3443通信 No.370
耳のお話シリーズ49
「あなたの耳は大丈夫?」27
~大沼直紀先生(筑波技術大学 名誉教授・元学長)の著書より~

私が以前、学校医を務めていた聴覚支援学校。その前身である宮城県立ろう学校の教諭としてお勤めだったのが大沼直紀先生(筑波技術大学 名誉教授)です。
その大沼先生による特別講演の記事『聴覚障害に携わる方々へのメッセージ』(3443通信No.329~331)に続きまして、ここでは大沼先生のご著書『あなたの耳は大丈夫?』より、耳の聞こえについてのお話を一部抜粋してご紹介させて頂きます。
ベルとヘレン・ケラー、そして耳の日
▼グラハム・ベルと聴覚障害
電気的な補聴器が開発される歴史の始まりは、アレキサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明した1876年であるといわれます。
補聴器に限らず、音声を伝えるために開発されたあらゆる機器の原理が電話にあるわけです。いうまでもなく、電話のもたらしたテレ(遠隔)コミュニケーション革命のおかげで、現在の高度な情報化社会があります。
しかし、ベル自身は電話がきらいであったと伝えられています。電話を発明したことに対して、少しとまどいがあったようです。
なぜならば、ベルのお母さんは聴覚障害者だったからです。そして母親だけでなく、ベルの最愛の妻もまた、聴覚障害者でした。
電話の発明は耳の聞こえる者と聞こえない者との決定的な情報収集力の格差を作り出し、愛する者たちに寂しい思いをさせるという皮肉な結果につながったのです。
しかし、その後100年以上を経て、ようやく電話を使って聞いたり話したりできる聴覚障害者が育つようになったのもまた、ベルのおかげといってよいでしょう。
ベルは聴覚障害児の教育と研究に、電話の発明で得た莫大な財産のほとんどを投入しただけでなく、自ら聞こえと言葉の教師となって一生を捧げたのでした。その意思は今でもアレキサンダー・グラハム・ベル聴覚障害者協会の主宰する、聴覚障害に関する国際会議や学会誌の出版などに受け継がれています。
▼人間の声を記述する視話法
ベルは16歳の若さで、すでに聴覚障害児のための教師生活を開始しています。24歳のときにはボストンなどの聾学校で、新しい発音指導を実践し始めました。教え子のメイベルと結婚したのは1877年、ベルが30歳のときです。
聴覚障害者が話せるようになり、耳の聞こえない者も、一緒にコミュニケーションできるようになることに、一生を通じて貢献したのがベルでした。当時は、耳の聞こえない聾者は言葉が話せないものと思われていたのです。
ベルの父親は音声学者でしたが、テープレコーダーのない時代ですから、なんとか人間の声をうまく記述できる記号はないかと考えていました。現在の外国の辞書にある、国際的に共通する発音記号の原形を作ろうとしたわけです。
そこで思いついたのが、発音するときに使われる口蓋、舌、唇、喉、鼻などの形を記号化し、組み合わせて記述する方法でした(図41)。
聾学校の教師の道を歩み始めた息子のベルとともに、これに改良を加えてできあがったのが「視話法」です。

図41
記号の示す通りに口の中の形を作り、声を出せば、正しく発音できるというものです。
ベルが単なる発明家、お金持ちではなく、ずっと聞こえと言葉の教師であり続けられたのは、その父と、聴覚障害者でありながらもコミュニケーション能力が高く、残った聴力を活用してピアノの演奏もできた母、そして、教え子から一生の伴侶となった、やはり聴覚障害者の妻メイベルがいたからに違いありません。
▼ヘレン・ケラーとベル
耳が聞こえない、言葉を話せない、目が見えない。このようにたいへんな障害を背負ったヘレン・ケラーが、後日みんなが知るようなめざましい成長を遂げたのは、ベルのおかげであったということも、あまり知られていない話です。
1894年、ヘレン・ケラーのこれからの教育の相談を受けたベルが紹介したのが、あのアン・サリバン先生だったのです(図42)。

図42
▼耳の日とベル
3月3日を耳の日と決めたのも(1954年)、3という数字が耳に似ていて、しかも語呂がいいからという理由だけではありません。ベルの誕生日、1847年3月3日を祈念したものでもあるのです。
1879年に、ベルはオージオメーターの原形となる聴力計を考案し、周波数ごとに音の強度を正確に出せる装置を制作しました。
このおかげで、今までまったく聴力がないと思われてきた聴覚障害者にも、残存する聴力があることが明らかになったのです。その後、音の強度を相対的に示す単位は、ベルの名前をとってデシベルと決められました。
▼ベルの訪日
ベルは1898年(明治31年)に日本を訪れています。東京、京都などで講演を行ない、日本の盲聾学校は盲学校と聾学校に分けるほうがよいこと、聴覚障害児には早期教育が重要であることなどを演説しました。これらの事柄は、その後すべて実行に移されています。
そもそもベルの訪日のきっかけを作ったのは、後に有名な教育者となった伊沢修二でした。伊沢はまた、ベルの電話発明を公開するとき、英語でしか通話できないのではないかと疑問を持たれないよう、日本語の通話相手を務めてもいます。その直後に、いち早く日本には電話が輸入され、普及し始めるのです。
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