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3443通信 No.378

 

このたび宮城耳鼻会報(93号)に『三好彰:飲水思源に命を懸けた偉人たち』が掲載されました。

エッセイ『飲水思源に命を懸けた偉人たち』
(宮城県耳鼻会報 93号)

三好 彰(三好耳鼻咽喉科クリニック)


 著者がこれまで、我国のみならず中国や世界各地において延べ1万例近くの被験者に対してアレルギー疫学調査を施行してきたこと。その事実を、本誌の読者はすでにご承知のことと存じます(エッセイ『アレルギー疫学調査の思い出』を参照)。
 それらのデータをまとめて解析し、導き出された答えを基にして著者は研究発表を行ってきました(エッセイ『チベットにおけるスギ・ヒノキ植生と感作』を参照)。

 その中で、重要な役割を果たしてくれたのが、東北大学名誉教授である菅野俊作先生からご紹介頂いた、ある中国人留学生です。
 その留学生は夏(しゃ)さんといって、菅野先生からアルバイトとして著者のクリニックを紹介されました。
 夏さんは、菅野先生が作られた中国人留学生が暮らすための「思源寮」に住まいながら、著者の下に通って膨大な手書きの生データの集計と分析を行い、それらが今日までの著者の研究発表のベースとなっています。
 現在のように高性能パソコンのない時代のことですから、その当時の夏さんの苦労は計り知れないものがあったと、今でも感謝の念に堪えない思いです。

 以前報告しましたように、著者は南京医科大学から3人の弟子を迎えて日本そして英国での留学中の研究と生活を支援しました。彼らは日本の大学の学位を習得し、中国へと帰国。今では大学の主任教授になるなど八面六臂の活躍をしています。

 著者は、彼ら中国人留学生との思い出を振り返るとき、菅野先生の作られた思源寮の由来について思いを馳せます。
 この寮の名前にある“思源”という言葉には、古代中国のことわざに由来している事実を、皆さんは御存じでしょうか。
 そのことわざは、古代中国から伝わる「飲水思源(いんすいしげん)」(図1)という言葉です。

図01 飲水思源の碑
 図1 飲水思源の碑


 意味は読んで字のごとく。「水を飲む者は、その源に思いを致せ」――となります。つまりその水がどこから来て、誰のどんな苦労と知恵によって私たちの元へ届いたのかを、決して忘れてはならないという教えでもあります。
 それがやがて、「井戸を掘った人の労苦を思い、恩に報いる心を忘れぬように」という解釈がされ、広く知られるようになりました。

 現代の著者らにとって、水はあまりにも当たり前の存在です。水道の蛇口をひねれば、透明で清潔な水が無限に流れ出す。スーパーやコンビニの棚にはミネラルウォーターがズラリと並び、喉が渇けば何の苦労もなくその欲求を満たすことができます。
 しかし、この「当たり前」は、決して簡単なものではありませんでした。
 文明の発展によって、自然の恵みだけでは解決されない要求をも、人間は知恵を絞り、命を賭し、幾世代にもわたる努力を重ねて初めて「当たり前」に水を入手することが出来るようになったのです。
 旱魃に苦しむ大地、洪水に飲み込まれる村落、病を運ぶ汚れた水――そんな過酷な現実を乗り越えるために、数え切れない人々の汗と血と涙がありました。

 ここでは「飲水思源」の言葉の実践つまり、人類の発展に欠かせない“水”にまつわる二つの大きなエピソード。それも日本人のそれをご紹介します。

 一つは、戦前・戦中の台湾で「東洋一の水利施設」と称された烏山頭ダムをはじめとする大規模灌漑事業を成し遂げた日本人・八田與一(はったよいち。図2)技師の物語。

図02 八田與一技師
 図2 八田與一技師


 そしてもう一つは、遠くアフガニスタンの不毛の大地に用水路を建設し、現地の人々への希望の水を届けた中村哲医師(図3)の軌跡です。

図03 中村哲医師
 図3 中村哲医師


“神の水”をもたらした日本人技師
 まず、八田與一技師についてご紹介します。
 1886年、石川県金沢市の農家の五男に生まれた八田少年(図4)は、とても活発な少年で地元のガキ大将だったそうです。
 そんな八田少年も成長し、東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府の技師として台湾に渡ります。
 当時、台湾は日本の統治下にありました。民政長官・後藤新平による伝染病予防対策が重点的に実施されており、八田技師は衛生事業の一環として台湾南部の上下水道の整備を命じられました。

図04 青年時代の八田技師
 図4 青年時代の八田技師


 八田技師は現地調査の中で、台湾南部の嘉南平原(香川県ほどの広さ)が直面する洪水、干魃、塩害の三重苦に苦しむ正に「不毛の大地」という厳しい現実を知りました。雨季には川が氾濫し、乾季には水が枯れ、農民たちは長時間かけて遠くの河川から水を運ばなければならず、井戸水もヒ素が混入していたために風土病が蔓延する原因となっていました。
 水不足に苦しむ現地の人たちの苦しみを痛感した八田技師は、どうにか打開する術はないものかと頭を悩ませました。そして、その解決策はたった一つしかありませんでした。

 調査結果をまとめた八田技師は、嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれる大規模灌漑施設の建設に挑むことを決意します。
 奇しくも、日本では第一次世界大戦による戦争景気にあり、都市部への人口流入による農村の生産量減少や、投機を目的にしたコメの買い占めによってコメ価格が暴騰し、米騒動と呼ばれる暴動が頻発していました。そのため政府は、台湾による一日も早い自給自足体制を確立させる必要に迫られていました。

 そして1920年(大正9年)の着工から10年もの歳月をかけて完成したこの大事業は、まさに「東洋一」と呼ぶにふさわしい規模となりました。建設された烏山頭ダムは貯水量1億5千万トン、堰堤長1,273mという当時としては破格の規模で、複雑な山稜に珊瑚潭(さんごたん)と呼ばれる美しい人造湖(図5)を生み出しました。

図05 美しい珊瑚潭の景色
 図5 美しい珊瑚潭の景色


 また、嘉南平原に網の目のように作られた総延長1万6,000kmにも及ぶ給排水路網(図6、7)を使って、平原の北を流れる濁水渓と、東の曽文渓から烏山嶺を貫く3,100mの地下トンネルを通じて引き入れられた水は、平原全体に“生命の水”を行き渡らせました。

図06 珊瑚潭から続く用水路 図07 嘉南平原に広がる用水路
 図6 珊瑚潭から続く用水路       図7 嘉南平原に広がる用水路


 その工事には当時最先端の土木機械群が投入されました。アメリカやドイツから大型土木機械(スチームショベル9台、エアーダンプカー100両、蒸気機関車など47種類。図8~12)を大量購入し、ダムの堰堤はアジア初となるセミ・ハイドロリック工法(図13)を採用して土砂を効率的に固め、現地材料を最大限に活用しました。

図08 ドラグインスチームショベル 図09 エアーダンプカー
 図8 ドラグインスチームショベル    図9 エアーダンプカー

図10 ラダーエキスカベーター 図11 スプレッターカー
 図10 ラダーエキスカベーター     図11 スプレッターカー

図12 ジャイアントポンプ 図13 堰堤の構造
 図12 ジャイアントポンプ        図13 堰堤の構造


 また、八田技師は労働者の福利厚生にも徹底的に配慮しました。工事に従事する従業員たちのために宿舎68棟、住宅200戸、学校、病院、娯楽施設を備えた「町」を烏山頭に建設し、「安心して働ける環境なくして、良い仕事はできない」と自らも家族とともに現地で暮らして、工事関係者と寝食を共にしました。
 それでも困難は数知れず立ちはだかりました。烏山嶺のトンネル工事では掘削中に石油ガス爆発事故が発生し、50人もの死者を出してしまいます(工期全体で134人が犠牲になりました)。また、日本本土を襲った関東大震災による予算削減、優秀な従業員のリストラという抗いきれない危機にも見舞われました。

 それでも八田技師が諦めることはありませんでした。
 工事中止も嘯かれるなか、遺族たちからの「死んだ者のためにも工事は続けて欲しい」という声に気持ちを奮い立たせて工事(図14)の陣頭指揮を執り続け、1930年5月10日、ついにダムは完成を迎えます。

図14 堰堤工事の様子
 図14 堰堤工事の様子


 八田技師の手によって放水門が開かれました。
 毎秒70トンの水が平原に流れ込んだ瞬間、現地の人々は「神の水」と呼んで涙を流したそうです。
 この事業により、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯へと生まれ変わり、60万人以上の農民の生活を根本から変えました。米の二期作が可能になり、サトウキビや果物も豊かに実るようになり、その収穫量は工事前の数倍にも及んだそうです。
 その後、八田技師はフィリピン調査に赴く途中、乗船していた大洋丸が米潜水艦の攻撃によって撃沈され、56歳で没します。

 しかし台湾の人々は彼を「嘉南大圳の父」と呼び、ダム脇に銅像と墓碑を建立します。そこでは毎年5月8日の命日には慰霊祭が続けられ、2025年の式典では頼清徳総統も参列し、「八田技師の粘り強く果敢な精神は台湾全土に大きな影響を与えており、その精神は現在に至るまで、台湾のさまざまな分野に大きく貢献している」と讃えたそうです。
 銅像は生前の八田技師の希望通り、偉ぶらない座った姿で、右手を額に当てて考え込む様子を表しています。その姿は工事関係者が良く見た、八田技師の姿そのものだったそうです。

現地を訪れて…
 2025年の年末年始、著者は家族とともにクルーズ船“飛鳥II”に乗船して、八田技師ゆかりの台湾南部の烏山頭ダムを訪れました(下記旅程)。

【旅 程】
 12月26日(金):神戸港から出港。同27日(土)~29日(月)にかけて太平洋上を航海。
 12月29日(月):台湾北部の玄関港である基隆に入港。
 12月30日(火)~1月1日(木):台湾南部の高雄を見学。
 1月2日(金)~4日(日):クルーズの旅。神戸に帰港。

 八田技師に関する書籍を愛読していた著者は、八田技師たちが実際にいた現場に立ち、彼らの手掛けた景色を目の当たりにして、その圧倒的なスケールに言葉を失いました。
 農民たちを苦しめていた荒地はすべて緑の大地へと生まれ変わり、恵みをもたらす満々とした水が珊瑚潭をいっぱいに湛えています(図15~17)。

図15 珊瑚潭
 図15 珊瑚潭

図16 臥堤迎暉と書かれた石碑 図17 煉瓦製の石碑
 図16 臥堤迎暉と書かれた石碑         図17 煉瓦製の石碑


 この景色を見た時、八田技師たちはどのような想いでここに立っていたのか、そして一体どれほどの努力を積み重ねれば、これだけ美しい光景を生み出すことが出来たのか……。現代に生きる著者らには知る術もありませんが、途方もない苦難の道であったことだけは間違いありません。

 珊瑚潭を一望できる小高い丘には、生前の八田技師を彷彿とさせる銅像と八田夫妻の名前が刻まれた墓碑がありました(図18)。
 八田技師が東シナ海で亡くなったことを知った妻・外代樹(とよき)さんは、夫の後を追う様にして、彼の手掛けた烏山頭ダムの放水路に身を投げたそうです。
 今では夫婦そろって、天からこの地を見守ってくれているのかも知れません。

図18 八田技師の銅像と夫妻の墓碑
 図18 八田技師の銅像と夫妻の墓碑


死の砂漠を緑に変える
 次にご紹介するのは、中東のアフガニスタンで中村哲医師(図3、19)が成し遂げた奇跡です。
 中村医師はパキスタンやアフガニスタンで長年らい病に対する医療支援(図20)を続けておられましたが、単なる治療だけでは病やその背景となる貧困の根は解決しないことを痛感します。

図19 緑化した砂漠をバックに 図20 診療を受ける現地の人たち
 図19 緑化した砂漠をバックに         図20 診療を受ける現地の人たち


 何人もの患者を診ても、汚水しか得られない環境では抵抗力のない子供や高齢者はすぐに落命してしまう。まさに焼け石に水で、その水すらまともに得られないという現実に中村医師は医療の限界を突き付けられてしまいます。なぜなららい病は、末梢神経の知覚麻痺のために荒れ地で傷付いた手足の外傷に本人が気付かず、不潔な外界の細菌の体内への侵入のために、人体に腐食が生じるのです(アニメ「もののけ姫」の一場面を思い出してください)。

 ――病気の治療よりも、まずは細菌感染を生じないキレイな水こそが必要だ。

 清潔な飲料水を求めて、中村医師は井戸の掘削事業に着手します。その井戸の数は1,600カ所にも及び、20万人以上の難民化を防いだとされています。
 しかし、それ以上に深刻だったのが旱魃による食料不足でした。
 WFP(国連世界食糧計画)によると、2021年冬にはアフガン国民の半数以上にあたる2,280万人が飢餓に陥り、そのうち870万人が餓死する危険性の高いことを発表しました。
 国の消滅ともいえるこの緊急問題に、中村医師はより大規模な行動が必要であることを悟り、灌漑用水による大地の緑化を計画します。

 それはまさに、自然との戦いでもありました。
 アフガニスタン東部に広がるガンベリ砂漠は、地元では「死の砂漠」と呼ばれる不毛の大地でした。摂氏50℃を超える乾燥した空気。乾ききった大地。水の欠乏が人々の生活を蝕んでいました。
 そこで中村医師は医療活動と並行して、全長25kmに及ぶ用水路の建設を主導しました。不毛の大地を緑化し、現地の人々が「普通の生活」を送れる未来を創る――それが中村医師の夢でもありました。

  2003年に始まった工事は、ヒンズークシ山脈から流れ出るクナール河(図21)の水を分水する形で計画されました。そこでは蛇籠(じゃかご)と呼ばれる金網に石材を詰め込み、それを積み重ねて護岸にするという現地材料を多用できる工法が取り入れられました。

図21 中村医師の活動地域
 図21 中村医師の活動地域


 この蛇籠と呼ばれる技術は、後述する中国四川省の都江堰と呼ばれる古代の水利施設で用いられた技術です。
 ノンフィクション作家である山岡淳一郎氏の著書『炎と水~中村哲と名もなき人たちの旅』(集英社。図22)では、「蛇籠は、紀元前の中国の四川で堰の築造に用いられたのが起源とされ、河川の護岸資材としてアジアに広まった。聖牛は、洪水の勢いを止める仕掛けで、日本の戦国武将、武田信玄の創案といわれる。信玄の勢力の拡大にともなって各地に普及した。川岸に柳を植え、その細かく強靭な根を護岸の石の隙間に張らせて堤を強める柳枝工も、古来、日本で利用されてきた。川端に柳が立ち並ぶ風景は世界中で見られる」と紹介しています。
 建築の素人だった中村医師は、こうした先人たちの教えを徹底的に研究し、用水路の建設に臨みました。

図22
 図22


 また、実際の建設にあたり参考にしたのは、福岡県の筑後川にいまも残る山田堰でした。江戸時代に造られたこの堰は日本で唯一の石畳堰であり、水の力を上手く分散して洪水時にも取水口が破損しないような工夫が随所に用いられています。
 こうした先人たちの知恵から自然との付き合い方を学んだ中村医師は、およそ7年もの歳月を経て、日本語で”真珠“を意味するマルワリード用水路が完成しました。

 八田技師が台湾の平原を沃野に変えたように、中村医師もアフガニスタンの砂漠に希望の水を注ぎ込んだのです。
 ですが、その成功から9年後の2019年。武装勢力に襲われた中村医師はこの世を去ってしまいます。

 あくまで推測ではありますが、用水路に水流を減らされた下流側の犯行(?)と疑念を抱く人も皆無ではありません。

 そうした現地の実情を、写真家・船尾修氏は著書『大インダス世界への旅』(彩流社。図23)のなかでこう語っています。
「そういえば旧市街の中心にはカーブル川が流れているのだが、水量は申し訳程度しかない。これでもまだ水が流れているからマシな方らしく、数年前に旱魃に見舞われた際には完全に干上がってしまっていたという。故・中村哲さんがなぜ大規模な農業用灌漑水路をアフガニスタンに建設しようとしていたのか、その意図は現地を訪れたことのある人なら自ずと理解できるだろう」と。
(カーブル川とクナール川は合流してジャララバードに至り、パキスタンへと流れる。図21の詳細図を参照)

図23
 図21


 中村医師の活動の記録であるドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』(図24)には、その苦労と現地の人々の笑顔が克明に記録されています。祖国を離れ、命を賭して異郷で水を届ける姿は、まさに「飲水思源」の体現と言えるでしょう。

図24
 図24


 著者は、中村医師の成した功績の意味を、後日知ることになりました。
 それは2024年5月のゴールデンウィーク。祝日診療をやっている著者の下へ一人の男性が受診しました。
数日前から左耳の聞こえが悪いと訴える彼は、日本語も英語も話せずパシュトゥー語しか話せないアフガニスタンの男性でした。
 彼の耳の聞こえの悪化は、耳垢が外耳道に詰まったことによる“耳垢栓塞(じこうせんそく)”が原因であることが分かり、著者はさっそく耳洗を行い、本人に耳そのものには問題のないことを告げました。
 安心した様子の彼に、著者は好奇心から思わずこう聞きました。

「Do you know Dr.Nakamura?」

 英語が出来ずとも、著者の言葉の意味を理解した彼は、途端に相好を崩すと、

「Yes!!」

 と、答えてくれました。
 その反応に著者は思わず、

「Oh! You are My Friend!」

 と、彼と固く握手を交わしてしまいました(笑)。

 また、それとは別のお話ですが、2015年に北京の万里の長城を訪れた時のことです。予想以上に急こう配な長城の上で小休止をしていると、二人組の男性が話しかけてきました。
 彼らは口ひげをたたえたアフガニスタンの首都カーブル医科大学の胸部外科医(図25)で、医学交流のために中国を訪れていると話してくれました。

図25 万里の長城にて
 図25 万里の長城にて


 その後、彼らと再会することはありませんでしたが、著者は彼らから「カーブルへも指導に来てくれ」と依頼されています。もしかしてアフガニスタンへ著者が講演に行っていれば、いずれかの地で中村医師と出会い、言葉を交わすことができていたのかもしれません。

古代中国に学ぶ知恵
 さて、これら二つのエピソードは、近代史における偉業でした。
 しかし、それよりも遥か以前、中国において自然の理を生かした大規模な水利施設が建設されていたのをご存じでしょうか。
 それは、中村医師が用水路の護岸に用いた蛇籠の発祥地であり、著者がアレルギー疫学調査で訪れていた中国四川省の都江堰(とこうえん。図1、26)という場所にあります。

図26 四川省の都江堰
 図26 四川省の都江堰


 紀元前256年頃、秦の時代に蜀郡守・李冰(りひょう)とその息子・李二郎(李冰の次男)が人々を率いて建設したこの水利施設は、2200年以上を経た今でも現役で機能し続けている世界最古の灌漑システムの一つです。
 岷山山脈に端を発した岷江(みんこう)の急流を、巧みに制御する都江堰の設計は驚くほど科学的です。現代のようなダムを築かず、自然の地形を活かした「無堰取水」が最大の特徴です。

 まず「離堆(りたい)」と呼ばれる岩山を穿ち、宝瓶口(ほうびんこう)という取水口を造って洪水を分流します。
 次に魚嘴(ぎょし)と呼ばれる分水堤を築き、内江(ないこう)と外江(がいこう)に水を分けて、洪水時の荒れ狂う水流は外江へ、灌漑時は内江へと水を導きます。
 さらに飛沙堰(ひしゃえん)という土砂を自動的に排出する仕組みを考案し、これにより成都平原(川西平原)は洪水の被害から守られ、旱魃時には安定した水が供給されることになりました。

 その様子は、前漢時代の歴史家である司馬遷の編纂した『史記』に記されています。
 そこには、李冰が硬い岩盤を砕くために大火を燃やし、次いで冷水をかけて岩を脆くする引張応力を用いた掘削法について記録されており、彼の「六字訣」(深掏灘、低作堰など)という治水の原則は今日まで守られ、改良を重ねながら人々の命と暮らしを支え続けました。
 そして、約6,700km²にも及ぶ広大な農地が潤い、この地を「天府の国」と呼ばれる豊かな穀倉地帯に変える結果になったこと。それこそが、後の三国時代に“天才軍師”と称された諸葛孔明が大活躍する礎になったのです。

恩返しに生きた菅野教授
 ここで再び、思源寮の創始者である菅野先生のお話に戻ります。
 1921年に『おしん』とスイカで有名な山形県尾花沢に生まれた菅野先生は、凶作に苦しむ農家の窮状を見て育ったことがきっかけとなり、東京高等農林専門学校(現農工大学農学部)に進学します。
 1940年になると、日本とアジアを取り巻く世界情勢が厳しさを増すなか、日本はアジアの繁栄を目指す“大東亜共栄圏”を掲げ、米英との関係が急速に悪化していきました。
 菅野先生は、そうしたアジアの独立と繁栄を夢みて、すでに日中戦争の真っ只中にあった中国へと渡り、上海の東亜同文書院大学(図27、28)に入学します。

図27 図28 大学の外観
 図27             図28 大学の外観


 在学中の4年間に菅野先生は、着の身着のままで中国各地を巡り、時には体の汚れを川で洗い、農家の人から借りたシラミ塗れの布団に寝て、現地の人たちと交流しました。
 そして日本と米英が開戦すると、菅野先生も学徒兵として徴兵されてフィリピンに派遣されます。

 その後、戦況がひっ迫してくると、フィリピンからシンガポールを経由してマレーシアへと移ります。そこで終戦を迎えた菅野先生でしたが、7年間の捕虜生活をマラッカ海峡の無人島で過ごします。この時のサバイバル経験が、後の東北大学における原始採取経済の講義に役立ったと、菅野先生は語っておられました。

 菅野先生が帰国したのは、終戦の1年後である1946年のことです。
 派兵当時の仲間は誰一人として生きて日本の土を踏むことはなく、菅野先生だけがまさに“お釈迦様のクモの糸”を手繰り寄せて、故郷山形へ戻ることが出来たのです。
 従軍中に東亜同文書院大学を卒業していた菅野先生は、専攻生を経て東北大学大学院に入学。日本資本主義と農業問題の研究や、同時に中国経済についての講義も担いつつ、宮城県日中友好協会理事長を務めるなどの日中両国の民間交流にも尽力されました。

 そして東北大学を定年退官後、私財を投じて仙台市八木山の自宅敷地内に「思源寮」を建設しました。
 思源寮では、物価高にある日本での生活に苦労する中国人留学生たちを通常の半額で受け入れて、彼らが十分に勉学できる環境を整えました。
 そこでは10年間で30人以上の中国人留学生たちが生活を共にしながら勉学を修め、そして巣立っていきました。
 彼らは口をそろえて「菅野先生のことは忘れない」と語ったそうです。

 なぜ、菅野先生はそこまで中国人留学生たちを支え続けたのか。
 その根底にあったのは、日中戦争に対する深い償いの気持ちの表れだったのかもしれません。

 それがはっきりしたのは、1998年、中国の国家元首としては初となる江沢民主席の来日が実現した時のことです。江主席が中国の思想家・魯迅の学んだ東北大学を訪れた際、その夕食会に参列した菅野先生は江主席に対して「おゆるしください」と二度、頭を垂れたそうです。
 そしてまるで本懐を遂げられたかのようにその翌日、菅野先生は急逝されました。
 国の将来を背負って立つ若者たちに“恵みの水”を与えた菅野先生は、まさに飲水思源を体現されたその人であったのです。

留学生小噺“ノリ違い”
 最後に、思源寮でお世話になった古い知り合いの中国人留学生について触れたいと思います。
 その留学生は楊(やん)さんという夫婦でした。
 来日中に子宝に恵まれた楊さんは、生まれたばかりの娘に学びの地・仙台を流れる広瀬川にあやかって、広子ちゃんと名付けました。

 彼らはその後、ドイツのレーゲンスブルグ大学に東北大学から派遣されます。
 仙台の広瀬川よろしくドイツを流れる雄大なドナウ川を臨むその町を、著者は1991年に訪れたことがあります。自然の景観に恵まれた街並みで、いまだ幼い著者の娘と広子ちゃんがじゃれあう様に遊ぶ姿(図29)が、昨日のことのように目前に浮かびます。

図29 楊広子ちゃん(左)と著者の娘の慈(右)
 図29 楊広子ちゃん(左)と著者の娘の慈(右)


 今となっては笑い話ですが、楊さんたち留学生がドイツに渡った後、仲間の寮生が心配して国際電話を掛けました。

「なぁ、そちらで足りない物はあるかい?」

 ドイツに居た留学生はこう答えました。

「こっちには海苔(ノリ)がなくてね。困っているよ」

 それを聞いた仲間の寮生は思い立つと、ヒッチハイクを繰り返しながら遠くヨーロッパのドイツまで赴きます。その手には大事に抱えられた沢山の“ノリ(接着剤)”があったそうです。
 今と違ってメールなんてない時代ですから、高額だった国際電話の短い会話から海苔とノリ(接着剤)を聞き間違ってしまったんですね。
 なんとも“ノリ”がよろしいようで。

さいごに
 著者がこれまで、中国における実現困難な官民共同のアレルギー疫学調査を実施できた理由は、こうした中国人留学生たちの存在が欠かせませんでした。
 ご紹介した夏さんですが、実は彼の母親が中国の医科大学(西安医科大学、昆明医学院)の教授をしておられた関係から、現地大学生を対象としたアレルギー疫学調査のセットアップに尽力して頂いた経緯があります(図30~40)。
 そうした人脈を生かして協力を得られたからこそ、本会誌でご紹介してきたような研究成果に繋がって行ったのです。

図30 西安医科大学前で(1999年) 図31 西安医科大学にて①
 図30 西安医科大学前で(1999年)            図31 西安医科大学にて①

図32 西安医科大学にて② 図33 西安の遺跡・兵馬俑
 図32 西安医科大学にて②           図33 西安の遺跡・兵馬俑

 

図34 昆明医学院前で(1998年) 図35 昆明医学院にて①
 図34 昆明医学院前で(1998年)             図35 昆明医学院にて①

図36 昆明医学院にて②
 図36 昆明医学院にて②

 

図37 昆明の樹齢800年(元の時代)の杉 図38 昆明「花の万博(1999年)」会場予定地にて
 図37 昆明の樹齢800年(元の時代)の杉  図38 昆明「花の万博(1999年)」会場予定地にて

図39 昆明市郊外の石林にて 図40 奇岩だらけの石林
 図39 昆明市郊外の石林にて        図40 奇岩だらけの石林


 また、著者とは1976年の秋田大学での出会い以来半世紀お付き合い頂き、2005年に著者の医学コミック出版記念講演会の座長をお務め下さった今野昭義先生(元秋田大学助教授、元千葉大学教授。図41)は、「三好先生は、日本よりもアレルギーの少ない中国において、長期間のコホート調査を行うことによって、現在の日本で問題になっているアレルギー疾患急増の真因を把握できるかも知れない」と、著者らの仮説の立証に大きな力を与えてくれました。

図41 記念講演会での今野昭義先生(今でも年賀状のやりとりは続いている)
 図41 記念講演会での今野昭義先生(今でも年賀状のやりとりは続いている)


 現在、日中を取り巻く政治情勢の変化によって長期のコホート調査は中止となってしまいましたが、もし実現できていれば、著者らはアレルギー急増の原因を究明し、現在の日本をはじめとするアレルギー疾患増加の真因を突き止め、その発生を未然に防げていたのかも知れません。

 ここまで中国のことわざである飲水思源と、その言葉の意を体現してきた菅野先生や八田技師、中村医師、そして中国人留学生たちのエピソードをご紹介してきました。日々、発展した先端医学に基づき多忙な外来診療に身を投じる著者ら医療関係者にとっても、時に「飲水思源」、つまり「病者が何にどんなに困っているのか、その原因は何なのか、それを解決するにはどうすべきか」など、先人たちの知恵を思い考えを巡らせることも必要となるでしょう。
 とはいえ、広瀬川、クナール川、そして都江堰の“水”を無限に飲み、その最大の恩恵に預かったのは、実は著者自身であったのかも知れません……。


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