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2023年5月 No.339

 

院長のひとりごと

 

 このコーナーは、私個人の自由気ままなひとりごとを呟くコーナーです。

【秋葉 賢也】東北道の菅生PAにスマートICが開通
     (秋葉賢也@akibakenya|ツイッター)

【秋葉 賢也】仙台港のJFEスチール㈱の製造所を訪問
     (秋葉賢也@akibakenya|ツイッター)

【高市 早苗】総務省文書騒動、高市早苗さんが正しかった
     (with ENERGY|サイト)

【中国】長編ドキュメンタリー『影の政府 The Shadow State』
    (大紀元エポックTV|サイト)

【アニメ】アニメ「鬼滅の刃」が教えてくれたこと
 1.日本のアニメにみる“最上の価値”
 2.日本アニメと海外のアニメの決定的違い
   (北野幸伯「ロシア政治経済ジャーナル」|メルマガより一部抜粋)

【医療】難聴児・者に対する私の取り組みについて
 私が書き起こしたエッセイ『マスク装用難聴児・者の困惑に対する医療関係者の理解への反響』が今月号に掲載されました(本旨は4月号に掲載)。
 お読みになられた方は、私がなぜこうした耳の聞こえの遠い難聴児・者への取り組みを行なっているのか、疑問に思う方もいるかも知れません。
 それはひとえに難聴児・者の置かれている“世界”を、大多数を占める耳の聞こえる健聴者に理解して貰いたいという一心から端を発したものです。

 昨今、科学技術の大きな進歩によって人の機能を代替する手段の幅は広がり、より多くの場面で活用できるようになりました。ですが技術の進化に目を向けるあまり、肝心のその技術を用いる人について考えが及ばなくなってしまうという本末転倒な状況のあることも、私は問題視しています。

 特に2020年から流行した新型コロナウイルス感染症の対策として、マスクの常態化が義務付けられるようになりましたが、その反面、表情や口の動きで相手の話している内容を理解する必要のある難聴児・者にとっては、そのマスクがコミュニケーションの重大な障害となっていることを、多くの方が知らないままマスクを装着していたのもその一つだと思っています。
 ご興味があれば、以下の記事などもご参照下さい。

1.大沼直紀先生の特別講義『聴覚障害に携わる方々へのメッセージ』(3443通信 No.329)
2.論文『難聴児に対する水泳指導』(3443通信 No.333)
3.論文『難聴児・者に対する新型コロナウイルス対策マスク装用の影響』(3443通信 No.337)
4.エッセイ『マスク装用難聴児・者の困惑に対する医療関係者の理解』(3443通信 No.338)
5.難聴児絵本『かっぱの太ちゃん』

 さて、お話を戻しますが、私がこうした啓蒙活動を続けることになったそのきっかけは、とある二つのご家族との出会いでした。
 一つは、先天性の難聴を患い2012年に開院20周年記念の折に出版した難聴児絵本『かっぱの太ちゃん』のモデルとなった北野太造さんとの出会い(詳しくは絵本をご覧下さい)。
 もう一つは、耳鼻科医として仙台で開業していた私の祖父・桂の元へ診察に訪れた岡 準造さんのご一家でした(2021年に準造さまはご逝去)。
 この二つの家族との出会いが、私の生涯を掛けた難聴児・者への取り組みへと繋がっていったのです。

 その時の経緯については、先に述べた開院20周年記念パーティーにご招待した岡 康子さまから頂いた御礼の手紙に詳しく書かれていたので、ご紹介させて頂きます。
 ちなみに、文中にある桂先生とは私の祖父、佑(たすく)先生は私の父です。

「私と三好耳鼻科医院との係わりは、戦後間も無く山形から仙台の中杉山通りに引っ越してきた中学生時代、戦災で医院が焼けた後、北一番丁で開業されていた桂先生に中耳炎の治療で妹・弟をも含めてお世話になったことから始まりました。子ども心にもいつも穏やかで優しく町医者の模範のような先生と、明るく親しみやすい婦長さんの居られる医院が印象的でした。
 東三番丁に病院を建て直されてからは、佑先生に父が鼻の手術で、長女はアデノイドの手術でお世話になり、次女の暁子が難聴と判明してからは、滲出性中耳炎の治療やその後の相談にものっていただきました。

 暁子が入学した時に『難聴児を持つ親の会』に入会(後に、準造さまが会長に就任)し、多くの難聴児の親達と交流していく間に、障害者となってしまえば医療からは見放された存在で、教育でしか子どもの障害を救えないことを知らされました。当時の聴覚障害者のコミュニケーション手段は、口話か手話、筆談でした。
 補聴器の有効利用が少しずつ広まってきた時代にヒアリングセンターに通っていた娘は、聾学校ではあまり賛成していない補聴器の装用の訓練をして、地域の小学校に受け入れてもらいました。佑先生は長年聾学校の校医をされ、教育成果が上がらない聾教育のあり方に憂慮されておいででした。

 当時アメリカなどでは使われるようになった補聴器を取り入れた教育を、日本ではいち早く岡山大学の耳鼻科が岡山市立内山下小学校に難聴児のための補聴学級を設けて試みた結果、成果が上がっているのを見聞され、宮城県内にも取り入れるべくご苦労されました。東北大教育学部の聴覚・言語欠陥学教育の先生と、ヒアリングセンターや木町通小学校内に補聴訓練施設を設置させるのにご尽力くださいました。その後、この聴覚・言語欠陥学教室で電気通信研究所の比企先生の応援と補聴器会社の協力を得て、両耳に耳掛け式補聴器をつける実験台に娘や親の会の3~4人の子どもがなりましたが、佑先生は子どもの耳を守る為に反対なさいました。
 補聴器に関しては、当時聾教育の先生や耳鼻科医よりも電気通信工学関係の専門家の方々の考えが先行していたと思いました。

“何故、人の耳は二つあるのか、首から上にあるのか”の基本を満たして、弁当箱大からより小型化した耳掛け式、耳穴式、更には埋込み式の補聴器へと、教育の場では聴力型に合わせ強い音を片方で聞くより耳を傷めない音で、両耳装用の方が音や言葉を聞き分ける点で良い事がはっきりして、この40年間にめざましく改良され、装用も眼鏡のように一般化してきました。

 宮城県が他県に先駆けて子どもの両耳装用の補聴器を福祉で認めていただけるようになったのもヒアリングセンターの存在があってのことと感じております。
 彰先生は、障害児・者を、医者と患者の立場で接するのではなく、一人の対等な人間として痛みをもって接してくださり、特に聴覚障害のためには、生き辛くしているコミュニケーションの問題にも身を投じてくださいました。聴覚障害者の団体は、同じ障害でも聴覚をなくした年代、育った学校によって一緒になれず、お互いを理解せず偏見を持ち、同じ目的であってもばらばらな活動をしていました。県の障害福祉課へお願いに出向いても、障害者団体としてまとまっていないことで苦情を言われ、お願いも受け入れてもらえないことが多くありました。

 そこで聾学校PTA、難聴児を持つ親の会、中途失調者の会、難聴青年の会、聾協会といった団体の役員を年に何回かご自宅に集めて、情報の交換や『耳の日講演会』など一緒の行事を持つことを提案し、団体間の融和を図って下さいました。
 全国的な視野で、聴覚関係で話題になっているホットな講師を、聴覚障害者の為を思い私財を投じて呼んで下さり、何度も勉強の場を設けていただきました。時を経てみると、医者が見放してしまった障害者に対し、ご自分の立場を悪くしてまでご支援いただいていたことが分かり、ただただ深く感謝申し上げるばかりです。

 彰先生の聴覚障害児・者に対するこうした暖かいお気持ちは、一代目のお医者さんには無い、二代三代と続いた耳鼻科医の家系だからこそ培われた得難い感性が基になっていると感じておりました。
 これからも耳鼻科の専門医として、いつも明るく暖かく人を包み込む先生として、益々のご活躍と貴医院の繁栄、そしてご健康とを祈念しております」

 多くの医師は、病気自体には高い感心を持ちますが、重要なことはその病気を患った患者さんがどうありたいかということではないかと、私は一人の人間として、また医療に携わるいち耳鼻科医として、これからも精進していくつもりです。

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