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3443通信 No.375

 

台湾クルーズの旅
~偉人たちと飲水思源(その2)~


 前号に引き続きまして、2025年の年末年始にかけて参加してきた台湾クルーズにちなんだ話題です。
 前号では、戦前・戦中にかけて台湾に巨大水利施設を建設した八田與市技師(図1)、それと干ばつに喘ぐアフガニスタンに命の用水路を引いた中村哲医師(図2)のエピソードをご紹介しました。

図01 八田與一技師 図02 中村哲医師
 図1 八田與市技師          図2 中村哲 医師


 そして、これら近代のお話から遡ること2000年前。古代中国において自然の理を生かした灌漑施設・都江堰(とこうえん。図3、4)が建設され、それによって豊かな穀倉地帯が生まれたことで後の三国時代の大国・蜀の発展を大いに支えたこと。そうした繁栄の裏には、今では当たり前に手に入る水を求めて、多くの人たちが塗炭の苦しみを味わった歴史的な事実を忘れてはならないという「飲水思源」の教えについて触れました。
 今回は、その「飲水思源」の教えを実践した、一人の人物についてご紹介させて頂きます。

図03 四川省の都江堰 図04 飲水思源の碑
 図3 中国四川省の都江堰           図4 飲水思源の碑


恩返しに生きた名誉教授
 読者の皆さんは、地元仙台に思源寮という施設があったことをご存じでしょうか? 前述の諺「飲水思源」から名付けられた思源寮は、物価高で生活に困っている中国からの若い留学生たちの生活支援のために建てられた私設の寮です。通常の半額という破格の家賃で受け入れ、留学生たちの勉学を物心ともに支えたそうです。

 その思源寮を創設したのが、菅野俊作先生(東北大学名誉教授)でした。

 菅野先生は、1921年に『おしん』とスイカで有名な山形県尾花沢で生まれました。幼少期から凶作に苦しむ農家の窮状を見て育ったことがきっかけとなり、東京高等農林専門学校(現農工大学農学部)に進学します。
 その頃、アジアを取り巻く現状は、欧州列強による植民地化として支配下にあり、自主独立の火種が燻り続けていました。
 その火は、日本によるアジアの繁栄を目指す“大東亜共栄圏”を掲げたことで勢いを増し、日本と米英との関係は急速に悪化していきました。

 菅野先生も、そうしたアジアの独立と繁栄を夢みた一人でした。

 理想に燃える菅野先生はすでに日中戦争の真っ只中にあった中国に単身で渡り、上海の東亜同文書院大学(図5、6)に入学します。
 大学在学中の4年間に菅野先生は、着の身着のままで中国各地を巡ります。時には体の汚れを川で洗い、農家の人から借りたシラミ塗れの布団に寝て、現地の人たちと積極的に交流しながら中国各地の実情をつぶさに見て回りました。ついには内モンゴルで相撲を取るなど現地文化に溶け込む努力をされました。

図05 図06 大学の外観
 図5         図6 大学の外観


 そんな菅野先生の努力を嘲笑うかのように、日本の情勢は深刻さを増していきます。
 そして、ついに日本は米英と戦争に突入します。緒戦の勢いのままに戦線を拡大した日本軍でしたが、徐々に物量差から各地で苦戦を強いられていきます。戦力不足を補うため、菅野先生たちのような学生を動員する学徒動員令が発布され、菅野先生は学徒兵としてフィリピンに派遣されてしまいます。
 すでに戦況がひっ迫していたフィリピンでは、その時すでに激しい戦闘によって日本軍に多大な損害が発生していました。菅野先生は少年飛行兵を教育する教育飛行隊の所属だったため、前線に出る機会は限られていたそうです。それでも米軍の攻撃によって所属基地は大きな被害を受けたため、マレーシアへの転戦が決定されます。

 しかし、急な命令変更によって乗船する船団と合流できず、別ルートでシンガポールへと渡ります。
 この時、もし当初の予定通りにマレーシアに向かっていたら、米軍の攻撃を受けて1人を除いて戦没するという悲劇に見舞われていたのだと、後から知ったそうです。
 その後も戦況は覆ることはなく、菅野先生はマレーシアの飛行場で日本敗戦の報に触れます。捕虜となった菅野先生たちはマラッカ海峡にある無人島へと移送され、そこで7カ月間のサバイバル捕虜生活を送ったのだそうです。
 この時の経験が、東北大学での原始採取経済の講義に役立つことになるとは、思ってもいなかったとのこと。

 菅野先生が祖国日本の土を踏んだのは、終戦から1年後の1946年のことでした。派兵された当時の仲間たちは誰一人として生きては戻らず、菅野先生だけがまさに“お釈迦様のクモの糸”を手繰り寄せて帰国されたのでした。
 戦争中に東亜同文書院大学を卒業していた菅野先生は、専攻生を経て東北大学大学院に入学されます。そこでは日本資本主義と農業問題の研究と同時に、中国経済についての講義も担われていました。

 多忙な毎日を送る菅野先生の胸中には、中国の人々に対する戦争被害という消えない傷の記憶がありました。

 ――なにか出来ることはないか。

 そう考えた菅野先生は、宮城県日中友好協会理事長を務めるなどの日中両国の民間交流に尽力されました。そして東北大学を定年退官後、私財を投じて仙台市八木山の自宅敷地内に「思源寮」を建設したのです。

 思源寮では、10年間で30人以上の中国人留学生たちが生活を共にしながら勉学を修め、そして巣立っていきました。
 彼らは口をそろえて「菅野先生のことは忘れない」と語ったそうです。

 それでも、菅野先生の良心の呵責が消えることはありませんでした。

 それが分かったのが、1998年に中国の国家元首である江沢民主席が来日した際のエピソードでした。江主席が中国の思想家・魯迅の学んだ東北大学を訪れた際、その夕食会に参列した菅野先生はおもむろに席を立つと江主席の傍に立ち、「おゆるしください」と二度、頭を垂れたそうです。
 そしてまるで本懐を遂げられたかのようにその翌日、菅野先生は急逝されました。

思源寮との繋がり
 私がこれまで、中国各地でアレルギー疫学調査を実施してきたことは何度も述べていますが、その背景には思源寮でお世話になった中国人留学生の存在が欠かせません。

 ある時、菅野先生からアルバイトとして、夏(しゃ)さんという中国人留学生を紹介されました。
 私は、それまで蓄積していた膨大なアレルギー疫学調査の手書きのデータを、夏さんに集計して貰いました。今のように高性能パソコンのなかった時代のことです。すべて手書きで書かれた何百枚にも及ぶデータを、夏さんはコツコツと集計してくれました。
 私は集積されたデータを基に分析を行い、それが今日までの研究発表の土台となってきました。夏さんには今でも感謝の念に堪えない思いで一杯です。

 それだけではありません。実は夏さんのお母さんは中国の医科大学(西安医科大学、昆明医学院。図7~10)の教授をしており、その伝手があったからこそ現地大学生を対象にしたアレルギー疫学調査が実現したのです。夏さんには足を向けて寝られません。
 このように、中国における普通ならば実現困難なアレルギー疫学調査を実施できた背景には、こうした中国人留学生との繋がりがあってこそのことでした。

図07 西安医科大学前で(1999年) 図08 西安医科大学にて
 図7 1999年に訪れた西安医科大学      図8 健診の様子

図09 昆明医学院前で(1998年) 図10 昆明医学院にて
 図9 1998年に訪れた昆明医学院       図10 健診の様子


 2005年、私の医学コミック出版記念講演会で座長を務めていただいた今野昭義先生(元秋田大学助教授・元千葉大学教授。図11)は、その壇上で「三好先生は、日本よりもアレルギーの少ない中国において、長期間のコホート調査を行うことによって、現在の日本で問題になっているアレルギー疾患急増の真因を把握できるかも知れない」と、著者らの仮説の立証に大きな力を与えてくれました。
 残念なことに、日中を取り巻く政治情勢の変化によって、長期にわたるコホート調査は中断せざるを得なくなってしまいました。もし実現していれば、私たちはアレルギー急増の真因を突き止めて、その発生を未然に防ぐことが出来ていたかも知れませんね。

図11 記念講演会での今野昭義先生(今でも年賀状のやりとりは続いている)
 図11 記念講演会での今野昭義先生(今でも年賀状のやりとりは続いている)


留学生小噺“ノリ違い”
 夏さんとは別の留学生のお話ですが、とても印象に残った小噺をひとつ……。

 その方は楊(さん)さんという夫婦で来日した中国人留学生で、夏さんの例にもれず思源寮でお世話になっていました。
 在学中に子宝に恵まれた楊さん夫妻は、生まれたばかりの娘さんに、恩のある仙台の地にちなみ広瀬川から一字を貰って広子ちゃんと名づけました。

 私の娘の慈と年が近かったこともあり、一緒に遊んだことが昨日のことのように思い出されます(図12)。

図11 楊広子ちゃん(左)と著者の娘の慈(右)
 図12 楊広子ちゃん(左)と娘の慈(右)


 やがて、楊さん夫妻はドイツのレーベンスブルグ大学に派遣されることになり、仙台を去ることになります。私は後年、楊さんを訪ねてドイツに行ったことがあります。その町には雄大なドナウ川がとうとうの流れる風光明媚な町でした。
 その折に耳にしたお話なのですが、楊さんたち留学生がドイツに渡った後、日本に残った仲間の寮生が心配して国際電話を掛けたそうです。

 仲間の寮生がこう問いました。

「なぁ、そちらで足りない物はあるかい?」

 ドイツに居た留学生はこう答えます。

「こっちには海苔(のり)がなくてね。困っているよ」

 そんな仲間の想いを汲んだ寮生は、ヒッチハイクを繰り返しながら遠くヨーロッパのドイツに赴きます。そして寮生はおもむろに、運んできたある物を楊さんに手渡します。
 その手には、大事そうに抱えられたたくさんの“ノリ(接着剤)”があったそうです。

 今のようにメールのような文字でのやりとりが簡単にできる時代ではありません。国際電話は短時間でも高額になるため、会話はそれこそ簡潔に伝える必要がありました。
 今回はあまりにも簡潔に伝えすぎたために起きた、あまりにも“ノリ”違いのお話だったようです。
 おそまつ。

台湾ツアー・スナップ集
 ここからは本題に戻って、台湾クルーズツアーで撮影した写真をご紹介したいと思います。

海の玄関口・基隆港(きーるんこう)
 私たちの乗ったクルーズ船飛鳥IIは、約2日をかけて台湾第2位の港湾である基隆港に到着しました(図13~15)。
 この港の歴史は17世紀ごろにスペインが一部の土地を領有していた時代に遡ります。陸と海の玄関口として整備されたのをきっかけとなり、その後の清朝統治時代の欧州列強によるアジア進出によって発展を遂げてきました。
 そして、日清戦争の終結後に日本が台湾を統治する時代になると、基隆一帯を含めた大規模な港湾建設計画が実施されます。
 当初、5期計画で進められた本計画は太平洋戦争によって一時中断されますが、戦後復興によって一気に発展を遂げ、台湾随一の港湾都市へと変貌することになります。

図12 図13
 図13 飛鳥IIの航路                図14 基隆港に入港

図14
 図15 ”基隆港”と書かれた看板


台北最古の寺院・龍山寺
 基隆港に寄港した私たちは、オプショナルツアーである台北観光に参加しました。この艋舺龍山寺(もうこうりゅうざんじ)は、1738年に福建省から渡来した人々によって創建された台北最古のお寺です。台北101、国立故宮博物院、中正紀念堂に並ぶ台湾四大観光名所の一つとして、多くの観光客が訪れています。
 ご本尊は観世音菩薩ですが、道教や儒教などのさまざまな宗教が習合しており、境内には孔子や関帝(三国時代の蜀の猛将・関羽)、媽祖といった大小合わせて100以上の神々が祀られています(図16~25)。

図15 龍山寺 図16
 図16 龍山寺の門              図17 境内行事のタイムスケジュール

図17 図18
 図18 赤と金が目に映えます         図19 大きな提灯

図19 図20
 図20 お香を焚いています        図21 黄金に光り輝くご本尊 

図21 図22
 図22                    図23

図23 図24
 図24                    図25


中正紀念堂(ちゅうせいきねんどう)
 この施設は、台湾の初代総統である蒋介石の死去を悼むために建設されました。様式は中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用され、喪に服した白と黒の色調の本堂は高さ70メートルにも及んでおり、その正面は西の中国大陸を臨むようになっています。
 八角形の屋根は、孫文が唱えた八徳(忠、考、仁、愛、信、義、和、平)を象徴しており、また遠目から本堂を見ると「人」の字が重なり天に達しているような形をとっていることから、「天人合一(天と人がひとつになる)」を表しているそうです。

 アーチ状の入口から入ると天井の高いメインホールがあり、その奥には高さ6.3メートルの蒋介石を模した銅像が鎮座しています。背後の壁には蒋介石の政治理念であった「倫理、民主、科学」の文字が刻まれています(図26)。

図25
 図26 笑顔の蒋介石の像


 そのほかにも、蒋介石に関連する資料や写真、調度品など(図27~43)が展示されており、それまで思い描いていた蒋介石という人物のイメージが、より確かな形になっていくような気がしました。

図26 図27
 図27 案内図    図28

図28 図29
 図29                    図30

図30 図31
 図31                    図32

図32 図33
 図33       図34

図34 図35
 図35 蒋介石と妻・宋美齢   図36 執務室

図36 図37
 図37                    図38

図38 図39
 図39 蒋介石の愛車キャデラック        図40

図40 図41
 図41       図42

図41
 図43


 館内を見学後、紀念堂を出たところで広場を一望(図44、45)。
 この建物は地面から89段の階段を登った先に建てられています。その景色も見事ですが、この89段の階段には意味があり、蒋介石の享年と同じ数に合わせているそうです。

図42
 図44

図43
 図45


 その後は船へと戻り、出航とともに暮れなずむ基隆の街並みをゆっくりと見回しました(図44~47)

図44 図45
 図45                     図46

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図47
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