法は実施できなくなりました。改善(?)された製剤では、にんにく臭が弱過ぎるのです。

嗅覚障害の治療は、局所疾患による障害が多いことから、嗅粘膜部に薬剤を塗布する⽅法が主です。この薬剤としては、⿐粘膜収縮剤とステロイド剤が使⽤されます。嗅粘膜は⿐内前⽅の⽬と⽬の間に位置しますので、ベットの端に仰向けとなって懸垂頭位をとり、薬剤を嗅粘膜めがけて点⿐します。局所疾患による嗅覚障害ならば、早期開始の本法でほとんどが改善するようです。もちろん嗅覚障害を⻑引かせ、こじらせてしまってからではダメですが。

この嗅覚障害、そんなに重⼤でない疾患のように軽んじられがちですが、その実結構不⾃由です。⾷物がくさっているかどうか判らない、ガス漏れがあって危険な状態でも気が付かない、などの⽣命の機器に関する不便。コーヒーを飲んでも苦いお湯としか感じられない味気なさ、⽇本酒を嗜んでもただ酔っ払うだけの不粋さ。あの⾼価な松茸だって⾹りがなけりゃ…… 。それは単なるきのこになっちゃいますよね。

 

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